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新役員誕生

秋本が、上半身裸でベッドに俯せになり、携帯を耳に当てて話している。


「…あー役員の話なぁ…」


ベッドの下で服を着終わった女性が怒ったように、秋本のシャツを秋本に叩き付けて、部屋を出ていく。

全く気にしない様子で、シャツをベッドの下に振り払いながら秋本が話す。


「まだ考えてるんだ。」


電話の相手は当然沢原である。


「なんだ?変な間があったけど。」


沢原が尋ねた。


「女が怒ってかえったんだよ。」

「俺のせいか?」

「まあな。不完全燃焼だったから。」

「じゃ携帯取るなよ。」

「別にいいよ。俺は不完全でも。」

「女嫌いなのに、受け付けるんだもんなぁ」

「来るもの拒まず。」

「去るもの追わずか。俺もそうだけどさ…」

「お前は好きなんだろ?」

「そもそもお前、何で女嫌いになったんだよ?」

「美人は3日で飽きるって言うじゃない。」

「俺は飽きないけどな。」

「俺が言われたんだよ。」

「3日で飽きられたのか!」

「3日じゃなくて3カ月だけどな。」


沢原が電話の向こうで大笑いしている。


「笑うなよ。顔で惚れられて捨てられてちゃ、神経もたねぇよ。」

「お前、確かに美人だもんな。」

「褒めてないよ…それ…正直、相澤プロに入れてもらうまで、こんな顔いらないってマジに悩んでたんだから。」

「そうだ、で、役員の話どうするんだよ。」

「お前は?個人的にどうするつもりなんだ?」

「正直、揺れてる。非常勤でいいらしいし…。ただ今まで一匹狼で生きてきた俺が、どこまで役に立てるか不安なんだ。相澤社長の期待が大きすぎてね。」

「そうなんだよな…。報酬とかそんなことより、例えばだよ、俺の提案のせいでプロダクションが大損した時の責任とか考えると…。だったら、今の立場で気楽に意見したいっていうかさ。」

