遠慮
「ただいまー!」
菜々子が出張から帰ってきた。キッチンで晩御飯を作っていた圭一が、エプロンをつけたまま玄関で菜々子を出迎えた。
「母さん、おかえり!」
「ただいま、圭一君!」
靴を脱いで上がったところで、菜々子が少し背伸びして、圭一の唇に「ちゅっ」とキスをした。
「わーいい匂いねー!今日はカレー?」
菜々子はそう言って入って行ったが、圭一はその場に固まったまま動かない。
「?圭一君?」
菜々子が気づいて玄関に振り返ると、圭一がとたんにその場に座り込んだ。
「圭一君!どうしたのっ!?」
菜々子が圭一の背中を支えて顔を覗き込むと、圭一の顔が真っ赤になっていた。
……
明良がカレーを食べながら笑った。
「…今までしたことなかったんですか?菜々子さん。」
「そう言えばそうなの。大抵私が先に帰っていたから…なんかついね。」
隣でカレーを食べながら、菜々子も笑っている。向かいに座っている圭一の顔はまだ赤かった。
「…かなり刺激が強かったみたいですよ。でも、圭一も北条家のルールに慣れてくれなきゃ。」
「えっ!?…ルールなんですか?」
「そうだよ。スキンシップがうちのルール。子どもができても続けようって、菜々子さんと決めていたんだ。」
「はぁ…。」
「いつか私からも圭一にキスするかもしれないぞ。」
「えーっ!?」
圭一が驚き、菜々子が笑った。
……
翌朝-
ベッドの頭側にある、屋内用のインターホンがなった。
素肌で菜々子と抱き合って寝ていた明良が体を起こし、手を伸ばして受話器を取った。
「どうした圭一?」
「起こしてごめんなさい。秋本さんのところに、昨夜の残りのカレー持って行っていいですか?」
「ああ…構わないよ。菜々子さんと僕の分と2皿分残しておいて欲しいけどな。」
「わかりました。お皿に冷ご飯と入れておきます。レンジで温めるだけで食べられるようにしておきますから。」
「ん、ありがとう。気をつけていけよ。」
「はい!行ってきます。」
インターホンが切られた。
今目覚めた菜々子が「圭一君なんて?」と聞いた。
「秋本君のところにカレーを持って行くそうです。」
「そう。まだ食べたかったなぁ…」
「ちゃんと僕らのは残してもらってますよ。温めたらいいだけにして置いて行くって。」
「至れり尽くせりで、申し訳ないわね。」
「…そうだな…。19歳の男の子にしては…気が利きすぎるかな…」
「ねぇ…明良さん…」
「ん?」
「圭一君…私たちと一緒に住んで…本当に幸せなのかしら…」
「!?」
「寂しくはないと思うけど…圭一君の自由を奪っているんじゃないかって…時々思っちゃうの…」
「……」
「今までだったら、誰にも気を遣わず友達のところに遊びに行ったり、友達を泊めてあげたりしてたと思うの…もしかすると、彼女も泊めてたかもしれない。…でもここにいたら…そうはできないわよね…」
明良は一点を見つめて動かない。
「私たちは息子ができたみたいで嬉しいし、気の利く子だから助かってるけど…窮屈に思ってないかしら…」
「……」
「一度私の方から聞いてみていい?」
「…ん…お願いしていいですか?僕から聞くのは…ちょっと辛くて…」
「ええ…さりげなく聞いてみるわ…」
明良はうなずいた。
……
秋本の家で、秋本は一緒にカレーを食べている圭一に言った。
「今日はトマトなしなんだな。」
「ええ。もう夏野菜って時期じゃないですしね。」
「なるほど。…でも、これはこれで美味しいよ。」
圭一が嬉しそうにした。
「今日は副社長達も休みなんだろ?どこか一緒に行ったりしないのか?」
「…だって…副社長達…昨夜ラブラブだったから…」
「!!!!!」
秋本が思わずスプーンを落とした。
「…声…聞こえるのか?」
圭一は顔を赤くしてうなずいた。
「…昨夜たまたまキッチンに水を飲みに行って…聞いちゃったんです…」
「いいなー!おまえー!」
「えっ!?」
圭一は驚いて、秋本のにやけ顔を見た。
「秋本さん、人格変わってますよ。」
「あ、やばい…」
秋本が自分の顔を軽く叩いた。圭一が笑って、カレーを食べた。
秋本もスプーンを拾って、食べ始めた。
「うらやましいよーそれー。副社長達が子作りしてる声。」
「やめて下さいよ…。その生々しい言い方。」
「…でも…なかなか出来ないんだなぁ…。子ども…。男でも女でも綺麗な子が産まれるんだろうな。」
「そうですね。」
圭一がふと表情を暗くしたのがわかった。
秋本がそれに気付いて言った。
