挑戦
「はぁ!?」
明良が、ドアにノックをしようとした時、中から女性のそんな声がした。
明良は思わずためらって、後ろにいる圭一を見た。圭一は顔を強張らせている。
メゾソプラノ歌手の1ヶ月後に行われるコンサートのデュエットの依頼が圭一に来た。しかし正直、依頼を受けるのを迷った。『ライトオペラ』はあくまで『ライト』であり、本当のオペラ歌手とのデュエットなど受けていいものかどうか、さすがの相澤も悩んだのだ。だが、逆に断った方が無礼になるのではないかという明良の言葉に、相澤は首を縦に振った。
「だめだったら、だめで、向こうから言うだろう。」
相澤の言葉に、明良はうなずいた。
しかし、今の女性の声からして、どうも圭一に対して不満の声にも聞こえる。
一瞬迷ったが、明良は圭一に「覚悟しよう」と言い、ドアをノックした。
「はい!」
歌手のマネージャーらしき男性の声がした。
「相澤プロダクションの北条です。」
明良が答えた。
「どうぞ、お入りください!」
マネージャーの声に、明良はドアを開け、頭を下げた。
「いらっしゃい!」
さっき、不満の声を上げていたと思われるメゾソプラノ歌手の「中村涼子」が立ち上がって、満面の笑みを湛えていた。
明良と圭一は緊張気味に中へ入り、2人で頭を下げた。
「北条圭一君ね。テレビではよく拝見しています。よろしく。」
涼子が圭一に手を差し出した。圭一は緊張しながら握手をした。
「こちらこそ…よろしくお願いいたします。」
「かわいいわー!」
涼子が頬を自分の両手で挟んでいる。
明良はふと、傍に座っている不機嫌気味の男性に気付いた。結構年が入った男性だった。マネージャーは反対側に座っている人のようだ。
「紹介するわね。こっちが私のマネージャー。で、こっちが私の父。」
明良は涼子の言葉で納得した。明良は父親の方に頭を下げた。
「この度は、ご依頼いただきありがとうございます。」
「私は反対なんだが。」
父親が無愛想なままそう言った。
明良と圭一は恐縮した。
「お父様!」
涼子が父親をたしなめた。
「もう!頭が固いのよ!…そもそも、この北条君のおかげで私のオペラを聞いてくれる人が増えたのよ!」
明良達は驚いて、涼子を見た。
「今もね。まだぶつぶつ言ってるから、頭に来ちゃって…へんな声出しちゃった!!」
涼子がそう言って、明るく笑っている。
明良と圭一はほっとした。さっきの「はぁ!?」は父親に対する声だったのだ。
「ねぇ「モルダウの流れ」聞かせてよ!」
圭一は面食らった。困ったように明良に向いた。明良が言った。
「今日はボイストレーニングも何もしてきていないのですが…」
「いいわよ。合唱曲の伴奏なら用意してあるから。あれ、私本当に好きなの!」
明良は圭一に向いた。圭一は覚悟を決めたようにうなずく。
「やった!マネージャー!曲用意して!」
「はい。」
マネージャーは慌てて、ステレオに向いた。
圭一が立ち上がり、何度か深呼吸した。
マネージャーが再生ボタンを押した。
前奏の後、圭一が歌い出す。声はいつもの調子とは言えないが出ている。
間奏に入ったところで、涼子が拍手をした。父親は横を向いて、ため息をついている。
圭一はめげそうになったが、間奏が終わったと同時に歌いだした。
歌い終わったと同時に曲が終わった。マネージャーが停止ボタンを押した。
涼子が拍手をした。父親は「…口ほどにもない。」と呟いた。
明良が困ったように圭一を見た。圭一が下を向いた。
「ちょっと!!お父様!」
涼子が立ち上がって、父親の傍に言った。
「文句ばっかり言うんだったら、どうして今日来たのよ!!来てくれって頼んだ覚えはないわよ!」
「だって…だって、涼子が恥をかくんじゃないかって…」
「かかないわよっ!!これ以上、ぶつぶつ言うんだったら、こっちから追い出すわよっ!!」
「涼子…」
「うるさいっ!顔も見せないでっ!!」
明良と圭一は面食らって、何も言えないでいる。
「マネージャー!お父様、追い出して!」
「涼子さん…そんなことまでしなくても…」
「顔を見るだけでもいやっ!…いつもいつも私のやることに文句ばっかりつけて…。」
涼子の声が涙声になっている。
「私はもう25なのっ!!出て行って!!」
涼子は父親に背を向けて、ドアを指差した。
父親は悲しそうな表情をして立ち上がり、ドアを開けて出て行った。
明良と圭一が、涼子を不安そうに見ている。どうしたらいいかわからなかった。
「ごめんなさいねー!お見苦しいところを見せちゃって。」
涼子が涙を指で払いながら言った。
「父のことは気にしないでいいわ。今まで、他のオペラ歌手にもああやって文句ばっかり言って、デュエットさせてもらえなかったのよ。」
明良と圭一は驚いた。それならよけいに圭一は、適者とは言えない。
