沢原亮
沢原亮は防音室に向かっていた。
その時、防音室から出てきた秋本を見つけた。
「優!」
思わず声をかけると、秋本はぎくりとした顔をして、沢原のいる方向とは反対側へ走り出した。
「しまった!」
沢原は秋本を追いかけた。
「まて!優!」
階段を駆け下りて行く秋本を追いかける。
階段を上がってくる研究生達がくすくすと笑っていた。よくある光景なのだ。
「あれ?」
沢原は途中で秋本を見失った。階段を駆け下りて行く音もしない。
「優くーん…」
沢原はにやりと笑って、非常口のドアを開けて外を見た。
非常階段を駆け下りて行く秋本の姿が見える。
「おまえ…そこまで逃げなくていいだろう!?」
沢原はそう言いながら、自分も非常階段を駆け下りて行った。
……
沢原は最近、相澤プロダクションと自由契約を結んだところだ。秋本とは元々知り合いではないが、同い年ということもあり、初めて会った時から気が合った。
女性的な美しさを持つ秋本とは真反対のタイプで、目鼻立ちのはっきりした男っぽいハンサムだ。
しかし表舞台には出ない。コンピューターミュージックを得意とする作曲者なのである。
沢原は息を切らしながら非常階段を下まで降りて、あたりを見渡したがもういなかった。
しばらくして、バイクのエンジン音がした。
「!…あいつ…!」
思わずプロダクションビルの前に回って、駐車場の出口に走ると、バイクが出てきた。
「優!」
バイクの男性はヘルメットの上から敬礼をして走り去って行く。
「くそー…家についたのを見計らって、電話するか。」
沢原はそのまま駐車場の出口から中へ入って行った。
……
「えっ!?秋本さん、帰ったんですか!?」
「ごめんよ、圭一君…俺のせいなんだよ。ピアノ弾いてもらおうと思ってさ。」
「あー…作曲の…」
「ん。楽譜作りたかったんだけど…。」
圭一がくすくすと笑った。
「最近、連日じゃないですか?」
「…だって…フレーズ思い出したら、とりあえず録音するんだけど、それを楽譜にするのが面倒でさ。直でコンピューターに入れると雑念が増えるし。」
「専用のキーボードとかギターからコンピューターに書きだすんですってね。秋本さんがびっくりしていました。」
「ここは、欲しいものを結構すぐに提供してくれるから助かるよ。」
「プロダクションは、沢原先生に期待してますから。」
「あまり期待されても困るけどなぁ…」
沢原が苦笑して言った。
「どんどんいろんなフレーズ思いついちゃって楽譜作る暇がなくってさ。ハミングとかを録音したデータから楽譜を作るソフトもあるんだけど…まだ認識が不十分なんだ。微妙なコードとか調整するのに時間がかかる。でも優に頼んだら一発なんだよ。あいつ俺のハミングから、伴奏つきでピアノ弾いちゃうからな。」
「…秋本さん…さすがですね。」
「圭一君はできない?」
「無理ですっ!!楽譜見てピアノを弾くことはできますけど…逆は…」
「ふーん」
沢原がにやりと笑った。圭一はぎくりとした表情をした。
「ピアノ弾けるんだ。」
「でっでも…チェルニーでやめましたよ!」
「チェルニーの何番?」
「30…でも100はやってません。」
「他に何やった?」
「独学ですから…バイエルから初めて…ハノンとか…」
「ハノンは指の練習だからな…ソナチネは?」
「やってません。」
「この会話だけでOK!優の後釜は君っ!」
「えっ!?…でも、僕ハミングからは無理です。」
「いいからいいから、おいでー!」
沢原は圭一の腕をひっぱるようにして、専用室へ向かった。
……
コンピューターミュージック専用室、別名「沢原部屋」に連れ込まれた圭一は目を見張った。
最近、沢原のために声楽レッスン室を改装したと明良から聞いていた。
プロダクションが、どれだけ沢原に期待しているかが窺える。
デスクトップパソコンが2台、ノートパソコンが1台、MIDIキーボードが2台、あとミキサー室のような雰囲気で、スピーカーも高価なものとわかる。
その傍の机に、手書きの楽譜が10枚ほど積み上げられている。