「そうなんだよな。報酬もらう分、責任が重くなるっていうか…」

「やっぱり、断るか。」

「…そうだな…」


2人は電話を切った。


……


秋本と沢原は社長室にいた。非常勤役員を断りに来たのだ。


相澤と明良は驚いていた。

相澤が不安そうに2人に尋ねた。


「…報酬額が足りないのかい?」

「いや!そんなんじゃありません!」


秋本と沢原は首を振って、異口同音に言った。


「ご期待いただけるのはうれしいのですが…正直、自信がないといいますか…。我々の提案のために、逆にプロダクションに大損させたりしたら…とか考えると…」


秋本が言い、沢原がうなずいた。


「…今時珍しい、謙虚な若者だなぁ…」


相澤が感心している。明良も微笑んでうなずいていた。相澤が続けた。


「大損なんて、しょっちゅうだよ!…そんなことで責任を負わせたりしないから、もう1度考え直してくれないかな…」

「うちは親族経営みたいなものだから、どうしても考えが偏ってしまうんだ。それを偏らないように、君達の違う視点からの意見が欲しい…それだけなんだ。」


明良がそう説得するように言った。

秋本と沢原が困ったように顔を見合わせた。


「じゃぁ…もう1度、考えさせて下さい。」


沢原がそう言うと、相澤達はほっとしたような表情をした。


……


「なぁ優…。これ俺たちがOKするまで、いつまでも言われそうな気がしない?」

「ん~」


廊下を歩きながら、沢原と秋本は困ったように話している。


「秋本さん!沢原先生!」


エレベーターを待っていた圭一が、2人に気がついて手を振っている。


「お、ラッキー。今から防音室か?」


沢原が圭一に駆け寄りながら言った。秋本もめんどくさそうに後を追う。


「はい。ピアノも練習したいと思って。」

「お、はまったなー?ピアノ。」

「先生のおかげです。」

「後で、聞かせてくれよ。」

「はい!」


その時、エレベーターが開いた。3人は5階に向かった。


……


「えー…役員さんになって下さいよー。」


圭一が防音室で、秋本と沢原に言った。秋本が言った。


「…と言っても、責任重大なんだよ。報酬をもらうって、それだけ責任が伴うからな。」

「じゃ、秋本さんは、今までいい加減に意見してたんですか?」

「そうじゃないよ!…そうじゃないけど…」

「…今の圭一君の突っ込み…するどいなぁ。」


沢原が感心している。


「そうだよな。報酬をもらおうがもらわなかろうが、俺たちの提案とか意見て言うのはどっちにしても責任がかかってくるんだ。…。気が楽か楽じゃないかだけなんだよな。」

「ん~…」

「非常勤なんですよね?その分常勤の役員よりは報酬額も低いはずですし、そんなに思いつめなくてもいいと思いますよ。断るのはいつでもできると思うんです。」

「!!」


圭一の言葉に秋本達は顔を見合わせた。


「圭一君、今、いい事言った!」

「え?」

「そうか…断るのはいつでもできるんだ。」

「俺たちが役に立たないって思ったら、向こうからも言うだろうし…」

「…そうだな。」

「やるか。優。」

「ん。やるだけのことやってみよう。後は社長達に判断してもらえばいい。」

「やった!」


圭一が両手を上げて喜んだ。


「秋本常務、沢原常務の誕生ー!!」

「常務っ!?」


2人は驚いた。


「常務は行き過ぎだよ!平取(ひらとり:ただの取締役)でいいんだ、平取で!!」

「常務って、父さん言ってましたよ。非常勤の常務って。」

「なんだそりゃ。常務って肩書きなのに非常勤ってありなのか?」


沢原が細かいことを悩んでいる。


「社長がいいって言うんだから、いいんじゃないですか?問題ないと思いますけど…」

「いいのかなぁ…。」

「さっ!また1階に降りて、社長室に行きましょう!!」


圭一が2人の腕を取って、立ち上がった。

秋本と沢原は苦笑しながら、立ち上がった。


……


相澤と明良は喜んでくれた。そして早速サインをさせられ、非常勤だが、2人の常務の誕生となった。

野球で言えば、監督をしながら選手もするというような立場になる。

秋本と圭一は、また防音室にいる。沢原は自分の部屋へ戻って行った。


「これから、秋本さんって呼べないですね。」

「いいよ。今まで通りで。」

「秋本常務っ!」

「やめてくれー!胃が痛くなるー!」


秋本がそう言うと、圭一が腹を抱えて笑った。


「俺、昔から役付って嫌だったんだよ。委員長とか、部長とか、なんとか委員とか…。」

「えっ!?委員長とか部長とかやってたんですか?」

「…どうしてだかね。…やらされるのよ。女の子が俺の言う事だったら聞くからとかいう理由だけど。」

「なるほど。それは一番必要な技能ですね。」

「今回、その技能はいらないけどな。」


秋本が苦笑した。


……


防音室の1つが、秋本の部屋として決められた。沢原は部屋があるが、同じ常務の秋本に部屋がないのはおかしいというわけである。秋本は気にしないが、相澤が気にした。


「よかったですね。秋本常務、部屋ができて。」

「常務はやめろ。じんましんが出そうだ。」


その秋本の言葉に、圭一が笑った。


「だけど、非常勤なのに、部屋までもらっていいのかどうか…」

「でも秋本さん、最近は毎日来られているしゃないですか。」

「…正直…家より心地好いからなぁ…」


