才能の覚醒
「あのさ…」
相澤が、圭一と雄一のダンスのレッスンを見ながら、隣の明良に尋ねた。
「何です?」
明良が体を乗り出して、相澤に向いた。
「圭一さ…あいつ、クラシックバレエ…やったことあるのか?」
「!?…どうしてです?」
「優雅なんだよ。…姉貴も言ってたけどさ。…なんか基礎がしっかりしてんの。」
「ええ?」
ずっと独学だった明良にはわからなかったが、確かに手先の使い方や、脚先の伸ばし方が相澤の踊りに似ている。
「雄一は体操部にいたって言ってたけど…圭一、何も言ってないか?」
「ええ…。今度聞いてみましょうか。」
「ま、機会があったらでいいけど…。別に悪い事じゃないし。」
「そうですね。」
明良はそう言って、体を戻した。
以前、能田にも「育ちがいいんじゃないか」と言われていたし、初めて2人で食事をした時もマナーができているように思っていた。
(血の繋がっていないお父さんは役所勤めだと言ってたけど…その時のことかな…)
明良は圭一を見ながら、いろいろ考えを巡らせていた。
・・・・・・
「クラシックバレエですか?」
圭一がレッスン室を出た廊下を、バッグを肩にかけて前を歩いている。そしてそう振り向かずに明良に言った。
(おかしいな…)
と明良は思った。人の顔を見ないで話す子ではない。
圭一は、ちらと明良に振り返った。
「…だからなんなんです?」
「いや…社長からそうじゃないかって言われてね。」
「……やってました…小学校6年生まで…」
圭一はまた前を向いて言った。
「そうだったのか…。基礎ができていると社長が褒めていたよ。」
「…そうですか…」
圭一は「すいません。帰ります。」と言い、明良の顔を見ずに頭を下げると、廊下を走り去って行った。
「……」
明良はただ黙って見送った。
……
夜-
圭一は、独り家の中で壁にもたれて、窓の外を見ていた。真っ暗な中、月明かりだけが窓から差し込んでいる。
『クラシックバレエしてたのか?』
明良の声が思い出された。
圭一は声楽家の父親とバレリーナの母親の間に生まれた。小学校6年生の時に父親が破産し、両親は離婚した。
実の父親が破産するまで、圭一は声楽とクラシックバレエの稽古を毎日させられた。その頃は辛い思いもしたが、今、圭一がこうしてタレント事務所にいられるのは、その時の稽古のおかげだと思う。
そして圭一が中学2年生になった時、母が再婚した。
それから圭一の堕落が始まった。
新しい父親と対立し家へ帰らなくなった。その時に知り合った暴走族のリーダーに誘われ、暴走族に入った。
暴走族は、その時の圭一には楽しかった。喧嘩のノウハウを学び、人に迷惑をかけることに優越感を感じた。汚い言葉を使い、煙草を吸い、やりたい放題遊んだ。…今は、それの何が楽しかったのか分からない。
(母さん、どうしてるだろう?)
急に母親のことを思い出した。離婚後、生活苦から公務員の父親と再婚した。とても愛のある家庭とは言えなかった。新しい父親は外面はいいが、家ではずっと威張り散らしていた。時には暴力を振るうこともあった。
家を追い出された時、母親が圭一を追おうとして泣き叫んでいる姿を思い出した。父親はその母親の腕を掴んで、家の中に引きずるようにして入れ、玄関をぴしゃりと閉めた。
・・・・・・・
圭一は両手で顔を伏せた。
「…圭一?いるのか?」
その声に圭一は、はっと顔を上げた。
ドアを遠慮がちにノックしている。
「…父さん…」
圭一はすぐに立ち上がり、鍵をあけた。
明良が立っていた。
圭一は、稽古の帰りに明良に失礼な態度を取ったことを思い出し、少し顔を伏せた。
「どうした?明かりもつけないで。」
明良が心配そうに言った。
「う、うん。…月が出てるから…いいかなって…」
「…そうか。」
圭一の咄嗟の返答に明良は微笑んだ。
「入っていいか?」
「はい!もちろん!」
明良は何かを手に持っていた。それをキッチンにあるテーブルに置いた。
「ケーキ…食べるか?」
「こんな夜に?」
「それもそうだが…」
明良が苦笑した。
「電気をつけるぞ。」
「はい。」
明良は、ひもをひっぱって明かりをつけた。
少し眩しすぎるように感じた。
「圭一…今日、何の日か覚えているか?」
「?…」
圭一は考えたが、思い出せない。
「…忘れているのか…」
明良が少し涙を堪えるような表情をした。
圭一は慌てた。
「ちょ、ちょっと待って!…ええと…副社長と何か一緒にした日?あれ?でも、去年の今日は、僕まだプロダクションには入ってませんけど…」
明良は慌てる圭一の肩を優しく叩いた。