「圭一君にはこの手書きの楽譜をキーボードで弾いてほしいんだ。メロディーだけだからすぐだろう?」
「よかった…これなら…」
「大丈夫そう?」
「…でも…これ…コントラバスとか…フルートとか…もしかして交響曲ですか?」
沢原は笑った。
「そんな大層なものじゃない。プロダクションのオーケストラに弾いてもらうための楽譜なんだ。」
「なるほど…」
「一応、コンピューターでも作るけどね。でも生演奏の方がいいから。」
「あとで歌詞をつけるんですか?」
「いや…CMで流すバックミュージックなんだ。映画音楽のような感じにしようかなって思って…。自由にやっていいって社長が言ってくれてるから。」
「楽しみだなぁ…」
圭一が目を輝かせている。
「沢原先生、いつかライトオペラの曲も作って下さい!」
「いいねぇ。考えとくよ。」
「やった…じゃ、これ僕頑張ります。」
「いい子だねぇ~」
沢原が圭一の頭を子どものように撫でた。
圭一は苦笑している。
……
「逃げて損した。」
秋本が電話の向こうで笑っている。沢原も笑った。
「とにかく、手書きでバンバン書いとけば圭一君がやってくれることがわかったから、優の負担は少なくなるよ。」
「でもあまり圭一君を頼りにするなよ。」
「どうして?」
「圭一君はのめり込むと、周りが見えなくなるタイプなんだ。普段の仕事に影響することもある。お前にかかりっきりになって、プロダクションに迷惑をかけたら本末転倒だからな。」
「そうなのか…。あの目の輝きは確かにそんなタイプかもな。」
「やっぱり…俺、今から行くわ。…圭一君が心配になってきた。」
「おっそうこなくっちゃ。」
「後で、圭一君と俺に、食堂で何かおごってくれよ。」
「お安い御用だ。俺、あの食堂が気に入って、ここに決めたようなもんだからな。」
「はぁっ!?まじかよ。」
「うん。美味しいし、ヘルシーだし、安いし、テイクアウトOKだし。」
「女好きで、食い道楽か。」
「女好きはよけいだ。」
「嫌いか?」
「好きだよ。」
秋本がくすくすと笑った。
「とにかく今から行くよ。」
「ああ、待ってる。」
沢原は電話を切った。
……
食堂で、沢原はランチを食べていた。
「あっ!マリエちゃん!」
マリエが一人で入ってきたのを見て、沢原が手を上げた。
「沢原センセイ!」
マリエが駆け寄ってきて「おはようございます」と言った。
マリエはフランス人と日本人のハーフだがフランス人の血の方が濃いようだ。透き通るような白い肌を持ち、目鼻立ちがはっきりしていて、目の色もブルーに近い。
「ここはいつでもおはようなんだね。今からご飯?」
「はい。」
「おごってあげるよ、頼んでおいで。」
「やったー!センセイと同じのにする!」
「構わないよ。」
沢原は財布を取り出して、千円札を1枚マリエに渡した。
「あ、ついでに、俺のコーヒーも頼んで。」
「はーい!」
マリエが嬉しそうにカウンターへ行った。
初めてこのプロダクションで作ったのが、マリエの曲だった。
というよりも、デモテープを相澤プロダクションに送ったところ、マリエの曲として採用されたのだった。
デモテープは他の音楽事務所へも送っていた。相澤プロダクションを入れて4社からアプローチがあった。
沢原はすべての会社を訪問した。
そして選んだのが相澤プロダクションだった。
元アイドルが創設したと聞いて最初は不安もあったが、実際来てみて驚いた。
他の事務所は、ここまで設備が整っていない。
マリエが戻ってきた。
コーヒーを沢原の前に置いてくれた。
「サンキュ」
「はい、センセイお釣り。」
「ありがとう。」
小銭を受け取って、ポケットに入れた。
「いただきます。」
マリエが両手を合わせてから、箸を取った。
ここのタレントたちは、行儀がいいことにも評判がある。何でも研究生の時にマナーの授業もあるのだそうだ。
「おいしっ!」
マリエがスープを一口飲んで言った。
「うん。ここのは本当に何でも美味しいよな。」
「センセイ、今、作曲中?」
「そうだよ。」
「誰の曲?」
「誰のでもない。インストゥルメンタルだからね。」
