第二章 密やかな夜 その五
天空に輝く月はレイメルの郊外にある保養所窓も明るく照らしている。月光に照らし出された保養所のレストランにある小さな窓辺のテーブルは、一年近く長期滞在している男の指定席になっていた。
家族連れで賑わう時間を避けて店に訪れた、その男を見つけた給仕係の青年は、
「足は大丈夫ですか? ガスパーさん。わざわざオラルクの街へ医者に会いに行って転んじゃったら療養になりませんよ」
ガスパーをいつもの席に案内しながら、青年は親しげに話し掛けた。
「そうだね、気を付けるよ。今晩は軽めの食事にしたいけど、シャルル君のお薦めは?」
白い歯を見せて笑いながら、ガスパーは席に着いた。
「それなら羊の肉と季節の野菜を煮込んだ“ナヴァラン”にしましょう」
シャルルと呼ばれた給仕係の青年は大きな目をくりくりとさせて、間髪を入れずに答える。
ナヴァランとは暖かいシチューの様な煮込み料理だ。
「さすが気が効くね。身体が暖まりそうだし、それにするよ」
ガスパーが頷くと、彼は厨房へと早足で歩いて行く。
その後ろ姿を見送ったガスパーは窓の外に目を向けると、静かに息を吐きだした。
魔石灯を使わず蝋燭を用いた照明は、微かに揺らめきながら店内を黄昏色に染めている。落ち着いた店の内装や照明は、ガスパーの心を和ませるのであった。
最初にこの席を選んだのは、彼にとって何の理由も無かった。強いて言えば、店の隅にある窓際の小さなテーブルは自分に相応しい気がしただけである。
訳あって訪れたこの街で耳にした温泉の評判に縋って療養を重ねても、身体から静かに命が流れ出ていくのを感じるばかり。もはや自分にとって残りの人生は、この店に灯る蝋燭の様に短くなっていくのを、ただ指を銜えて待つしかないのだと実感せざるを得なかった。彼の心は絶望という名の闇の中に閉ざされてしまった。
そして季節が変わっても、ひたすら外を眺めるしかない日々が続く。
彼にとっては、花が咲こうが鳥が鳴こうが、心が動かされることの無い闇に包まれた日々が過ぎた。
ある日、いつもの通り味気無い朝食を食べながら外を眺めていると、保養所の前を通る老人と少女の姿が目に入った。その少女に彼の目は釘付けになった。
そこには、彼にとって忘れられるはずの無い、青銀の髪が風に揺れていた。
思わず立ち上がった彼と小さなテーブルには、春の日差しが暖かく差し込んでいた。
ガスパーが物想いに耽っていると、シャルルが料理を運んできた。小さなテーブルに湯気が立っているナヴァランが置かれた時、
「家族連れがこんなに多いと、独りでいるのは寂しいものですねぇ。すいません、御一緒させて下さい」
その男は問答無用でガスパーの席に座って注文をした。
「ああ、美味しそうなナヴァランですね。私にも同じ物を下さい」
「かしこまりました」
元気に返事をしたシャルルは厨房へと小走りに去って行った。
「照明が暗くても眼鏡を外さないのですねぇ。ガスパーさん」
強引に座りこんだ男は、にこにこと笑みを浮かべている。しかし、もしユウがこの場にいたら驚いたことだろう。魔道飛行船の中で冷たい眼をしていた男が、胡散臭い笑みを浮かべているのだ。
「直接会うのは久しぶりですね。モール、何か御用でしょうか……」
モールと呼んだ男と対峙して、急に青ざめたガスパーは唇を噛み締めた。
「おやおや、そんなに緊張をしなくても良いと思いますが……。ふっ、お知らせがありましてねぇ」
モールは薄い笑みを浮かべ、冷たい光をアイスブルーの瞳に宿していた。
「ニコライが二枚羽に捕まっちゃいましてね。今頃、王都の牢屋で洗いざらい喋っているでしょう。まあ、彼が捕まった事で計画が大きく狂うことはありませんが、手間は増えてしまいますね。そこで貴方にお願いがあるのですよ」
シャルルがテーブルに料理を運んでくるのを横目で見て、モールは急に口を閉ざした。
初めて見るお客さんだと思いながら、シャルルはテーブルに近寄った。
「お待たせしました。ナヴァランです」
料理をテーブルに置くと、その場を足早に離れた。
見慣れぬその男と向き合うガスパーの表情が、あまりにも厳しい表情をしていたのである。家族的な雰囲気のする店の中で、この一角だけが冷気を放っていた。
(折角、最近笑うようになってきたのになぁ。ガスパーさん、どうしたんだろう)
アンキセスが連れてきた『ちょい姫』と交流するようになって、彼は少しずつ明るくなってきた。それまでの彼は沈みこんでばかりで、他の誰とも親しく話をすることはなかった。しかし保養所近くの雑木林で『ちょい姫』が魔法の練習をしていると話したら、彼はその様子を見に行き、街の教会へも出掛ける様になった。