「お前の誕生日だよ。」
「!!!」
圭一は驚いた。…自分の誕生日すら忘れていたのだった。
「19歳、おめでとう。」
明良はそう言って、ケーキの箱を開いた。見ると手作りのように見える。
「菜々子さんが今日、お昼に一生懸命作っていたんだ。」
「!!」
「本当は家に呼ぶつもりだった…。でも、稽古の時お前の様子がおかしかったのと、携帯がつながらなかったから、このケーキを持って、様子を見に来たんだ。」
圭一の目から涙が溢れた。
「よかったら、今からうちに来ないか?」
明良は、涙している圭一に気付いて、そっと抱きしめた。
「…さ、行こう。…菜々子さんがたくさん料理を作って待ってるから。」
圭一は明良の肩でうなずいた。
・・・・・
明良の家で、圭一は食後のコーヒーを飲んでいた。菜々子の手料理とケーキを平らげた後だ。
「専務のごちそう…美味しかったです。」
「圭一君のお口に合って良かったわ。」
菜々子の言葉に、圭一はまた泣きそうになっている。
隣に座っている明良が、そんな圭一の背中を軽く叩いた。
「…今日は泣く日じゃないぞ。」
圭一はうなずいた。
「…お祝いしてもらったの…小6以来やから…」
「!!」
明良と菜々子は驚いて顔を見合わせた。
「…どうして?…何かあったのか?」
明良がそう聞くと、菜々子が「明良さん」と言って首を振った。聞かない方がいいんじゃないかという風である。
明良はぎくりとした表情になった。が、圭一はそれに気づかないように話しだした。
「父が破産したんです。」
「!」
「父はテノール歌手で、母はバレエをしていました。父が音楽学校を作る言うて借金したんですけど、結局手続きとか大変で認可が下りなかったどころか、その借金もいろんな準備や業者の手回しとかに使ってしまって、返せなくなってしもて…。破産して、家も何もかも取りあげられたんです。」
「…そうか…。ごめん…辛いことを思い出させたね。」
明良が、圭一の肩に手を乗せた。
圭一が首を振った。
「それまでずっと僕は、毎日、声楽のレッスンと、クラシックバレエのレッスンをさせられていたんです。…今になってもそれが残っているなんて思ってもなかったから…今日副社長に聞かれた時、びっくりしてしもて。」
「気がついたのは、先輩だ。百合さんも褒めていたよ。」
その明良の言葉に、圭一はうれしそうな顔を明良に向けた。
「…声楽もやっていたのか…」
「ええ。いつ頃からかは忘れたんですけど…。父はスパルタで、小学生の僕に「イタリア歌曲」歌わせるんですよ。もちろんイタリア語で。…意味わからんと歌ってましたけど…。」
「…今でも歌える?」
「え?」
圭一はその明良の言葉に、首をかしげた。
「練習し直したら、思い出せるとは思いますけど…。」
「1度聞かせて欲しいな。…圭一のオペラ。」
「そうね!私も聞きたい!」
「えー…」
圭一は明良と菜々子の顔を交互に見ながら、照れ臭そうに笑った。
「…じゃ、今夜のお礼いうたらなんやけど…明日ちょっと練習してみます。」
「ほんと!?楽しみだわ。」
菜々子が小さく拍手しながら言った。
明良が「レッスン室、1つ空けとくから。」と言った。
「…いつ聞けるのかしら?」
「うーん…」
菜々子の言葉に、圭一は首をかしげて、
「じゃ明日のダンスのレッスンが終わったら。」
と言った。明良は驚いた。
「そんなにすぐに?」
「ダンスで体温まった後やから、声出やすいと思います。」
「社長も呼んでいいかい?」
「え?それは待って下さい…。人数多いと緊張してまうから、副社長達だけがいいです。」
「よし…わかった…。イタリア歌曲の楽譜とかはあるのかい?…あ、後、ピアノの講師も呼んでおかないと駄目だな。」
「楽譜はあります。」
「!…そうか…。」
「でも、僕、別に歌いたい曲があるんです。」
「?…何だ?」
「モルダウ」
「!!」
明良と菜々子が驚いた。圭一が照れ臭そうに言った。
「…僕がこのプロダクションのオーディション受けたの…副社長の「モルダウの流れ」聞いたからなんです。」
「!?…え…あれを!?…はっきり言って、うまいとは言えないぞ。」
菜々子が笑った。
「明良さん、シングル出しといて、うまくないって…」
「いや、だって…。あれ、先輩に無理やり歌わされたからな…。正直、自信はなかったんだ。」
明良が照れ臭そうに言った。圭一は「あれ良かった。」と言った。
「副社長の声…特にモルダウ歌ってる声は…子守唄聞いてるような、気持ちが落ち着くような感じなんです。」
菜々子もうなずいている。
「そうそう!私もそれは思うわ。」