「おお!うちにしては、斬新!」
「初めてらしいね。荷が重いよ。」
「センセイなら大丈夫!楽しみにしてるね。」
「うん。…しかし君は、本当に美味しそうに食べるね。」
「美味しいもん。」
マリエが言った。その時、圭一が食堂に入ってきた。
「あっ!沢原先生!ここだったんですか。」
「ああ、圭一君。どお?」
「終わりましたよ。後でデータ確認しておいて下さい。」
「助かったよー。もうすぐ優が来るって言ってたよ。」
「そうですか。」
圭一はマリエに頭を下げた。マリエが圭一に手を振る。
マリエは圭一より2歳年上で、1期先輩だ。
「ケイイチ、お手伝い?」
「はい。」
そう言って、カウンターへ向かって行った。
マリエが沢原に言った。
「センセイ、ケイイチにもおごって。」
「男の子はいいの。」
「センセイのお仕事したんでしょ?」
「あ、そうだった。圭一君!」
圭一が振りかえった。
「何か食べるの?」
「いえ、コーヒーを…」
「おごってあげるよ。あ、さっきのお釣りがあったな。」
沢原がポケットから小銭を出した。
「ありがとうございます!」
圭一が戻ってきて、小銭を受け取った。
「礼はマリエちゃんにね。」
「え?マリエ先輩のおごり?」
「じゃなくて、マリエちゃんが圭一君におごってやれって言ったの。」
「ありがとうございます。先輩!」
「ケイイチ、かわいいもん!」
マリエにそう言われて、圭一はとたんに顔を赤らめた。そして頭を下げると、カウンターへ向かった。
「今時珍しい、純情な子だなぁ。」
沢原がそう言うと、マリエがくすくすと笑った。
「この前、相澤祭の稽古の時に、頬にキスしてやったの。」
「!?…そしたら!?」
「ひっくり返っちゃった。」
沢原が大笑いした。
「じゃ、俺もやってみるか。」
「キャー!やってやって!」
「駄目だよ。俺だってまだなのに。」
マリエと沢原がその声に驚いた。見ると、秋本だった。
「おはよー!秋本さん!」
「おはよう、マリエちゃん。今日もかわいいね。」
「メルシー!」
沢原が隣に座る秋本に笑いながら言った。
「お前は男色だったか。」
「そんなんじゃない。男で好きなのは圭一君だけだ。」
「…危ない奴。」
沢原が苦笑している。圭一がコーヒーを持ってテーブルに戻ってきた。
「あっ!秋本さん!おはようございます!」
「おはよう。今日は俺が逃げたせいで、悪いことしたね。」
「いえ。楽しかったですよ。…秋本さん、何か持ってきましょうか?」
「うん。じゃぁ俺もコーヒー買ってきて。」
秋本はそう言うと、沢原に向かって手を差し出した。
「?…なんだよ。」
「コーヒー代。」
「なんで。」
「仕事代の前借り。」
「はいはい。」
沢原は仕方なくまた財布から千円札を出したが、圭一が「まだお釣りがあります。」と言ってくれ、カウンターへ走って行った。
「あのさ…優。」
「ん?」
「副社長の息子を顎で使うのはどうかと思うけど?」
「それを言うなら、亮だって使ってるじゃないか。」
「……」
沢原が黙り込んだ。マリエが「センセイの負けね。」と言って笑った。
……
沢原は1階で、廊下を歩いている明良に慌てて駆け寄った。
「?…何だい?沢原君。」
明良が沢原に気づいて立ち止まり言った。沢原は頭を下げて、明良に言った。
「あの…楽譜を作るのに、御子息にいろいろお手伝いいただいてまして。」
「御子息…?…ああ、圭一ね。…そんなに丁寧に言ってくれなくてもいいよ。圭一が手伝っているのか。」
「はい。手書きの楽譜からデジタルデータに変換するのを手伝ってくれているんです。」
「???ちょっと意味がわからないが、君に迷惑をかけないといいけどね。」
沢原は「まさか」と言って首を振った。
「小さい頃、どういう教育をされてたんですか?」
「え?」
「彼はすごいですよ。オペラが歌えて、プロ並みのダンスが踊れる。ピアノも弾ける…男の子でここまでできる人はなかなかいません。」
「…そうか…君は…」
明良が少し困ったように下を向いた。
「?え?」
沢原が不思議そうな表情で明良を見た。