秋本が苦笑しながら言った。


「バイオリンもピアノも思う存分弾けるし、お腹がすいたら食堂に行けばいいし、ちょっとした売店もあるしさ…シャワーも浴びられるし…言う事なしなんだよなー…」

「それを父さんが聞いたら喜ぶかも。」

「そっかー…ここ、俺が自由に使っていいんだ。」


秋本が今になって、感慨深げに部屋を見渡した。


「…ベッド入れたいな。」

「それはだめですよ!」


秋本の言葉に、圭一が笑いながら言った。


「それよりも、秋本さん!楽譜全部こっちに持ってきましょうよ!」


圭一が目を輝かせて言っている。


「楽譜を?…なるほどね。」


秋本も表情を明るくした。


「僕、片っぱしからあの楽譜見てみたいと思っていたんです。運ぶの手伝いますから、お願いします。」

「ん。棚ごと持ってきたらいいだろう。家もすっきりするし。」

「やった!」

「じゃ、ベッドも一緒に…」

「だめですってば!!」


秋本がしゅんとしたように肩を落とした。圭一がまた笑った。


……


翌日-


未希と真美は一緒にランチを食べていた。といっても、もう夕方で晩御飯の時間だ。

2人とも、レッスンで遅くなったのだ。


「あ、常務だ。」


食堂に入って来た人影を見て未希が言った。真美もそちらを見ると、2人でくすくすと笑いだした。


沢原と秋本が立ち止まって、じゃんけんをしている。沢原が負けたらしく、ふてくされた顔をしてカウンターに行きながら、胸ポケットから財布を取り出した。

秋本が中に向いて、慌てて目を逸らした真美達に気づいて、近づいて来た。

秋本は真美の隣に座った。


「お疲れさん。今ランチなんだ。」


秋本が未希と真美を交互に見て言った。


「お疲れ様です!」


2人は異口同音に言い、頭を下げた。


「ずっと会ってなかったよねぇ…もしかして、クリスマスパーティー以来かな?」


真美達がうなずいた。

その時、沢原が未希の隣に座った。


「お疲れさん。」


沢原が微笑んで言った。

真美達が頭を下げた。


「ほらよ。優コーヒー!」


沢原が秋本の前にカップを置いて言った。


「何?その態度の違い。」


秋本が苦笑しながら言った。

未希達が笑った。


「もう5時だよね。それなのに今ランチ?」


沢原が未希に言った。


「はい…振り付けが難しくて……」

「それで、何も食わしてもらえないの?よくないんじゃないか?それ…」

「…でも先生も食べてないし…」

「ふーん…上に言わなくていいのかなぁ…優…」

「言った方がいいんじゃない?菜々子専務に…」

「いえ!言わないでいいです!」


未希が慌てて手を振った。

沢原が困ったような表情で未希を見つめた。

未希は思わず下を向いた。


「真美ちゃんは?どうしたの?」


秋本が真美に尋ねた。


「私は…歌詞が覚えられなくて…」

「え?すぐに覚えなきゃいけないの!?」

「はい…明日、収録なので…」

「曲は?いつできたの?」

「今朝…楽譜もらいました…」

「それもひどくないか?」


沢原が秋本を見て言った。秋本がうなずいた。


「遠回しに言っておいてあげるよ。よくない。」

「いえ…本当にいいです…私が悪いんだし…」


真美が秋本に言った。


「そうか…じゃ今回は黙っておくか…」


秋本が心配そうな目で真美を見つめたまま言った。真美は金縛りにあったように目が離せなくなった。


「でも同じことがあったら、言うからね。」


沢原のその言葉で秋本がふと沢原を見た。真美はやっと金縛りがとけた。


「はい」


未希が答えた。


「でも…なんか食べてないんじゃない?大丈夫?」

「あ…俺達のせいだ、これ。」

「あ、そうか…」

「あっち行っとくからさ、ゆっくり食べて。じゃまたね。」


沢原が未希の肩を叩いて、席を立った。秋本もカップを持って真美の背中を軽く叩くと、窓際の席に移動していった。


未希と真美は頭を下げた。未希が言った。


「なんかレッスンでいっぱい嫌な事あったけど…ふっとんじゃった。」

「私も!」


2人は小さく笑った。


……


翌日‐


未希は昨日と同じ振付師にしごかれていた。振り付けは覚えられたが、まだ踊りこなせていない。


「もう一回!これをマスターできなかったら、水が飲めないよ!」


業界で一番厳しい振付師だとは聞いていたが、ここまでとは…。未希は汗を拭こうとタオルを手にとろうとした。


「こら!休むな!」


怒号が飛ぶ。


その時、ドアが開いた。

振付師が驚いて、ドアから入ってきた沢原を見た。

未希も驚いて、ドアの方を見た。


「!…おはようございます!」


未希が沢原に頭を下げた。


「誰?」


振付師は未希に言った。


「沢原常務です。」


未希が答えた。


「常務?なんていたのか?」

「最近、就任しましてね。」


沢原が微笑んで言った。


「沢原です。よろしくお願いします。」


沢原が頭を下げた。振付師も思わず頭を下げている。


「未希ちゃん、ランチの時間だ。行こう。」

「え?」

「一緒に食べようと思ってね。さ、タオル持って。先生も休憩とって下さい。腹が減っては戦ができぬっていうでしょう。」

「は、はあ…」

「すいませんが先に行きます。ほら未希ちゃん。急いで。食堂いっぱいになるよ。」

「は、はい!」