明良は照れ臭そうに、片手を額に当てている。
「でも、圭一のを聞いてしまったら、きっと自分のを聞くのが嫌になるな。シングル廃番にしてもらおうか。」
明良がそう言って笑うと「やめて下さい!」と圭一が笑いながら言った。
「まだ僕の聞いてないのに…。」
「聞かなくてもわかるよ。」
明良はそう言って、圭一の肩を叩いた。
「明日、楽しみにしてるからな。」
圭一はうなずいた。
……
翌日、圭一のダンスレッスンが終わった頃の時間に、明良と菜々子は、声楽レッスン室にいた。
ピアノの講師もスタンバイしている。
「モルダウ歌われるんですね。」
講師が言った。明良は照れ臭そうにうなずいた。
「後『プライド』も頼まれているんですよ。」
その講師の言葉に、明良達は驚いた。
「『威風堂々』のことですか?」
「ええ。エルガーを歌われるそうです。」
「!…『希望と栄光の国』ですね。」
「よくご存知ですねぇ。」
講師が明良に言った。菜々子も驚いた表情で明良を見ている。
「聞いたらわかりますよ。…いや…若い時に歌のレッスンで、クラシックをやらされたことがあったんです。…でも、全く太刀打ちできなくてね。」
「そうなの…。じゃぁ、一層楽しみね。」
「ん。」
明良がそう答えた時、圭一がかばんを担いだまま、入ってきた。
「すいません。レッスンが長引いて…」
圭一は息を切らしている。
「構わないよ。…大丈夫か?歌えるの?」
明良がそう言うと圭一は「ちょっと休ませて。」と言った。
明良達がうなずいた。すると圭一はピアノの講師に向かって言った。
「すいません。モルダウの伴奏のところ、弾いてもらえますか?耳で確かめますから。」
「いいですよ。」
講師がモルダウの流れを引き出した。
圭一は汗を拭きながら、その場にしゃがみ、目を閉じて口ずさんでいる。
すべて終わった時点で、圭一は立ち上がった。
「…じゃぁ…」
明良と菜々子は息をのんで待った。
ピアノが鳴り出した。
…圭一が歌いだした。
……
明良と菜々子は驚きで身動きがとれないほどだった。
圭一の歌声は、18歳とは思えない深みと迫力を持ったものだった。
マイクもないのに、レッスン室の空気の震えまで感じる。
歌い終わった後拍手も忘れて、明良と菜々子は息をのんでいた。
ずっと目を閉じて歌っていた圭一は、目を開き、ふーーーっと息を吐いた。
「あかんわ…やっぱり、肺活量落ちてる。」
圭一はそう言ってその場に座り込み、息を弾ませた。
「!…大丈夫か!?」
明良が思わず言ったが、圭一は「大丈夫です」と微笑んだ。
「まるで別人だな。」
明良がそう言うと、菜々子がうなずいて「ほんと。違う人が歌ってるみたい。」と言った。
「口ぱくやないですよ。」
圭一がそう言って笑った。明良達はその言葉に笑った。
「先生『プライド』の伴奏お願いします。」
圭一のその言葉に、ピアノ講師がうなずいて楽譜を替えた。
『プライド』の伴奏が流れる。圭一は座り込んだまま目を閉じ、またぶつぶつ呟くようにして歌った。
「…じゃ『プライド』いきます。」
圭一がそう言って、立ち上がった。
明良達は、椅子に座り直すようにして待った。
ピアノが鳴り出した。
圭一は歌いだした。英語だ。エルガーの曲をそのまま歌っている。イギリスの第2の国歌とも言われていて、皆聞き覚えのあるものだ。
モルダウとは全く違った迫力のある声が響き渡った。
体中の力を絞り出すようにして、歌う圭一の姿は、本当にテノール歌手そのものだった。
…ピアノが終わった時、明良と菜々子は拍手をした。
圭一は息を弾ませて腰に手を当てると、明良達に背を向けて息を整えた。
「ねぇ…明良さん。」
「ん?」
「圭一君…このオペラでもデビューさせてあげましょうよ。」
「!!」
明良は目を見開いた。どうしてそれを考えなかったのだろうともはや後悔している。
「それはやめた方がいいです。」
その圭一の声に、明良と菜々子が圭一を見た。
「これを本当のオペラ歌手に聞かれたら、失笑されるのがおちです。」
「そうなのか?」
「ねぇ、圭一君。」
「?はい。」
「あなたは、アイドルとしてオペラを歌えばいいのよ。オペラ歌手としてではなくて。」
「!!」
この菜々子の言葉は、明良も驚いた。
「プロには失笑されるかもしれないけど、今の若い子たちにクラシックに興味を持たせるスタンスでいいんじゃない?圭一君をアイドルとしてしか見ていない人が、突然、今のを聞いたら、インパクトがすごくあると思うの。」
明良はその菜々子の言葉に感心したようにうなずいている。