「圭一は、養子なんだよ。」
「えっ!?」
「つまり血がつながっていないし、養子にしたのも半年前なんだ。彼を教育したのは、テノール歌手の父親とバレリーナだった母親だ。」
「そうだったんですか…すいません。知らなかったとはいえ…何かよけいなこと…」
沢原は口に手を当てて、とまどった表情を見せた。
「いや…逆に嬉しいよ。…本当の親子に思ってくれて…。私もできすぎた息子を持てて嬉しく思ってるんだ。」
「はぁ…」
「圭一が喜んでいるのなら、いつでも手伝わせてやってくれ。あの子にとってもいいことだから。」
「はい。」
沢原は頭を下げた。明良は微笑みながら会釈すると、副社長室に向かって行った。
「…優も教えてくれたらいいのに…」
沢原は一人呟いた。
……
「だって、いちいち説明する必要あるかよ。」
「…そうだけどさ。」
翌日、食堂で沢原と秋本が2人で向かい合ってコーヒーを飲んでいる。圭一のことを話していた。
「どうして副社長は、あの圭一君を選んだのかな…」
「選んだとは?」
「他にも研究生やタレントはいるだろう?後継ぎに養子にするなら、他にもたくさん候補はいたと思うんだ。」
「ばか…後継ぎとかそんなんじゃないよ。」
「?…じゃ、どうして?」
「圭一君は、実の親にほぼ捨てられたようなもんなんだ。」
「!?」
「実の親が離婚してから、あいつの生活が一変したらしいんだ。…それまで父親からオペラを習い、母親からバレエを習っていたそうだ。ある意味、サラブレッドだったわけだ。」
「……」
「16歳の時に義理の父親に勘当されたんだそうだよ。それから彼は一人で生きてきた。」
「……」
「副社長も同じような境遇でね。16歳の時に唯一親族だったお姉さんが死んで、それから菜々子専務と結婚するまで、ずっと一人で生きてきたんだそうだ。」
「!?…そうなのか…」
「だから、ほっとけなかったんだろう。戸籍はまだ異動していないらしいが、本当の息子のように可愛がってる。」
「…確かに甘い親に見えるな。猫っ可愛がりというか。…だからよけいに思ったんだ。…あれだけ甘やかされてて、どうしてあんなに素直に育ったんだろうなってさ。」
「そりゃ、お前のひねくれた性格とは違うよな。」
「こらこら。人のこと言えるかよ。」
2人は笑った。
「曲はうまく行ってるか?」
「ああ、圭一君と優のおかげでね。ただ、いろんなフレーズが浮かんで、まとまらないんだ。またデータが溜まってきてるから、圭一君に頼まなきゃ。」
「俺はいらないようだな。」
「いりますとも。まだここの中に…」
沢原は自分のこめかみを指でつついた。
「データが溢れているんでね。」
「…コーヒーじゃ済まなさそうだな。」
「わかってるよ。発表が済んだら飲みに行こう。」
「圭一君はどうするんだよ。未成年だぞ。」
「あ、そうか。じゃ、食堂で乾杯だな。」
「味気ねー…」
秋本の言葉に沢原が笑った。
「さ、帰るか。」
沢原がそう言って立ち上がった。
「え?もう帰るのか?」
「ん。今までの分は編集が終わったからね。」
「おお、さすが…」
「優は?まだ帰らないのか?」
「圭一君を待ってるんだ。今、ダンスレッスン中だからね。終わったら、ボイストレーニングに付き合うことになっている。」
「彼は勉強熱心だなぁ。いつか火がついて燃えだしそうだ。」
秋本が笑った。そしてお互い敬礼を交わすと、沢原はコーヒーカップを持ってカウンターに向かった。
……
1時間後-
プロダクションに一本の電話がかかってきた。
事務員が取り、緊急事態のため明良に転送された。相澤は出張からまだ帰ってきていない。
「!?…沢原君がっ!?…それで…怪我の具合は?…そうですか…とにかく病院へ参ります!」
明良はそう言って電話を切ると、上着を持って副社長室を飛び出した。
……
明良は沢原の病室に飛びこむようにして入った。
「沢原君!」
沢原が驚いた表情で、ベッドからこちらを見た。頭には包帯を巻かれており、右腕にも肩から手首にかけてギプスをされていた。肋骨も3本折れている。
「大丈夫か!?」