未希は振付師に頭を下げてから、沢原に背中に手を乗せられ、部屋をでた。


残された振付師は呆然と立ち尽くしている。


「いい男…」


振付師も男なのだが…。


……


「ありゃひどいな。」


食堂に向かう廊下で、沢原が呟いた。


「えっ?」

「ブラインドは閉じていたが、声は外に漏れてたんだ。しばらく聞いていたが、これ以上はやばいと思ってね。」


未希は下を向いた。


「なんでも、有名人を数々作ったお偉い振付師なんだってね。」

「…はい…」

「悪いが上に報告させてもらうよ。」

「!?でも…振り付けやっと覚えたところですし…皆我慢してるのに、私だけやめるのは嫌です!」

「未希ちゃん…」


沢原が立ち止まって未希を見つめた。未希はどきりとして、自分も立ち止まった。


「根性あるんだなぁ…。やっぱり上に行く人ってのは、俺みたいなぐうたらじゃないんだ。」

「ぐうたらなんて…そんな…」

「圭一君もそうなんだよな。自滅的に稽古するんだ。あいつも…」

「北条先輩はまた別格です…」


沢原が「いけね」と言って、未希の背を叩いた。


「さ、ランチ食べよう。まじで席がなくなるぞ。」


未希は顔を赤くしてうなずいた。


……


「未希ちゃん!」


真美が手招きしている。隣には秋本が座っていた。


未希は盆を持って、真美のテーブルに行った。沢原が後をついて来ている。


「秋本常務、おはようございます!」


未希がそう言って頭を下げると、秋本が「常務はやめてよ」と言って苦笑した。

沢原が秋本に言った。


「そっちもうまく行ったか…」

「まあね。収録は今日の夕方らしいんだけど、歌詞を覚えているのに、いろいろ難癖つけられててね。とりあえず連れ出した。」


秋本が真美をみながら言った。真美が恥ずかしそうに肩をすくめている。


「こっちもだよ。水を飲まさないとか言ってるからさ…でも昼からもレッスンあるから穏便にすませたけど、そうじゃなかったら何言ってたかわからないよ。」


沢原のその言葉に未希が驚いて沢原を見た。


「はい、食べて食べて。昼からも堪えられるようにたべなきゃ」


未希も真美もうなずいて、手を合わせていただきますと言うと、食べはじめた。

沢原と秋本は顔を見合わせて、微笑みあった。


……


「そうか…それは確かにひどいな…」


相澤と明良が厳しい表情で、向かいのソファーに座っている秋本と沢原を見た。


「…しかし…今、先生達を辞めさせるわけにはいかないだろう…」

「そうですね…」

「次から、呼ばないという事にしてもらえませんか?今辞めさせると、未希ちゃん達が攻撃される可能性があります。」

「そうだな…」

「真美は夕方から収録か。」

「はい。…だから私がついて行こうと思うんですが…」


秋本が言った。


「そりゃ助かる。頼むよ。」


相澤にそう言われ、秋本が頭を下げた。

そして、沢原が口を開いた。


「未希ちゃんの方も最後までレッスン室にいてあげようと思っているんですが…いいでしょうか。」

「もちろん。ひどいようだったら口を出してくれても構わないから。」

「わかりました。」


2人は相澤達に頭を下げると立ち上がった。


……


「監督不行き届きだったわー」


菜々子が専務室で、明良に言った。


「菜々子さんの責任じゃない。私も目が届きませんでしたからね。」

「有名人を何人も育て上げてる先生って言っても、いい先生とは限らないのね。」

「そうですね…」

「沢原さん達、常務になってもらってよかったわ。」

「ええ…菜々子さん独りでは、彼らのように傍についてやるという訳にはいきませんからね。」

「ほんと。何かお礼を考えなくちゃ。」


菜々子の言葉に、明良がうなずいた。


……


未希は無事、新曲の振り付けをマスターし振付師から解放された。

沢原がずっとレッスン室にいてくれたので、振付師の態度が柔らかくなったのだ。

そのおかげで気持ちが楽になり、振り付けをマスターできたのだと未希は思った。それもこれも沢原のおかげだ。

沢原に「よくがんばったな」と軽くハグされ、未希は沢原に何かの想いが芽生えるのを感じた。


……


一方、真美は秋本に付き添われ、収録に臨んだ。

だが歌のトレーナーが、やたらと真美の歌に難癖をつけ収録を中断させるので、ずっと黙っていた秋本がトレーナーの正面に立った。

女性トレーナーは、一瞬秋本の美しい顔に動揺したが、それを悟られないように「何かしら?」と秋本を見返して言った。

秋本がトレーナーを睨みつけながら言った。


「最後まで歌を聞きませんか?」

「聞けない歌だから止めるの。」

「一体、どこが聞けないんですか。」

「声が全然出ていないからよ。」

「出ないのはあなたのせいじゃないんですか?」


その秋本の言葉に、トレーナーは怒りをあらわにして言った。


「この子のためにこっちだってやってるのよ!」

「そう言えばなんでも許されると思ってたら大間違いだ!」


突然、秋本の言葉遣いが変わった。トレーナーはもちろん、テレビ局のプロデューサーもAD達も驚いた。このトレーナーにここまで言ったのは秋本が初めてだった。だが正直、スタッフ達も言いたい言葉だったのだ。そのトレーナーは、自分の感情で八つ当たりすることで有名だった。だが、過去多くの大歌手を育てたという経歴があるので、誰も文句は言えなかったのだ。