圭一も少し目を見張ったようにして菜々子の言葉を聞いていた。
「ねぇ先生…どうかしら?」
菜々子がピアノ講師に向かって尋ねた。
「私もいいと思います。確かにテノール歌手としてはまだまだかもしれませんけど「ライトクラシック」というような形で歌えばいいんじゃないかしら。…でも歌だからやっぱり「ライトオペラ」かしら…。」
「『ライトオペラ』ね…」
講師の言葉に、明良が少し考え込むようにした。
「…雄一とのユニットも続けたままでいいですか?」
圭一が言った。明良が「そりゃ、もちろん」と言い、
「逆にその方がいいんじゃないか?」
と付け加えた。菜々子が隣でうなずいている。
「…あんまり自信ないけど、やってみたいです。」
「よし。じゃぁ、社長と相談するから、明日も歌う用意をしておいてくれ。先生もいいですか?」
ピアノ講師が、明良のその言葉にうなずいた。
「明日1日空けておきますわ。私も伴奏の練習しなきゃ。」
そう嬉しそうに言った。
・・・・・
翌日 夕方ー
圭一のちょっとしたコンサートが行われた。
相澤、明良、菜々子をはじめ、雄一達、同期生も聞きに来た。
圭一は、かなり緊張している。まさか、雄一達まで来るとは思っていなかったのである。
ピアノ講師が「いい?」と、圭一に尋ねた。
圭一は、1つ息をつくと「はい」と言った。
1曲目は、短いがエドガーの「希望と栄光の国」だった。
いきなりサビから歌いだしたような感じなので、圭一が発声した途端、皆、体を硬直させた。いつもの圭一とは、全く違う深い声に、相澤達が驚いている。圭一が歌い終わると、しばらくその場がシーンとなった。
誰も息を呑んだようになって、拍手をするのを忘れている。
圭一は大きく息をついて背中を向け、息を整えた。
やっと明良が拍手をした。周りが、はっと気がついたように拍手する。
「別人や…圭一ちゃうわ。」
雄一がそう呟いたのを聞いて、圭一は笑いながら、雄一に振り返った。
「僕や、圭一やって。」
圭一が笑いながら言うと、雄一も笑った。
「…びっくりして…言葉がないな…」
相澤が明良に言った。
その後、2曲目に「モルダウの流れ」を歌った。
1曲目は目を見張って聞いていた相澤達だったが、モルダウは目を閉じて聞いている。
圭一が歌い終わった後、静かな拍手が起こった。
圭一は頭を下げた。
「参った…。なんだー?これ?…不思議な感動って言うか…すごいな。」
「デビューさせてもらえますか?」
感動している相澤に、明良がそう言うと相澤が「もちろん」と言った。
「『ライトオペラ』ね。準備を早速始めよう。」
圭一は膝に手を置いて、また息を弾ませている。
「あかん…これを克服せな…。歌うたびにぜえぜえ言ってたら、しゃれならん。」
「大丈夫か?」
思わず呟いている圭一に、明良が言った。
「発声と呼吸の仕方…理屈ではわかってるんですけど、体が思い出してくれないんです…。がんばってデビューまでに克服します。」
圭一がそう言って、明良に微笑んだ。
……
明良の車の中-
圭一が、助手席で何か神妙な顔をしていた。
それに気づいた明良が「圭一?」と声をかけた。
「あ…はい。」
圭一が明良に向いた。
「何か、考え事か?」
明良がそう言うと、圭一が苦笑して下を向いた。
「『ライトオペラ』でデビューしたら…お父さん見てくれるかなって…」
「!!」
実の父親のことを思い出していたのか、と明良は思った。
「今、そのお父さんはどうしてるのか知ってる?」
「いいえ。どこにいるのかも、生きてるのかも知りません。」
「…そうか…」
明良は悲しそうな表情をした。圭一が言った。
「見てくれたら嬉しいんですが…。」
「そうだな…」
明良もそう答えた。それで何らかの連絡をくれれば、もっと圭一の笑顔が増えるのに…と明良は思った。
「副社長…」
「ん?」
「…ユニットでは下の名前の「圭一」だけなんですけど、独りの時は「北条圭一」って名前にしていいですか?」
「!?」
明良は驚いて圭一の顔を見た。が慌てて前を向いた。運転中だ。
「圭一…」
「せめて名前だけでも…副社長の息子になりたいんです。」
圭一がそう言って明良を見た。明良は胸が熱くなるのを感じた。思ってもいないことだった。
明良は前を向いたまま、うなずいた。
「いいよ…」
「!…本当に!?」
「もちろんだ。…私の方がお願いしなきゃいけないくらいだよ。」
圭一は本当に嬉しそうにしていた。今まで見たことのないような満面の笑みを浮かべている。
明良は片手をハンドルから離して、そっと涙を拭った。