明良がベッドの傍にある椅子に座った。
「ええ…なんとか…すいません。無様な格好で。」
「何を言ってるんだ!…当て逃げだと聞いたが…」
「はい。歩道にいきなり突っ込んできたんです。他に人がいなかったのが幸いでした。」
「…それもそうだが…君を狙ったのか?」
「…そうです。」
「!?…何かあったのか!」
「…以前…痴漢を捕まえましてね。」
「!…」
「捕まえたというか…走って逃げているその男にぶつかってしまいましてね。それで男は捕まったんですが…」
沢原は天井に向いた。
「結局、その男は痴漢行為はしていなかった…。えん罪だったんです。触られたという女の子は金目当てに、その男が痴漢行為をしたと言ったそうなんですが、動揺した男が弁解もせず、その場を逃げ出してしまった。そこに私が通りかかったというわけです。」
「……」
「男は1か月ほどで釈放されましたが、その後行方不明になっているそうなんです。…それを警察から連絡が来て聞いたところだったんです。それで…この当て逃げです。」
「…その人なのか?」
「顔をよく覚えていましたから…運転席から僕をめがけて突っ込んできた必死の形相まで、まだ脳裏に焼き付いていて…」
「…沢原君…」
「殺すつもりだったんでしょうね…僕を。」
「しかし君は何も悪くないだろう。そもそも逃げ出した方にも責任はある。」
沢原は首を振った。
「かなり根に持っているようです。痴漢をされたと言っていた女の子は偽証罪で逮捕されましたが、保釈金を払って出てきたところを当て逃げされたそうです。結局、その当て逃げも犯人は捕まっていません。」
「……」
「…副社長…それよりも…これじゃ曲が作れない…期限は来週までですが…右腕をやられてしまったので、楽器を弾くことも楽譜を書くこともできません。」
「いつもならば…怪我の治癒を優先するんだが…CM曲の依頼だからな…とにかく相手の会社には連絡しておくよ。」
「いえ…もしこれが知られたら…きっと、他にとられます。なんとか曲を作りたい…」
「…沢原君…」
「優を呼んできてほしいんです。今持っているレコーダーが潰れてしまったんですよ。それで予備のICレコーダーがプロダクションの部屋に置いてあるので、それを持って来るように言って下さい。それから圭一君に伝えてほしいんですが…」
「圭一に?…何だい?」
「まだ残りの楽譜が部屋にあるんです。それをすべてキーボードから入力してほしいと…」
「そのまま伝えよう。…彼らにはわかるんだな。」
「わかります。どうしても…作り上げたい。」
「…わかった。」
明良は立ち上がり、急ぐように部屋を出て行った。
沢原はため息をついて、顔をしかめた。堪えていた痛みが大きくなっていた。
……
明良から連絡を受けた秋本はすぐにバイクで病院に向かった。
そして、ノックもせずに病室に入った。
「亮!…レコーダー持ってきたぞ!」
沢原が驚いて、息を切らしている秋本を見た。
「早いな。…まだ痛みが治まらないのに…」
「亮…大丈夫か?…痛み止めが効かないのか?」
「痛み止めなんか飲んだら、頭が働かなくなる。」
「痛みを堪えるのとどっちが働かなくなるんだよ!」
その秋本の言葉に、沢原が苦笑した。が、また顔をしかめて頭を抑えた。
「亮!」
「まだ痛みを堪える方がましだよ。ICレコーダーセットしてくれ。」
「…わかった。」
沢原は必死に痛みを耐えた。
……
一方、圭一はなんとか楽譜を見つけ出し、ヘッドフォンをつけ、MIDIキーボードから音をパソコンに入力していた。
夕方になって秋本が帰ってくると圭一の隣で、沢原がハミングを録音したICレコーダーを聞きながら、もう1つのMIDIキーボードから入力しはじめた。
2人の作業は夜中まで続いた。
……
翌朝、圭一は目を覚ました。「沢原部屋」で寝入ってしまっていた。
隣で、秋本も机に頭を乗せて寝ている。
2人の肩にブランケットがかけられていた。たぶん明良か菜々子だろう。
傍には、サンドイッチと暖かいコーヒーの入った水筒が置いてあった。
「あと少しだ…頑張ろう…」