今度の見習い精霊師は鈍くさい少女だと評判だったが、ガスパーには以外な効果が有ったもんだと他の従業員の話題にもなっていた。
エアと林で会って戻ってきたガスパーは、まるで父親が出来の悪い娘を心配するように「魔法は私の専門外なんだが――」と言いつつ、いつも楽しそうに専門書を開いていた。きっと彼女の為に調べていたのだろう。彼は打ち解けてみると親しみやすい人物だとシャルルは感じていた。
ところが、見慣れぬ男と同席しているガスパーは、緊張に身体を固くして相手の顔を睨みつけているようだ。
シャルルは顔色の悪いガスパーの事が心配でならなかった。
ナヴァランの羊肉を一口頬張ったモールは、
「美味しいですね、命を食べている感じがします。さて、依頼をお話しする前に状況を確認しましょうか」
相手の返事を待たず、ゆっくりと話を続ける。
「グラセルに潜入して裏切り者を始末したが、設計図等の入手は出来なかった。ここまでの事は、当然貴方は知っていますね。その後、襲った人物が死んだはずのデボスだということで、女王は大慌てだそうですよ。ところが困った事に、この機会に『精霊に黄昏を』と唱える反体制組織を捕える目的で、各都市に不審者狩りの命令を出す様です。そんな組織はない筈ですが、とりあえず反体制派の存在は事実ですからねぇ」
困ったなどと言いつつ、モールは楽しそうな顔をしている。
「何故グラセルの中で騒動が大きくなる場所、選りによって開発重要区画で事を起こしたのか不思議ですねぇ。おまけに反体制組織が存在する示唆をするとは……。そうは思いませんか。ねぇ、ガスパーさん」
ガスパーの顔色を確かめる様に、モールはチラリと視線を向ける。
「……、只の成り行きでしょうかね……」
麻痺をしたように唇が震えるガスパーは、そう答えるのがやっとだった。
モールは口の端を少し上げて、にやりと笑いながら、
「計画にアクシデントは付き物ですから、案外そうかもしれないですねぇ。済んでしまった事を考えても何にもなりませんが、私としては闇商人の看板を守らないとね。そこでガスパーさんには改めてお願いしたいのですが、このレイメルで再度仕事をして頂きたいのですよ。姿を変えられる貴方なら不審者狩りを潜り抜けられますしね」
とても丁寧だが、押し付けがましい口調で話すモールに、
「もう、無理です。私の身体がそれに耐えられる訳がない……」
ガスパーは懸命に断った。
「おかしいですねぇ、お忘れになりましたか。貴方がお断りになったら、ご両親が世界樹を訪ねられることになりますが、よろしいのですか?」
世界樹を訪ねる―― それは精霊信仰のある国では、死を意味する。
世界樹は精霊世界の中心に存在し、その身から精霊王を生み出し、すべての世界を支える存在とされる。トルネリア王国創世伝承においては、精霊の乙女が幽閉された場所であり、『すべての死せる魂は世界樹を訪れ、新たなる旅立ちを迎える』と語られている。
人はその言葉に希望を見つけたり恐れたりするのだが、ガスパーにとっては脅しの言葉であった。
「貴方は私の物なのですよ。貴方が死体になってもねぇ」
ガスパーの両手は固く握り締められ、その身は怒りに震えていた。
シャルルはレストランの仕事が忙しい中、ガスパーの様子を窺っていた。
彼の父は警備兵としてレイメル近くの山岳地にある小さな村に派遣されていた。一年の半分は雪に閉ざされて訪れる人もいない、夏は家畜が魔物に襲われない様に警備する仕事ばかりで、平和な日常を送っていた。
しかし六年前に帝国軍が攻めてきた時、父は数名の警備兵と共に戦って死んでしまった。名誉な戦死と称える人もいたが、家族にとっては大切な人が死んでしまった悲しみは耐えがたいものであった。
ある日、保養所に勤めるシャルルをガスパーが訪ねて来た。帝国の捕虜になり、脱走した後も長い療養生活を送っていた為、訪ねるのが遅くなったと詫びた。そして古びた懐中時計をシャルルに手渡した。その時計にシャルルは見覚えがあった。まぎれもなく父がもっていた品物であったのだ。
ガスパーの話では、彼も父が滞在した村にいた時に帝国が攻めてきたらしい。他の村人と逃げる時に「息子に渡して欲しい」と父に頼まれた、父がいなければ命が無かったかもしれない、とガスパーは深々とシャルルに頭を下げた。
