<番外編>子猫キャトルの勇気
タレント事務所「相澤プロダクション」の作曲家沢原亮とアイドル歌手の未希はフレンチレストランの個室でディナーを食べていた。
丸テーブルで、隣同士に座っている。
未希は向かいに座るものだと思っていたが、親しい人と座る時は、丸テーブルの場合は隣、角テーブルの場合は、斜め前に座るのがエチケットだと沢原が教えてくれた。
「恋人同士だったら、キスもできないじゃない。」
沢原がそう言って早速未希の頬にキスをしてきた。未希は真っ赤になった。
「フレンチはどう?ここのはどちらかというと、家庭料理に近いから食べやすいと思うけど。」
「美味しいです。」
「それは良かった。マリエがね、未希とフレンチに行くなら、ここがいいって教えてくれたんだよ。圭一君とも来たらしいよ。」
「そうなんですか!…じゃぁ、真美ちゃんにも教えてあげよ…」
「ん。ダブルデートでもいいね。」
未希はうれしそうな顔をした。
(こんな幸せでいいのかな…)
最近、未希はそう思うようになった。仕事も順調、沢原のガールフレンドの1人にしろ恋も順調…。いつか大きな天罰が下るんじゃないかと思ってしまう…。
沢原は「会いたい時にいつでも連絡をくれたらいい。」と言う。他のガールフレンドとの約束があれば断るから…と付け足しもあったが…。
「毎日会いたいもの…」
そう未希が言うと「じゃぁ毎日連絡をくれればいい。」と沢原が微笑んだ。
「それか…俺の方から毎日メールで送ろうか?駄目な日は駄目ってメールするし。」
「いえ!私からメールします…。そんな常務にメールしてもらうなんて…」
「じゃぁ、特に決めないでおこう。お互いメールしたい時にメールしよう。」
未希は「はい」と答えた。
今日も沢原からの方が早かった。
「今日時間ある?」
そんな短い言葉だが、未希はそれで充分だった。いつも自分からメールしようと思うのだが、タイミングが難しい。朝早くにするのも早すぎるだろうし、夕方でも遅いだろうし。昼は食堂で会うからメールするのも…と悩むうち、沢原からメールが来る。
ここ数日は毎晩会っている。…だがガールフレンドというより、一緒に食事をするだけの仲…という方がしっくりくる。レストランやタクシーの中で、軽いキスくらいはしてもらえても、それ以上のことは全くない。
未希はそれでもうれしいからいいが、沢原が本当は自分のことをどう思っているのかがわからない。
沢原の家に呼ばれる事もなかった。未希がいる時にガールフレンドがいきなり来たら困るのだろう…と思う。悩みと言えば、それだけが悩みと言えるだろう。
……
その翌日も未希は沢原から「今日時間ある?」とメールをもらった。断る理由なんてあるわけがない。友人の真美も秋本とのデートで最近は約束する事もない。真美も「幸せ」だという。
未希が「大丈夫です」と返信すると、すぐにまた返信が帰ってきて「じゃ17時にプロダクションビルの裏で待ってて。」とあった。
「?…裏?」
いつもは食堂で待ち合わせるのにおかしいな…と思った。それも表でなく裏というのはどういう意味だろう?
目立たないところがいいのかもしれない…と思い、未希は「わかりました」と返信した。
17時-
未希は5分前にプロダクションのビルの裏にいた。確かに人目につかなくていい。食堂でも、研究生達の目があるから嫌なのだろうと思った。
(もしかして…研究生にもガールフレンドいるのかしら…)
ふとそう思った。もしそうだったら…正直嫌だなと思った。
後ろから足音が聞こえた。未希は沢原かと思い振り返った。
しかし沢原ではなく、葬式に行くような黒い服を着た女性だった。サングラスをかけていて顔はよくわからない。
未希の携帯にメールが入った。その音を聞いて女性が立ち止まった。
女性が黙っているので、ふと未希は携帯を開きメールを見てみた。
沢原から「遅くなってごめん。今日時間ある?」とメールが入っている。
「!?」
未希は驚いた目で、前にいる黒服の女性を見た。
女性がにやりと笑ったのが見えた。
ぞっとした。だが声も出ないし、足も動かない。
女性はゆっくり未希に近づいてくる。
その間にポケットから何かを取り出した。ビルの隙間から入る光を受け、キラリと光ったのを見た。
(ナイフ!!)