圭一はそう呟くと、入力したデータの聞き直しを始めた。
秋本はまだ寝息を立てている。
……
翌日、沢原が自主退院してきた。家にも帰らず、いきなり「沢原部屋」に入った。
部屋には、秋本と圭一がいた。
「!!」
「…やっぱりな。来ると思った。」
秋本のその言葉に、沢原は困ったように立ちすくんだ。
「沢原先生!とにかく座って!」
圭一が沢原を椅子に座らせた。
「何かすることはありませんか?僕がわかる範囲でしかできませんが…」
「いや…編集は俺だけしかできないから…」
「おい…大丈夫か?右手は無理だろう…」
「なんとか左手でやるよ。」
秋本と圭一が困ったように顔を見合わせた。
「悪いが出てくれるか。…集中したい。」
「わかりました。何かあったら内線で呼んで下さい。すぐに来ますから。」
「…ん…ありがとう。」
圭一の言葉に沢原は返事をすると、パソコンに向かった。
秋本と圭一は沢原を心配そうに見たまま、部屋を出て行った。
……
圭一と秋本は防音室にいた。秋本は腕を組み、組んだ足をいらいらしたように揺すっている。
あれから3時間も経っている。圭一は何曲か歌ったりして時間を潰したが、気になって本気がでなかった。
秋本はバイオリンもピアノも弾かずに、ソファーに座ってただ待っている。
「あー…もー…何もできないって辛い…」
ピアノの前に座っている圭一が、天井を仰いで言った。
「そうだな…あいつ…しまいに倒れるぞ。」
「今、倒れてないでしょうね!」
「…!…見に行くか!…」
「あー…でも、倒れてなくて勝手に覗いたら…集中が途切れちゃわないかな…」
「あーもう!いらいらするっ!!」
秋本が声を上げた。
「秋本さん、声大きい!」
「防音室だから外に聞かれないよ。」
「僕がびっくりするじゃないですか…」
その時、内線電話がなった。近くにいた秋本が慌てて受話器を取った。
「!!亮っ!どうした!?」
圭一が立ち上がった。
「は?…わかった…すぐ持っていく。」
秋本が苦笑しながら受話器を置いた。
「沢原先生なんて!?」
「コーヒー持って来いってさ。俺のおごりで。」
圭一が立ったまま言った。
「すぐに持って行きましょう!」
「ああ…でも、何で俺がおごらなくちゃならないんだ。」
秋本がぶつぶつと文句を言っている。圭一が笑った。
……
沢原はパソコンの前に伏していた。
しかし伏すこの態勢も肋骨が痛い。…それでもそうせざるを得ないほど、疲れを感じている。
「なんて複雑な曲書いちまったんだろう…俺って天才…」
まだジョークが言えるのかと自分で思った。
頼まれていたのは、車のCMのバックに流す曲だ。高級車のCMだから、高級感のある曲を書いてほしいと言われたそうだ。
(そういう中途半端な指示が一番怖いんだよなー…)
そう思っているとノックが聞こえ、秋本とコーヒーの入った水筒を持った圭一が入ってきた。
「あー…ありがとう…って、どうしてお前らいつも2個一なんだよ。」
机に伏したまま、沢原が言った。
「沢原先生!体…起こせますか?」
「ん~…起こして…」
圭一がゆっくりと沢原の体を起こした。
「あいてててて!」
肋骨が軋んだような気がした。圭一が驚いて手を離した。秋本が背中から沢原の体を支えている。
圭一が涙目になっていた。
「ごめんなさい…大丈夫ですか?」
「君が泣くことない。…それよりも…この画面に出てる楽譜、全部プリントアウトしてくれるか?」
「!もうできたんですか!?」
「まー…できたというか…プリントアウトしなきゃどうしようもないというか…」
「わかりました!」
圭一がマウスを取った。
秋本が沢原の体を背中から抱くようにして支えている。
「プリントアウトして…何も修正がなかったら、オーケストラの団員に配ってくれ。3日後、リハーサルをするからって…」
「3日でできるか?」
「やらなきゃ仕方がない。…向こうの会社が来るのが、5日後だ。調整に2日はいるだろう。」
「亮…」
「これが終わったら、打ち上げやろう。」
「ばかっ!治療が先だ!」
「…先に、酒飲みてぇ…。」