突然もたらされた父の最後の言葉とその様子に、シャルルは人目をはばからずに泣いた。初めて父の死を実感できたのかもしれない。父は誰かを生かす為に死んだ、村人を守る責任を果たして死んだのだと……。そして、生きて父の事を教えてくれたガスパーに感謝した。
そのまま保養所の宿泊客になったガスパーの事を、シャルルは死んだ父の代わりと思い接して来たのだ。
ふと気が付くと、ガスパーはぐったりと座っており、同席していた見慣れぬ男の姿は無かった。慌ててシャルルは小さなテーブルに駆け寄った。
「大丈夫ですか! とにかく部屋で休みましょう。それからシスター・メリルも呼びますから薬を貰いましょう」
疲れきっているガスパーの脇を抱え、シャルルは歩き出した。
人間の“死”そのものに『真実』など存在するのであろうか。
何故死んだのか、それが分かればどんな『理由』でも良いのか。
喪失感を埋める事が出来る理由があれば、それが嘘でも『真実』なのか。
ユウは思い悩んでいた。親友の死に疑問を覚えた為か、彼は再び強い喪失感を抱いていた。
彼はメリルと共に噴水広場に面した食堂『ヴォルカノン』を訪れた。既にその店は営業時間が終わりに近づいているのか、客の姿はなく店じまいを始めていた。
「お帰り、ユウ。お疲れだったね、部屋は風通しがしてあるよ。メリルもいらっしゃい」
木の丸テーブルを拭いていた若い女性が二人に気が付いた。
彼女はエレナといい、二十代前半で店主になった。元々祖父が始めた店であったが、数年前に祖父が亡くなった後にエレナが継いだのだ。そしてこの店の二階にユウは住み着いていた。
「おっ、こんな時間に帰って来やがって。まかない飯で良きゃぁ直ぐに出せるぞ」
調理場からカウンター越しに声を掛けたのは、シェフのカリウスだった。彼は有名なレストランのシェフであったが、喧嘩をして店を辞めたらしい。その後、エレナの祖父と意気投合してレイメルに落ち着いた人物である。現在、彼はエレナの父親代わりを自認している。
「誰が来たのかと思えば、ユウが帰って来たのか。お前が留守にしていた間は俺がバッチリ店を守っていたんだ、褒めてくれよ」
カリウスが作った料理を運んできたウェイターのトロワが少しおどけた表情をしながら話しかけた。
「すまん、思ったより手間取った」
ユウが言葉少なげに謝ると、メリルがすかさずトロワをからかった。
「あらあら~、トロワさんは二十五にもなって子供みたいな事を言いますね~。確か、お嬢さんを守るのは俺だと言っていませんでしたか~」
「そ、そんな事は、その、言っていませんよ!」
赤くなったトロワは慌てて、銀のトレイで顔を隠した。
「そんな事を言ってたの、トロワ。それじゃこれからも頑張ってもらわないとね」
エレナがトロワの背後から声をかけた。
「い、いや、お嬢さん。これには訳が、その」
更にトロワの顔が赤くなる。
「あらあら~、トロワもはっきり言わないからおちょくられるんですよ~」
店の中に和やかな笑い声が広がる。
お帰り――。この店では不思議とその言葉に違和感を覚えないな、とユウは気が付いた。帰る場所とは癒される場所を示す言葉かも知れない、と思った。
そこへ突然、息の上がったシャルルが店に飛び込んできた。
「シスター、ガスパーさんが倒れたんです! お願いできますか?」
「あらあら~、それは大変! まず薬を取りに行きましょう。どんな症状なのか詳しく教えて下さいね」
メリルは素早く立ち上がり、シャルルを伴って慌ただしく夜の街へと走り去った。
夜の帳は全てを覆い隠そうと包み込もうとする。しかし月光は全てを照らし出そう輝いていた。
★作者後書き
読んで頂き、ありがとうございます。
さて、今回で第二章は終了いたしました。悲嘆の魔石師編として重要な話が多かったのですが、結構シリアスな展開になりました。第三章は念願の妖精召喚を含め、楽しみながら話を進めたいと思います。
★更新日時の変更について――次回から月曜更新のお知らせ――
最初に投稿したのが火曜日でしたので、成り行きで火曜更新として参りました。第三章の開始に伴い、月曜日の夜に更新したいと思います。時間は夜八時以降になると思いますが、決められませんので申し訳ありません。
更新の際には、ツィッターに更新情報をツィートさせて頂きます。今後ともよろしくお願いいたします。
★出演者控室
作者「エアさん、明日は試験ですね」
エア「自信は無いけど、頑張ります!」
ミリアリア「私が立ち会いますからね、実技試験もやりますよ」
エア「え~っ! 聞いてないし……」
ユウ「俺も立ち会うのか?」
レティ「当然でしょ。若いのにボケちゃったの?」
ユウ(こいつの口には勝てないからな……)