「?どうした?」
「…副社長達に子どもができたら…僕…出て行った方がいいのかなって…」
「!?どうして?」
「…だって…僕は実の子どもじゃないし…」
「戸籍は変えてないのか?」
圭一は首を振った。
「…副社長達に子どもが出来た時に、あらためて考えた方がいいと思って…。」
「圭一君…君は…本当は子ども作って欲しくないんじゃない?」
「そんなことはないです!僕だって、副社長達の赤ちゃんの顔は見たいです。」
「…!…」
「…見たいですけど…。その時に戸籍に入れてもらう話をしてみて…いいって言ってくれるかどうか…不安なんです。」
「きっと、大丈夫だよ。副社長達に限って、君とは血のつながりがないからって、捨てるわけないだろう。」
圭一の目に涙が浮かんでいる。秋本がスプーンを置いて、圭一の頭を髪を崩すようにして撫でた。
「こらこら!悪い風に考えるな!絶対に大丈夫だから!」
圭一はうなずいて目をこすった。
……
「圭一…まだ帰ってこないんですね。」
明良が新聞を読みながら言った。菜々子が食べ終わったカレー皿を洗いながら答えた。
「ええ。今日はずっと秋本さんのところにいるつもりじゃないかしら?」
「…そうですか…久しぶりに3人とも休みなのに…」
「今の時期は、親よりも友達なんじゃない?私もそうだったわ。」
「ん…。こんなに寂しいものなんですね…親って…。」
「…明良さん…」
菜々子が手を洗ってタオルで拭うと、コーヒーメーカーの用意をしながら言った。
「私たちが圭一君の行動に、あんまり干渉しない方がいいわ。圭一君、窮屈に感じるわよ。」
「…そうですけど…。」
明良は新聞を畳んで置いた。
「今日、2人でどこか行きましょうか。」
「そうね。お腹はいっぱいだし、あっ!そうだ!美術展やってるのよ!六本木で。印象派の…」
「へぇー。じゃぁ行きましょうか。」
「行きましょう!」
「圭一に連絡しておいた方がいいかな。」
「いいんじゃない?そんなに長くいないでしょう?」
「…ん…。」
明良は一旦取り出した携帯を閉じた。
……
圭一が家に戻ると、鍵が閉まっていた。
「!?」
圭一は鍵を取り出して、ドアを開けて入った。
「ただいま…」
言ってみたが返事がなかった。
「…どっか2人で行っちゃったんだ…。…僕が帰ってこないって思ったのかな。」
寂しさを感じながら、自分の部屋に入った。
ステレオの電源を入れ、再生ボタンを押した。
オペラ「アイーダ」が流れた。
圭一はベッドに体を横たえた。
さっき、秋本と話していたことが蘇った。
明良達に子どもができた時、本当に自分がこの家にいてもいいのか…。正直、毎晩のように考えていることだった。
(赤ちゃんの面倒みたいな…可愛いだろうな…)
すぐに子どもが出来て欲しいという気持ちと、まだ本当の子どものように扱われたいという気持ちが交差する。
また涙が溢れるのを感じ、圭一は慌ててブランケットを被った。
しばらくして、圭一は眠りに落ちた。
……
明良と菜々子が帰ってきた。
誰もいないと思っているので「ただいま」も言わなかった。
明良は両手に荷物をたくさん持っている。菜々子も両手に買い物したものを持って、そのまま靴を脱いで、玄関を上がった。
「あー!重たかった!!」
菜々子はそう言って、腕を回した。
「ついつい…買っちゃって…。圭一君、このスニーカー喜んでくれるかしら。」
「圭一はまだ帰ってないのかな。」
明良が不安そうに言った。
「玄関閉まってたし…」
と菜々子が言うと、明良がふっと何かに気付いたような表情をして、リビングを出て行った。
「明良さん?」
菜々子も明良の後を追った。すると圭一の部屋から、オペラの音楽が聞こえてきた。
「!…圭一君、帰っていたのね!」
2人は少し気まずい気持ちになった。明良は圭一の部屋を遠慮がちにノックした。
「圭一…?帰ってるのか?」
明良がそっとドアのノブを回すとドアが開いた。
ゆっくり開けて、中をのぞくと、圭一がブランケットを頭までかぶり、体を曲げて寝ていた。
「…寝てるのね…よかった…」
菜々子がそう言ったが、明良がそっとブランケットを下げて首を振った。
「…泣いてますよ。」
「!!」
圭一の頬に涙の後が残っている。
「…こういうところも19歳じゃないな。まるで小さな子どもだ。」
明良が、圭一の顔を見ながら呟くように言った。
「ごめんなさい…やっぱり連絡するべきだったのね。」
菜々子が涙ぐみながら言った。