「本当に気にしないでね。私、あなたの心のこもった歌い方が好きなの。そりゃ、他のテノール歌手に比べたら声量も深みも歌い方もまだまだよ。でもそんなこといいのよ。要は気持ち!」
涼子にそう言われて、圭一は恥ずかしそうに下を向いた。明良は微笑んで圭一を見ている。
「よろしくね!コンサートがんばりましょう!」
涼子が手を差し出した。圭一がその手を握った。
……
歌う曲は「タイムトゥセイグッパイ」だった。かなり難しい。声量もかなりいる。圭一はその日から、呼吸の訓練を重視した。
涼子のところへは、週に1回通った。
涼子の声は、メゾソプラノというより、ソプラノに近かった。かなり高い声が出る。また声量もあった。圭一は自分の力のなさを痛感した。
「あら…へこんでる?」
涼子が圭一の顔を覗き込んだ。圭一はどきりとしたが、うなずいた。
「気にしないのよ。私はこの曲、何年も歌ってるの。声量はただのボイストレーニングでやるんじゃなくて、いろんな曲を歌って歌って歌いまくるのよ。そうじゃないと楽しくもないし、うまくもならないわ。あなた…トレーニング重視でしょう。」
圭一はそうずばりと言い当てられ、面食らった。
「やっぱりね。だめだめ。好きな歌を何度も歌うのよ!この「タイムトゥセイグッバイ」が嫌なら、他の曲でもいいの。とにかく歌うことを続けるの。楽しくなきゃ、上達もないわよ。」
涼子の言葉に、圭一は目のうろこが零れ落ちたような気持ちになった。
「…圭一君って、無口なのね。何かしゃべってよ。いっぱいしゃべることも、訓練のうちよ。」
涼子に言われ、圭一は「すいません。」と言った。
涼子はくすくすと笑って「可愛いっ!」と言った。圭一は顔を赤くした。
……
「え?…コンサートは中止?」
圭一が驚いて言った。前には涼子の父親がドアの前で立ちふさがっている。
「そうだ。だから帰ってくれ。…ある団体がお前が出ることを嫌がってね。コンサート自体がなくなることになった。お前のせいでコンサートが潰れたんだっ!!」
父親は赤い顔をしてそう圭一を怒鳴りつけた。
圭一は、父親の後ろにあるドアを見た。本当かどうか、涼子と話がしたかった。
それに気付いた父親は、両手を広げて、入らせない様子を示した。
「今、涼子は泣いているんだ。入るな。」
「!!」
「お前のせいだからな!…調子に乗って、依頼を受けるからだ。断ってくれれば、コンサートがなくなるなんてこと…なかったのに…」
父親の目にも涙が浮かんでいる。圭一は、本当であることを確信した。
そして、頭を下げて、その場を去った。
明良が圭一の話を聞いて、涼子の事務所に電話をしてくれたが、話は本当のようだった。今までオペラ歌手を断ってきたのに、どうしてアイドルの圭一が涼子とデュエットできるのかと、クレームが殺到したらしい。やはり圭一は適者ではなかった。
「圭一…残念だが…あきらめよう。」
明良の言葉に、圭一はうなずくしかなかった。
圭一は、携帯電話を見つめていた。
涼子の携帯番号は一応知っている。…しかし、かけていいものかどうか悩んでいた。
もしかすると、あの父親に取り上げられているかもしれない。
だが、何か感謝の気持ちは伝えたい。涼子のアドバイスは圭一にとって、目の覚めることばかりだった。
楽しまなければ、上達はない。
その涼子の言葉は、圭一の気持ちを楽にした。
圭一が意を決して、アドレスから涼子の番号を検索し表示した。
しかし、その時、同じ文字が表示され、携帯が鳴った。
「!!」
圭一は電話を取った。
「涼子さん!」
「圭一君!?…良かったー!つながって!」
「…すいません…僕のせいでこんなになって…」
「何言ってんのよっ!!私は負けないわっ!」
「!?涼子さん?」
「事務所がやらなければ、私一人でやるしかないわよ。」
「えっ!?」
「圭一君も協力してっ!!」
「え…ですが…」
「頭に来ちゃったっ!!元々はお父様が手を回してこんなことになったのよっ!!」
「!!…そうなんですか…」
「まさか、コンサート自体がなくなると思ってなかったらしいの。馬鹿だと思わないっ!?」
涼子の元気な言葉に、圭一は思わずくすくすと笑い出した。
「?どうしたの?何を笑ってるの?」
「涼子さんのその男気ですよ…僕が負けてしまいそう。」
「何言ってるのよ!よく男前って言われるけどねっ!」
涼子がそう言い、圭一はまた笑った。
「…あの…涼子さん…それなら、こういうのどうでしょう?」
圭一の意見に、涼子が嬉しそうな声を上げた。
……
1ヶ月後-
都内のホールで、涼子のコンサートは行われた。
主催は「相澤プロダクション」である。つまり、相澤プロダクションが、中村涼子を全面的にバックアップしてコンサートが開かれたのである。