逆に、圭一からプレゼントをもらったような気持ちだった。
……
音楽番組-
圭一が呼ばれた。拍手の中、圭一が男性の司会者の横に座る。
「北条圭一君です。」
再び拍手が起こる。
「今日はユニットじゃなくて、独りで歌うんだよね。」
「はい…初めてなんで緊張してます。」
「あの北条明良君が引退の時に歌っていた曲と、同じのを歌うんだってね。」
圭一がうなずく。笑顔がない。
「…大丈夫?本当に緊張してるよね。」
司会者に背中をさすられ、やっと圭一の表情が緩む。
「…ほんとに…今、やばくって…」
「明良お父さんも見に来てるもんね。」
司会者がそう言って笑うと、圭一が、ふとある方向を見る。
明良が、カメラの横に置いてもらったパイプ椅子に座って見ているのだった。
カメラが明良に向く。明良が驚いて、慌てて立ち上がり、頭を下げる。
司会者が笑っている。
「お父さん、丁寧だね。」
「はい。」
「奥さんにも敬語だもんなぁ…」
司会者がそう言うと、圭一も笑った。
「あれ…お父さんがサプライズをしたのが、もう10年前なんだよね。」
「あー…そうらしいですね。」
「圭一君は見てなかった?」
「見てなかったです。」
「あれは、ほんとびっくりしたんだよー…。それがいいお父さんになっちゃって…」
圭一が笑う。
「本当の父親じゃないですから。…実際12歳しか年離れてませんし。」
「え!…じゃ、12歳の時の子ども?」
全員が笑う。
「だから、本当の父親じゃないですって。」
「あ、そうだったね。」
司会者が笑う。
「今回は『ライトオペラ』と言うものらしいけど…どういう意味?」
「『オペラ』の軽い版です。」
「そのままじゃない。」
全員が笑う。圭一も笑った。
「『オペラ』だと、堅いイメージなんですが、僕みたいなんが歌うことによって、そういう堅いイメージが緩めばいいなということで…。というか、正直「オペラ歌手」として歌うと、まだまだ未熟なんで、『ライトオペラ』ということにして、ごまかそうという意味もあります。」
圭一がそう言って笑った。
「あ、ごまかし?」
「ごまかしですね。」
司会者も笑う。
「じゃ、準備も整ったようなので、スタンバイお願いします。」
「はい…お願いします。」
圭一頭を下げて、セットに向かう。
ちらと明良の方を見る。明良が緊張した様子で、圭一を見ている。
司会者が圭一を見送り、圭一がスタンバイしたのを確認する。
「では、北条圭一君で『ライトオペラ』「モルダウの流れ」です。どうぞ。」
ピアノの伴奏が流れてきた。
圭一が歌いだす。
ユニットの時との、あまりの声の違いに、歌手達や客席がどよめくのを明良はすぐに感じた。
18歳の体から出ているとは思えない深い声に、会場が包まれていく。
マイクは圭一の腰のあたりの高さしかないが、それでも空気がビリビリと震えているような振動を感じるほどだった。
曲は盛り上がりを見せて行く。圭一の声に迫力が加わり、更にビリビリとした空気の振動が加わった。
そして最後のフレーズは明良が歌ったように、静かに抑えて歌った。
歌い終わった後、しばらくしーんとした空間があったが、やがて拍手が起こった。
圭一が「ふーーっ」と息をついた。そして、笑顔を見せながら息を弾ませている顔がアップになった。
拍手はずっと続いていた。
明良も拍手しながら、圭一の成功を確信していた。
……
深夜 音楽番組-
番組の冒頭から、エルガーの「威風堂々」が流れた。
スタジオに、背の低いマイクを前にした圭一が立っている。
そして「希望と栄光の国」を歌い始めた。
18歳の声とは思えない深い声。圭一は手を広げて、全身を使って歌っている。
最後は盛り上がりを見せて、力を出し切るように歌いあげた。
拍手がして、女性の司会者にカメラが向けられた。
「皆さま、こんばんは。今夜は『ライトオペラ』の世界へご招待いたします。」
女性司会者が移動し、圭一の傍に立った。そして「北条圭一さんです。」と紹介した。
スタッフから拍手が起こる。
「よろしくお願いします。」
圭一がそう言って頭を下げた。
「こちらこそ、今夜は楽しみにしていました。よろしくお願い致します。」
司会者も圭一に頭を下げた。
「珍しく歌から始まったので、驚いた方も多いと思います。またこの声にも驚かれたでしょう。」
司会者がそう言いながら圭一を見た。圭一が笑って司会者を見る。
「よく口ぱくじゃないかって言われるそうですが…」
「言われますね。」
「小さいころから、声楽をやってらしたとか。」
「はい…。実の父親が声楽家だったので…」
「『ライトオペラ』というネーミングはどなたが?」