沢原が背中の秋本を見上げて笑った。秋本も笑っている。
「できましたよ!!」
圭一が、プリントした楽譜を沢原に見せた。
……
5日後-
相澤と明良、そして曲を依頼した会社の役員たちが6階のイベントルームで、沢原が指揮するオーケストラの演奏を聞いていた。
右腕のギプスははずしているが、指揮は左手でしている。
終わったと同時に、全員が拍手をした。
「すばらしい!」
会社の役員たちがそう口々に言った。相澤と明良はほっとして顔を見合わせた。
「怪我をしていてここまでの曲を作ってもらって…本当に感謝します。」
役員の一人が沢原の左手を握った。沢原が嬉しそうに微笑み、頭を下げた。
「相澤社長、いい人材を得ましたな。またお願いすることがあると思います。」
「ありがとうございます!よろしくお願い致します。」
相澤が深々と頭を下げた。明良も隣で同じように頭を下げている。
相澤がドアを開け、役員たちを案内した。明良は最後に出ようとして、沢原に振り返って軽く頭を下げた。沢原は深々と頭を下げている。
明良が出て行った。
沢原はオーケストラの団員達に振り返った。
「皆さまのおかげで、大成功を収めました。ありがとうございました。」
と言って、頭を下げた。団員達が拍手をしている。
「お疲れ様でした。どうぞ先に出て下さい。」
沢原がそう言うと、一人一人沢原にねぎらいの声をかけて、部屋を出て行った。
それを見送った沢原がその場にしゃがみ込んだ。
体中から脂汗が出てきている。
「…やっと…終わった…」
息を弾ませて肋骨のあたりを抑えた。肋骨だけじゃない。頭も腕も痛みが大きくなってきた。
「あーもう死んでもいいや。」
そう呟くと、沢原はその場に伏せるように倒れこんだ。
「!!!沢原先生っ!!」
圭一の声がした。そして秋本が自分を呼ぶ声も聞こえた。
沢原はそのまま意識が薄れていくのを感じた。
……
翌日から、沢原は病院で絶対安静を強いられた。
退院まで1カ月かかるという。
病室には、相澤や明良、圭一、秋本が交替で訪れる。
(これじゃ、気が休まらないじゃないか…)
そう思うが、悪い気はしない。
曲は無事レコーディングが終わり、出来上がったCMも病室で見せてもらった。
高級車が走っている画面の右下に「曲:沢原亮」と出ているのを見て、嬉しくなった。
名前を出してもらえるとは思っていなかったのだ。
そのCMが2週間後にオンエアされた。
とたんに「沢原亮」とは誰かと言う噂が広まり、一瞬ではあるが、ネットでの検索語1位にもなった。
……
「ここで入院してますよー」
沢原がテレビに向かって言った。一緒に病室にいた秋本と圭一が笑った。テレビでは、ワイドショーが沢原の事を取りあげている。相澤プロダクション所属という事までは調べられたようだが、どういう人物かはあまり把握されていないようだ。
「退院したら大変なんじゃないですか?」
「ワイドショーにひっぱりだこだろうな。」
圭一と秋本が言った。
…その通り、退院と同時に沢原は、あらゆるワイドショーに出ることになった。
相澤プロダクションが、沢原が退院するまで謎の人物としていたため、実際に沢原の姿を見た視聴者は、その予想を超えた整った顔に沸いた。
またCMのスポンサーも別バージョンとして、沢原がオーケストラの指揮をする姿の映像と、高級車を運転する姿を映したCMを急遽作り、宣伝効果を狙った。
効果はすぐにあらわれ、セレブな奥様方のセカンドカーとして売れ行きは上々だという。
……
数日後-
沢原は、『ライトオペラ』向けの曲を製作していた。協力してくれた秋本と圭一への礼を兼ねていた。
本人たちには出来上がってからしか聞かせたくないと思っているので、一人で楽譜を製作しなければならない。
「めんどくちゃい。」
沢原は思わず呟いた。
「やっぱり…優と圭一君にご協力願うか。」
そう呟くと「沢原部屋」を出て、防音室に向かった。すると防音室から秋本が出てきたところに鉢合わせした。
「!!」
「優!待て!!」
秋本がいつものごとく反対側へ走って行く。
沢原は笑いながら追いかけた。
(終)