秋本は続けた。


「今から、何も言わずに黙って真美の歌を聞け!いちいち中断されたんじゃ、出る声も出なくなる!」


女性のような綺麗な顔をしている分、逆に男らしいといえる秋本のその言葉は説得力を持った。遠慮がちだがスタッフから拍手が起こった。

トレーナーは黙り込んだ。


それを見た秋本は、スタジオの中央で立ちすくんでいる真美に駆け寄って言った。


「大丈夫?」


さっきとは、全く違う柔らかい表情で、秋本が真美に言った。


「…はい…」


真美は泣きそうになるのを必死に堪えながら言った。


「さっき、呼び捨てしちゃった…ごめんよ。」


秋本が頭をかいて言った。

真美は下を向いて首を振った。


「さ、リラックスして。はい、俺の顔見る!」


秋本がそう言って、真美の頭を両手で挟んで、自分に向かせた。

真美は逆に緊張したが、優しい秋本の表情に思わず微笑んだ。


「よし!次は声でるから。」


秋本はそう言って、真美の両肩をぽんっと叩いた。

そして、真美の前から離れた。

ADが「行きます!」と声を上げた。トレーナーは姿を消していた。


真美の声が素直に出て収録は無事終わった。

その時、真美にも秋本に特別な感情が芽生えていた。


……


その夜-


「口出ししていいって言われてたけど…身の程知らずって、こういうことをいうんだろな。」


食堂で、秋本が向かいに座っている沢原に言った。


「本来ならプロダクションに迷惑かけてるところだよな。」


沢原が笑いながら言った。


「真美ちゃんも無事収録終えたことだし、良かったんじゃないか?いつもだったら後2時間はかかるそうだったらしいから。」

「でも、あのトレーナーに反発する気持ちで成長することもある…。俺は真美ちゃんの成長を止めたのかも知れない…」

「考えすぎだよ。反発の力による成長ってのは限界があると思うんだ。今回は良かったんじゃないか?」

「ん…」

「どっちにしろ…真美ちゃんがずっと怒鳴られてんの、いつまでも黙って見てられないだろう。」

「まぁ…な。」

「良かったんだよ。真美ちゃんのためには。」

「ん…そうだな。」

「飲みに行くか。」

「そうだな…飲みたい気分だ。」

「上に行く?」


プロダクションのバーのことだ。


「いいだろう。店探すのしんどいしな。」


二人は食堂をでようと立ち上がった。


「あっ!ダブル常務!」

「まとめるなっ!」


秋本がその声に向いて言った。呼び掛けたのは圭一だった。

圭一は笑いながら、秋本たちのところへ駆け寄ってきた。


「今からうちに来ませんか?」

「え?」

「僕らはもちろん飲みませんけど、母さんが飲むのが自分だけじゃ寂しいって言うんですよ。」

「…もしかして、菜々子専務の手料理食べられる?」

「もちろん!」

「行く!亮も行こう!」

「そりゃいいねぇ…。」

「未希さんと真美さんも来るんですよ。」

「えっ!? ほんと!?」

「ええ。」

「そりゃ行かなきゃな。」

「あ、俺達も酒買って行こう!手ぶらじゃまずい。」

「いや、お酒はいいですけど、できたら、お菓子とかケーキとかお願いしてもいいですか?」

「なるほど。わかったよ。」


3人はエレベーターに向かった。


……


北条家の臨時パーティーは、当然の如く盛り上がり、夜遅くまで続いた。


そして、沢原が未希を、秋本が真美をタクシーで送ることになった。

しかし、沢原と秋本は自分が酔ってしまっている。


「未希ちゃん、真美ちゃん、お願いね。」


菜々子が言った。

2人は「はい」と笑いながら言った。


……


「沢原常務…」


未希が沢原を起こした。


「ん?」

「着きましたよ。」

「そうか…ごめんよ。本当は君を先に送るべきなのに…」

「いえ…。お疲れ様でした。」

「うん。お疲れさん。」


沢原はそう言うと、未希の頬にチュッとキスをした。

未希が固まった。


「じゃ、明日ね!」


沢原はタクシーを降りて行った。


「次はどこですか?」