「僕の所属している事務所のピアノの先生です。『ライトオペラ』と呼んで、まず若い方や興味のない方にも聞いてもらおうということで…。僕もまだまだ未熟ですし。」
「えー?未熟なんですか?」
「たぶん、実の父親が聞いていたら、怒っていると思います。」
圭一が苦笑しながら言った。司会者もつられて笑う。
「ずいぶん謙虚でいらっしゃいますが…。最近出されたアルバムも売れ行きがいいとか。」
「おかげさまで…。オペラと言うかクラシックに興味を持って下さった方が増えてうれしいです。」
「今日は、そのアルバムの中から、4曲歌っていただくんですが、最初の1曲目は先ほどの「希望と栄光の国」です。イギリスの第2の国歌と言われて、皆さんも耳になじんだクラシックですね。あらためてこうやって聞くと、もう1度聞きたいな…という気になります。」
「ありがとうございます。」
「そして、今日の2曲目は「アベマリア」です。」
「…はい…」
圭一の声のトーンが少し落ちた。
「あら、いきなり緊張してきましたか?」
司会者が笑いながら言った。
「…はい…」
「これはどなたもよくご存じの曲ですね。」
「…だと思います。」
司会者が圭一の顔を少し覗き込むように言った。
「急に言葉数が少なくなりましたが…」
圭一は苦笑している。
「…やばいですね…」
「やばいですか。」
司会者が笑った。
「そもそも、こうやって独りでいることがないので…」
「あー…いつもは雄一君と一緒ですものね。」
「あそこでのんびり見てるのが、なんだか腹が立ってきました。」
圭一がそう言って、自分の前方を指さした。
実は、カメラの横で雄一が見ている。指をさされて笑っていた。
「カメラの横に雄一君がいるんですが、余裕で笑ってらっしゃいます。」
その司会者の言葉に、スタッフが笑っている。
「では、準備をお願いいたします。」
圭一がスタジオ中央に向かった。
「ではお聞きください。シューべルト「アベマリア」です。どうぞ。」
圭一は「アベマリア」を日本語で歌った。メロディーは簡単なように思えるが、声の伸びと力強さが必要で体力を使う。
歌い終わり、少し息を切らした圭一の顔がアップになった。
ここでCMに入った。
圭一は、下を向いて「はーっ」と息を吐いた。緊張もあり呼吸法がうまくできていないようだ。司会者の女性が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
圭一は微笑んで「大丈夫です。」と答えた。
雄一がミネラルウォーターの入ったペットボトルのふたを開けながら圭一にかけよった。
今日は雄一がマネージャーである。ただからかいにきたわけではない。
「ありがとう…」
圭一がミネラルウォーターを飲んだ。
「大丈夫か?」
さっきの余裕の笑顔は見せず、雄一が心配そうに圭一の顔を見た。
「うん。」
圭一はペットボトルを雄一に返しながら答えた。
「副社長は?」
「楽屋から出てこおへんで。…なんか副社長らしくなくてさ。ぴりぴりしてんの。」
圭一が笑った。
「まじで緊張してんねんな。」
雄一も笑ってうなずく。
「がんばれ」
と雄一が圭一の肩を叩いた時、ADが「CM終わります」と言った。
圭一が雄一にうなずいて、司会者のところへ戻った。
雄一もカメラ横のパイプ椅子に戻って座る。
・・・・・・
「では、3曲目はこれも有名ですね「オー・ソレ・ミオ」です。イタリア語で歌って下さいます。」
「イタリア語は久しぶりなので…厳しかったです。」
「イタリア歌曲を小学生の時に歌わされたとおっしゃっていましたね。」
「全く意味もわからず、カタカナを楽譜に書きこんでましたね。」
司会者が笑う。
「あの…舌を巻くようなのも、小学生の時にさせられたんですか?」
「やりました。…父は厳しかったですから。」
「その時の様子を見たかったですー。」
圭一が笑う。
「たぶん、笑っちゃうと思いますけど。その頃は背も低かったですし。」
「え?今、180近くありますよね?」
「177です。」
「小学生の時は低かったんですか?」
「はい。中学の時に一気に伸びました。」
「へえー…中学生ではもう声楽はやめられたのですか?」
「…はい。」
圭一が少し言葉に詰まった。
「もったいないですよね…」
「でも、またこうやって歌うチャンスをもらえたことを感謝しています。」
圭一は話をそらそうとしている。
「そうですね。ほんと、才能が埋もれるところでしたものね。」
「…才能というほどでもないんですが…」