その時、圭一が何かを呟いた。
明良がしゃがんで、圭一の口元に耳をやると、明良の目がはっと見開いた。
「圭一!」
明良がそう言って、圭一の体を揺すった。
菜々子が驚いて、明良の腕を掴んだ。
「明良さん…起こさなくても…」
「…よくない夢を見てる……圭一!」
菜々子は驚いて、圭一の顔を見た。
「圭一…帰ったよ…圭一」
明良が何度も圭一の体を軽く揺すった。圭一がふと目を開けた。
「!!…」
圭一が飛び起きて、はっと気付いたように目にたまっていた涙を慌てて払った。
「…何の夢を見てた?」
明良が尋ねた。圭一は首を振った。
「言うんだ。…気持ちを閉じ込めるな。」
明良のその言葉に、圭一は下を向いて「大阪の…」と呟いた。
「うん…大阪の?…どうした?」
「大阪の家…追い出された時の夢を見てました…ドアを締められて、必死にドアを叩くんやけど…開けてもらえなくて…」
菜々子が口元を両手で押さえた。明良が下を向いた。
「思い出させてしまったんだな…すまなかった。」
圭一は驚いて首を振った。
「僕も…帰る時間言わなかったから…ごめんなさい。」
「ごめんね。圭一君。…これからは必ず連絡するからね。」
菜々子が言った。圭一は菜々子にうなずいた。…だが、また涙がこぼれ出た。
「圭一君…」
圭一は菜々子に抱きしめられ、声を押し殺すようにして泣いた。まるで幼い子供のようだった。
……
「…このスニーカー…高かったんじゃ…」
圭一が、菜々子が差し出したスニーカーを見て言った。
「今、流行ってるんですってね。お店の人に言われて買っちゃった。サイズ合ってるか履いてみて。合わなかったら、変えてもらうから。」
圭一は嬉しそうにスニーカーに足を入れた。
明良が微笑みながら、圭一の嬉しそうな顔を見ている。
「ぴったり!」
「あら!菜々子の感せいかーい!」
圭一と明良が笑った。圭一は両方のスニーカーに足を入れて立ち上がると、足踏みをした。
「かかととか、痛くないか?」
「はい。大丈夫です。」
「それなら良かった。」
圭一は、さっきの泣き顔からすっかり表情が変わっている。
げんきんなものだと明良は思った。
…だが、圭一の本当の気持ちは、その時の明良にはわからなかった。
いつか知ることになると思うが…。
……
その夜-
「圭一君…あのね。」
キッチンで晩御飯の準備を手伝っている圭一に、菜々子が言った。
明良はリビングのソファーで、テレビのニュースを見ている。
「はい?」
「いつも助けてもらって嬉しいんだけど…」
「?」
「…私たちと一緒に住んでて…窮屈じゃない?」
「…え!?」
「私たちはとても嬉しいの…でも明良さんとも言っていたんだけど…19歳の男の子って…本当はもっと自由に遊び回っている年齢じゃない? それなのにあなたはいつも家事を引き受けてくれて、見るテレビとかも気を遣ったりして…何だかね…申し訳ない気がして…」
圭一は冷蔵庫の前に立ったまま、動きを止め黙っている。
「圭一君は今彼女いない?」
「!いえ…いません。」
「そう。ならいいんだけど…窮屈なことがあったら言ってね。あなたが自由に生活できるようにするから。」
「僕…も聞いていいですか?」
「なあに?」
「僕は邪魔じゃないですか?」
「圭一君…」
「…時々…不安になるんです…。父さんと母さんの生活のリズム…壊してないかって…」
「何言ってるの!何にも壊れてないわよ。」
圭一はそのまま黙って動かない。
「圭一君…」
菜々子が圭一の背中から、体に両腕を回して抱いた。
「!!」
圭一の体がびくっと固まった。
「あなたが来てくれて、本当に明良さんも私も幸せよ。でもあなたが幸せに思ってくれなきゃ、意味がないの。私が思ったのはね、あなたがここにいたら、友達を家に呼ぶことも、彼女を呼ぶこともできないんじゃないかって…。普通に皆がしてることを、あなただけができないんしゃ…可哀相だと思って…」
圭一は首を振った。
「僕は…今幸せです。きっと誰よりも…」
「圭一君!嬉しいっ!」
菜々子が飛びつくように、圭一の首に腕を回した。
「し、幸せ過ぎて、何だか…息が苦しいです…」
「えっ!?」
菜々子は慌てて腕を外した。圭一が首に手を当てて、その場にしゃがみこみ咳込んだ。
「きゃー!ごめんなさい!首絞めてたのね!」
「何を騒いでるんだ?」
明良がキッチンに入って来て言った。
「幸せ過ぎて、首絞めちゃった!」
菜々子の言葉に明良が目をまるくし、圭一が笑った。
(終)