しかし、これは完全にオペラ界を敵に回すことになる。もしこのコンサートが不評なら、今後、圭一が『ライトオペラ』を続けられるかどうかもわからないほど、危険な方法だった。
それでも、相澤と明良は圭一の意見を受け入れた。
コンサートのチケットは完売だった。聞く方は、主催がどこかなどは気にしないようである。とにかく中村涼子の歌声を純粋に聞きたいファンが殺到した。これまでのコンサートより値段が低いということもある。
涼子は1曲目から上機嫌だった。とても生き生きと歌っているのがわかる。
圭一と歌う番が来た。
圭一と涼子は最初から最後まで、手をつないだまま微笑みあって「タイムトゥセイグッバイ」を歌った。圭一の声は今までよりも余裕があり、自信に充ち溢れているように、明良には見えた。
涼子の声にも負けていないが、涼子の声を殺すこともなかった。
袖でそれを聞いている相澤が「シングルにできないかなー…」と呟いている。隣にいた明良は「涼子さんの事務所がどう言うかですね。」と答えた。相澤はため息をついた。無理だと判断したらしい。
歌が終わり、拍手が起こった。立ち上がっている観客もいる。「ブラボー!」という声もあった。涼子と圭一は嬉しそうに顔を見合わせて、手をつないで頭を下げた。
その後、涼子は秋本の伴奏で「主よ、人の望みの喜びを」を歌った。
観客には、秋本を知らない客が多かった。秋本が姿を現したとたん無料で配ったパンフレットを慌ててみる観客の姿が目立った。
弾く姿が美しいのに驚いているようだ。こそこそと「男?女?」という声もしている。袖にいた圭一にその声が聞こえて、思わず吹き出していた。
「確かに「優」という名前は女性とも取られますね。」
圭一が横にいる明良に言った。明良が苦笑してうなずいて言った。
「秋本君もファンを増やしたな。」
涼子は秋本を見つめながら歌っている。秋本はいつもの癖で目を閉じて弾いているが、時々、出だしを合わせるところだけ目を開いて涼子を見た。
曲が終わり、秋本は涼子の握手を受けた。そして片膝をついて、涼子の手の甲にキスをした。ため息と拍手が起こった。
「やるー!秋本さんっ!」
圭一が笑いながら拍手をしている。明良も「さすがだな」と苦笑している。
アンコールでは、圭一も涼子に呼ばれ秋本も呼ばれた。そして3人で相談して、秋本の伴奏で「主よ、人の望みの喜びを」を2人で歌った。
コンサートは大盛況で終わった。
……
翌日-
涼子から圭一にメールがあった。「会いたい」とある。
圭一は不思議に思ったが、休みをもらっていたので「どこがいいですか?」と返信した。
「2人でゆっくり話せるところ」とあったので、いつも行く橋に誘った。涼子が同意した。
……
「…まだ興奮しちゃって…」
橋から川を見ながら、涼子が隣の圭一に言った。
「そうですね…。本当にすごかった…。僕らのようなアイドルとは違う…大人の盛り上がり方というか…凄かったです。」
「これも、圭一君のおかげよ。本当にありがとう。」
「いえ…僕は、箱を用意しただけです。何もしていません。」
「社長さん達にもお礼言ってね。」
「もちろん。」
圭一が微笑んで涼子を見た。涼子が圭一に握手を求めるように手を差し出した。
圭一がその手を握った。
涼子が背伸びをして、圭一の唇に自分の唇を押し当てた。
「!!」
圭一は驚いたが、身を引くことはしなかった。ただ動かずにじっと涼子のキスを受けている。
「…優しい人ね。」
唇を離して涼子が言った。
圭一は驚いた目で涼子を見ている。
「…テレビで見ていた時から好きだった。圭一君の事。」
「!…え?」
「だから…今回の事は本当に私のわがままだったの。」
「……」
「会ってみて、もっと好きになっちゃった。…でも圭一君は、全然そんな風じゃなくて…。」
「…涼子さんのことは尊敬しています。」
「!…」
「…でも…恋愛とか…そういうのは…元々苦手で…」
「何か、嫌な思いしたのね。」
「!…」
またずばり言い当てられて、圭一は驚いた目で涼子を見た。涼子が微笑んで言った。
「…また…一緒に歌ってね。」
「はい!」
「ありがとう。またね!」
「…ありがとう…ございました。…また…」
涼子は手を振って去って行った。去って行く先には、父親が運転する車が待っている。
やはり、涼子は父親から離れられなかったのだった。
…その父親が運転席から降りて、圭一に頭を下げた。
圭一は驚いて、頭を下げ返した。
涼子が助手席に乗る前に、また圭一に手を振った。
圭一も手を振り返した。
涼子を乗せた車は、圭一の横を通り去って行った。圭一は見送った。
「…頑張ってください。…また会えるかどうか…わからないけど…」
圭一は、もう見えない涼子の車に呟いた。
(終)