司会者がADから指示を受けて「では、準備をお願いします。」と言った。
圭一は少しほっとしたように、椅子から立ち上がって、スタジオの中央に歩き出した。
「オー・ソレ・ミオ」は本来は原詞のナポリ語で歌うが、圭一はイタリア語で歌った。そのため「オーソレミオ」ではなく「イルソレミオ」と歌う。
最後のフレーズは、全身を使って歌いあげた。出来る限りの声量を振りしぼり、できるだけ長く伸ばした。
…歌い終わってから、圭一が息を切らし少し眉をしかめる表情が映った。
そこでまたCMに入ったのを悟ると、圭一は体をかがめて膝に手を乗せた。
雄一がタオルとミネラルウォーターを持って、駆け寄ってきた。
「圭一!…大丈夫か?」
「…最後の最後で無様なところ見せてしもたな。」
「そうか?すごかったで。」
その雄一の言葉に、圭一は「ありがとう」と言って体を起こし、タオルを受け取った。そしてミネラルウォーターを飲んだ。
……
「では、今日最後の曲です。」
司会者が言った。圭一が少しうれしそうな表情になる。
「最後の曲は「モルダウの流れ」です。…昨年、北条明良さんが引退される際、このスタジオで歌っていただいた曲ですね。」
「はい。」
「それを聞いて、北条明良さんが副社長をされているプロダクションのオーディションを受けられたって本当ですか?」
「本当です。…その時は合格しようとかじゃなくて、会いたかったんです。」
「北条さん…あ、明良さんに?」
「そうです。」
「実際に会われた時どうでした?」
「…怖かったです。」
司会者が「え?」と言った。
「怖かったんですか?」
「はい…何しろオーディションだったので、副社長がすごく厳しい表情をされていたんですよ。」
「あー…なるほど。」
「その表情を見た時、もう駄目だと思っていました。」
「…でも、合格されたんですよね。」
「はい。なぜだか自分でもわからないんですけど…」
「では、ご本人に聞いてみましょうか。」
司会者がそう言うと、圭一は笑った。
「今日久しぶりに歌われるとのことで、圭一さんより緊張されています。北条明良さんです。」
スタッフの拍手の中、明良が入ってきた。圭一が立ち上がった。
そして、何か2人で照れ臭そうに笑い合っている。
「よろしくお願いします。」
明良が頭を下げた。圭一が司会者から離れ、明良は打ち合わせ通り圭一と司会者の間の椅子に座った。
「…大丈夫ですか?」
「いや、無理です。」
司会者が明良の言葉に笑った。
「先ほどの話なんですが、どうして圭一さんの採用を決められたのでしょう?」
「…一般的な言い方をすると「オーラ」があったんですね。」
圭一が少し顔を背けて照れくさそうに笑った。
「圭一がオーディション会場に入ってきた時に、つい目で追ったくらい目立っていたというか…。」
「何か、他の人とは違うものを持っていた…とか?」
「ええ。ただ、その時はオペラが歌えることは知りませんでしたので、どうやって売りだしたらいいのかは未知数でしたが。」
明良が圭一に振り返りながら言った。圭一は照れているのか下を向いて目を合わさない。
司会者が言った。
「さて、今日一緒に歌われるとのことですが、圭一さんからお話があった時は、すごく嫌がられたとか。」
「正直、もう引退した身ですし、それも「テノール歌手の卵」と一緒に歌うなんて、無理な話ですから。」
「副社長、逃げたんですよ。」
明良の言葉に、圭一が口を挟んできた。
「逃げたんですか?」
司会者が笑いながら言った。
「逃げたわけじゃないけど…まぁ…逃げたことになるか。」
明良がそう言うと、司会者が笑った。圭一が言った。
「最初お願いして…「ちょっと考えさせてくれ」と言われたので、また翌日副社長室に行ったんです。そしたらいなくて…社長に聞いても「今日は出張はない」と言われるし、プロダクション内をトイレまで探し回ったのにいなかったんですよ。」
圭一の言葉に明良が笑っている。
「え?結局どちらにいらっしゃったんですか?」
「出勤してなかったんです。」
「えー?」
「遅刻しました。」
明良が笑いながら言った。司会者が「えー!」と言って笑った。
「副社長さんが、遅刻したんですか?」
「そうです。」
圭一も隣で笑っている。
「前の晩から、はっきり嫌だと言うのも圭一には悪いし…でも、OKをだすこともできないので、寝られないくらい悩んでいたら、いつの間にか出勤の時間が過ぎていましてね。」
「え?でも、奥様も確か一緒のプロダクションですよね?」
「妻は出張でしたから、先に家を出ていました。」
「なるほど。」
「結局、僕が家まで行ったんです。」