タクシーの運転手にそう聞かれたが、未希はしばらく呆然として答えられなかった。


……


一方、真美も秋本がタクシーを降りる時に頬にキスをされた。


「明日…会えるかなー」


そんな微妙な言葉を残され、真美もしばらく運転手の問いかけに答えられなかった。


……


翌朝-


沢原が二日酔いの頭を押さえながら、秋本に電話していた。


「優…俺、昨夜とんでもないことしたかも…」

「実は…俺も…」


「キスしちゃったかも!」


同時に言って、2人は黙り込んだ。


「やばいよ…今日会って無視されたらどうしよう…」

「というより、セクハラで訴えられないかな…」

「!?やばい…」

「…あー…プロダクションに行くの怖い…」

「でも、行かない訳にはいかないだろう…。」

「…一緒に行こうよ…」

「…一緒に行くか。」


まるで小学生のような約束をして、2人は電話を切った。


……


プロダクションについた2人は、駐車場からエレベーターに乗り、一旦1階で降りた。そして事務所に行き、タイムカードを押した。


「おはようございます。」


2人がそれぞれ言うと、事務員たちがいつもの様子で「おはようございます!」という返事が返ってきた。

2人はほっとした表情で顔を見合わせて、エレベーターに向かった。


「なんともないみたいだな…」

「手と足が一緒に出そうだよ。」


秋本の言葉に沢原が笑った。

その時、明良が副社長室から出てきた。


「沢原君、秋本君!」


後ろからそう呼びかけられ、2人はぎくりとして立ち止った。


「昨夜は遅くまで悪かったね。」


明良が明るくそう言いながら駆け寄ってくるのを聞いて、2人はまたほっとして振り返った。


「いえ…。こちらこそ、遅くまですいませんでした。」


2人は明良に頭を下げた。


「また誘ってもいいかな…菜々子さんが一緒に飲める人がいると楽しいって言ってたから。」

「もちろん!…俺らでよかったら…」


秋本が明良に答えた。


「ありがとう。よろしくね。」


明良はそう言って、副社長室に戻って行った。


「あー…心臓に悪い…」


沢原が胸に手を当てて言った。


「…まだ未希ちゃんも真美ちゃんも来てないってことじゃないの?まだ安心はできないよ…」

「!!!」


秋本の言葉に、沢原は両手で胸を抑えた。


……


昼になって、沢原と秋本は食堂に行った。

また2人で時間を合わせている。


ざわざわとしている食堂を見渡すと、まだ未希達はいないようだ。


「窓際しか空いてないな。」

「そっちへ行くか。」


2人はランチを頼み、そのまま窓際へ向かった。

…しかし、食が進まない。


「…もしかして今、社長達に報告してたりして…」

「俺もそれを考えてた。」

「…俺たち、短い命だったな…」

「あー…またデイトレーダーに戻らなきゃならないのか…」

「お前はいいじゃないか。…俺は、もうこの業界で捨てられたら、他に仕事がないんだぞ。」

「貯金はあるか?」

「あるけど…。」

「教えてやるから、お前も株やれ。」

「うーん…リスク大きいなぁ…。でも仕方がないか…」


沢原がそう言った時、2人の両隣りに、盆が置かれた。


「!!」


2人がそれぞれ自分の横に座った人物を見て「わっ!」と声を上げた。


「…おはよう…ございます。」


沢原の横に未希が、秋本の横に真美が座っていた。沢原達が驚いているのを見て、自分たちも目を見張っている。


「どうしたんですか?」

「あ…いや…その…」


未希に見つめられ、沢原がしどろもどろになった。昨日とまるで立場が逆だ。


「…その…昨夜はごめんよ。帰りに失礼な事しちゃって…」


未希は顔を赤くして、首を振った。

対して、真美も秋本に同じことを言われて、真っ赤になって首を振っている。


沢原と秋本は心の中で(首がつながったー)と安堵していた。


(終)

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