未希は悟った。だが動けない。ただ震えている。
女性が未希の真前で立ち止まった。
「…亮を奪ったのはあなたね…。」
「!?」
「メール、上手だったでしょう?私にもああやって送ってくれてたの。たまにだけどね。でもそのたまにあるメールが楽しみだった。会えば、美味しい食事を食べさせてくれるし、お酒も飲みたいだけ飲ませてくれた。…そしてあの人のベッドで愛してももらえた…」
「!!」
「…それが…今月に入ってから全く来なくなったの。…調べてみたら…あなたと毎晩会っていた…。」
「!…」
「亮を返して…。私の唯一の幸せを取らないで…!」
未希は答えられなかった。声が出ないのだ。だが身を引く気はなかった。
未希は声が出ない代わりに、首を振り拒否を示した。
「!…じゃぁこうするまでね!」
女性がナイフを振り上げた。未希は思わず目を閉じた。
その時、猫の鋭い鳴き声がしたような気がした。どさっという音がして、未希は目を開けた。
子猫が仰向けに倒れた女性の顔にしがみついている。
「!?」
未希はその場に座り込んだ。女性はナイフを落とし、子猫を引き剥がそうと必死にもがいている。だが子猫は唸り声を上げ、離れなかった。
女性が片手を離し、ナイフを探るように手を伸ばした。
「だめっ!」
未希が思わず落ちているナイフを取り上げ、横へ投げた。
そしてやっと声が出るようになったことに気付いた未希は「誰か助けて!!」と声を上げた。
ばたばたと人が走ってくる音がした。
圭一と明良だった。
「未希!?」
「未希ちゃん!!」
圭一と明良は子猫にしがみつかれている女性を見、傍に落ちているナイフを見た。
そしてすぐに明良が女性の肩を抑えた。圭一が「キャトル!」と言って、子猫を引きはがした。
反対側から足音がして、未希は涙でぐしゃぐしゃになった顔で振り返った。
沢原が駆け寄ってきている。
「未希!?」
未希は思わず立ち上がって、沢原の胸にしがみついた。
「どうした!?」
沢原が明良に押さえられている女性を見た。サングラスは取れている。
「!!!…まさか…!?」
沢原の顔色が失せた。
「未希ちゃんをナイフで襲おうとしたらしいな。」
明良が言った。
……
副社長室のソファーで未希は子猫「キャトル」を泣きじゃくりながら撫でていた。興奮がまだおさまっていない。
沢原が隣に座って申し訳なさそうに未希の背を撫でている。
向かいのソファーでは、明良と圭一が黙って未希を見ていた。
「…キャトルがいなくなったから探していたんだ…まさか未希ちゃんを助けてただなんて…」
圭一が口を開いた。
「未希…ごめん…」
沢原がやっと言った。未希は首を振った。
「…もう大丈夫です。…落ち着きました…」
泣きながらも笑顔で言う未希に、沢原は辛そうに下を向いた。
未希が圭一と明良を見て言った。
「この猫ちゃん…上から降ってきたの。」
「降ってきた?」
圭一が驚いた顔をした。明良が圭一に言った。
「たぶん非常階段から飛び降りたんだな。」
「!なるほど…。すごいよキャトル。お手柄。」
圭一がキャトルに向いて言った。
「…命の恩人…キャトル…ありがとう。」
未希がキャトルを撫でながら言った。キャトルは目を閉じて気持ち良さそうにしている。
……
「「なりすましメール」言うてな。」
翌日、パソコンに詳しい木下雄一が、食堂でランチを食べながら圭一に言った。
「パソコンのメール機能を使えばできるんや。…ただ、向こうがどうやって未希ちゃんのメルアドを知ったのかはわからへんけど…。たぶん業者か、その手のサイトを使ったんちゃう?」
「…そんなに簡単に調べられるん?」
「調べようと思たらね。だからメルアドはできるだけこまめに変えた方がええんや。」
「…なるほど…」
「めんどくさいけどな。」
圭一は笑ってうなずいた。そしてスープを飲んだ。雄一が続けた。
「未希ちゃんはもう落ち着いたん?」
「うん。今日は休んでるけど…」
「…沢原さんの元カノかぁ…。まだいっぱいいるんやろうなぁ…」
その雄一の言葉に、圭一は表情を暗くして言った。
「沢原さん…未希ちゃんと別れるようなこと言うてた…」
「…えっ!?」
「…キャトルがおれへんかったら刺されてたって…。今日話するって…」
「じゃ、もしかして今頃…」
圭一がうなずいた。
「でも…別れへんと思うねん。未希ちゃんが離さへんと思うから。」
「ん…そうやな。…きっと大丈夫や。」
「うん。」
2人は微笑みあうと、ランチを食べ始めた。
……
(やっぱり無理だったか…)
沢原はプロダクションの自室で、ソファーに座りため息をついた。
ノックの音がした。
沢原は我に返って、立ち上がりドアを開いた。
圭一が息を切らしながら、子猫キャトルを手に抱いて立っていた。
「帰ってたんですね!」
沢原はうなずいて、圭一を中へ入れた。
「キャトル」
沢原が微笑んで手を差し出した。キャトルは沢原の手に飛び移った。
沢原はキャトルを撫でながら、ソファーに座った。
「キャトルが階段を凄い勢いで駆け上がって行くから、ついて行ってみたんですよ。そしたらこの部屋の前でちょこんと座って…。」
圭一が向かいのソファーに座って、笑いながら言った。
「まだ帰ってないよ…って言ったんですけど、動かないから…。キャトルの感ってすごい。」
「そうだな…。」
沢原がキャトルを膝に乗せて撫でながら言った。
「…未希ちゃんとは…どうなりました?」
圭一が心配そうに尋ねた。
沢原は苦笑しながら首を振った。
「…別れるなんて…やっぱりできなかったよ。」
「良かった!…」
圭一の言葉に、沢原は再び苦笑した。
「…俺の方が未希に惚れてしまってるのかもしれない…。なんかしゃくだけど。」
沢原がそう言うとキャトルが目を閉じたまま「ふう」とため息をついた。
沢原が驚き、圭一が手を叩いて笑った。
「!?…え?…今、キャトル、ため息ついた?」
「しゃくだなんて言ったからですよ。きっと。」
圭一が腹をかかえて、笑いながら言った。
「そうなのか?…不思議な子だなぁ…お前…」
沢原も笑いながらそう言い、キャトルを撫でた。
キャトルは気持ち良さそうに目を閉じている。
(終)