圭一が言った。
「家まで!?」
「そうです。携帯がつながらなかったので…。」
圭一が明良の顔を見ながら言った。
「すごいあわてぶりでしたよ。…インターホンで「今何時だっ!」って副社長が…。」
圭一が思い出して笑っている。
「え!?それまでわからなかったんですか?」
「いつの間にか寝ていたらしくて…」
明良が照れ臭そうに言った。
「えーーー!」
司会者が笑いながら驚いている。スタッフも笑っている。
「結局、逃げ場がなくなって、車で一緒にプロダクションに向かったんですが、その車の中で仕方なくOKしたんです。」
明良が笑いながら言った。圭一も笑っている。
「すぐにOKしてくれたんじゃないですよ。運転しながらずっと悩んでて、もう事故るんじゃないかというくらいの困りようでした。ずっと考え込んでいるから、前ちゃんと見えてる?みたいな。」
司会者が笑っている。圭一が続けた。
「信号が赤になってないのに、横断歩道の大分手前で止まってしまったり…。曲がらなくちゃいけないところで、曲がれなかったり。」
「あぶなーい!」
司会者が口に手を当てて言った。圭一が明良の顔を見ながら言った。
「クラクション、何度鳴らされたか。」
明良は笑って何も言えない。
「で、結局、腹をくくられたと。」
「そうです。」
司会者の言葉に、明良が言った。司会者が笑っている。
「もっといろんな逸話がありそうですが、お時間のようです。スタンバイをお願いします。」
司会者にそう言われ、明良がため息をついた。圭一が笑って明良を見ている。
「ほら、副社長。」
圭一が明良をうながし、明良はゆっくりと立ち上がった。
司会者が笑いながら、2人がスタジオに移動するのを見送っている。
「では、北条明良さん、北条圭一さんで「モルダウの流れ」です。」
イントロが流れた。
最初は明良が歌いだした。変わらない声量と優しい歌声。緊張していたのがうそのようである。
2つ目のフレーズから、明良の斜め前にいる圭一が『ライトオペラ』で声を重ねた。
明良が圭一の声量に負けるように思えたが、明良は圭一のハーモニーとなり質の違う歌い方にもかかわらず、うまく融合していた。逆に相乗効果を出しているようにも見える。
明良は最後まで、メロディーを歌う圭一のハーモニーに徹していた。最後に向かうにつれ盛り上がるが、最後のワンフレーズでは2人とも急に声を落として静かに歌った。
曲が終わっても余韻がしばらく続いて、拍手が起きた。
圭一の笑顔がアップになり、嬉しそうに明良に振り返った。明良もほっとしたように笑顔を見せている。
圭一が明良に駆け寄って抱きついた。明良が圭一の背中を叩いている。そして体を離して握手をした。
雄一もカメラの横で立ち上がって、拍手をしている。
……
後日談だが、結局これも話題になり、相澤が調子に乗ってシングル収録を薦めた。
だが、さすがに明良は最後まで首を縦に振らず、シングル収録は実現とならなかった。
それでもこの時の映像は、相澤プロダクションに大事に保管されている。
(終)
<あとがき>
圭一君、やっとデビューしましたよー(;;)
テノール歌手と言うのは厚かましいので、あくまで、オペラが歌えるアイドルと言うことで…(^^;)
実は、私立花は、若い頃に女優さんになりたくて、いろんなお稽古に行きました。
ピアノ
日本舞踊
声楽
ジャズダンス
クラシックバレエ
殺陣(居合抜き)
でも、皆、無駄になっちゃいましたさー(爆)
その中でも声楽は不得意中の不得意で(--;)、先祖代々音痴だから仕方がないんですかね。
でも、発声の仕方とか、呼吸法は覚えています。
立花はソプラノの稽古だったんですが、ソプラノの発声と、テノールの発声は違うようです。
どっちも全身運動なんですが、ソプラノは裏声ですものね。テノールはほぼ地声で歌うんじゃなかったでしょうか?(誰か教えて)
裏声と地声で同じ歌を歌うとわかるのですが、裏声の方が息が続きます。対して地声で歌うと、ほんと、ここの圭一のように、歌い終わった後ぜいぜいいっちゃいます。テノール歌手さんってすごいですね。
毎日、なんらかのクラシックを聞いているので、これからばんばん夢想で圭一君に歌ってもらいます。(笑)
今日の曲は「威風堂々」の中の「希望と栄光の国」(サッカーの行進曲で有名だったかと)と、「モルダウの流れ」でした。(ここに、リンクを貼りたいんですが、著作権的にわからないので…。)
聞いたら、「ああ、この曲!」ってわかります。
では、また次回もよろしくお願い致します(^^)