決断
圭一はアクロバット専用レッスン室で、雄一達が稽古をしているのを、外から見ていた。
ガラスの向こうで、雄一と間宮、相本が新曲の振り付けをしている。圭一も知らなかったが、雄一達自身で曲の振り付けをしてたのだ。
雄一が仮のマイクを持って、音楽に合わせて歌っている。
圭一は雄一達の横から見ている形になる。音は少しだけ漏れているが、はっきりとは聞こえない。それでも激しい曲だということはわかる。
雄一が歌っている途中でマイクを軽く投げ、1回転させまた持つと続けて歌った。
そのまま3人で数歩下がったと思うと、3人とも別方向にバック転をした。すぐに雄一が前に側転し、両足で着地して、そのままバック転をした。それもマイクを持ったままだ。足をついたとたん前を向いて歌いだす。
圭一は、自分が息をしているのを忘れて見入っていた。
雄一達が急に踊るのをやめた。振り付けはここまでらしい。
雄一がステレオを止め、皆座り込んで汗を拭きはじめた。
雄一が圭一に向いて、笑顔で手を振った。圭一が振り返した。間宮達が立ち上がって頭を下げた。圭一も恐縮したように頭を下げる。
中に入ってもいいのだが、何か雄一達の聖域のようで、入りにくい。
雄一も手招きしてくれたが、圭一は遠慮する仕草を返した。
圭一は雄一に手を振って、ジム室に向かった。
(そういや…秋本さんとまだ新曲の相談ができていないな…)
雄一とのドラマも終わり、正直『ライトオペラ』は煮詰まった感がある。雄一達のダンスを見た後もあり、圭一は少し焦りを感じていた。
……
圭一が食堂で独り、ジム帰りにパスタを食べていた。ジムの後は何故かパスタを食べたくなる。
その時、秋本が「やぁ」と言って、パスタの皿の乗った盆を置いて、圭一の前に座った。
「秋本さん!…今日来てたの知らなかった…。」
「今、来たんだ。君に話があって…」
圭一は、秋本も新曲の相談できたのだと思った。
圭一はフォークを置いて秋本の言葉を待った。。
「あのさ…」
秋本は、先週、家に来た雰囲気とは全く表情が変わっている。
何か思い詰めたような顔だ。
「…実は昨夜考えてたんだけど…」
圭一に何か嫌な予感が走った。
「一旦、別々で活動するか。」
秋本はパスタには全く手をつけず、圭一をまっすぐ見て言った。
「!?…どういうことですか?」
「ライトオペラの新曲が、また止まってるだろう?それは、君が俺のバイオリンのことを考えているからだと思うんだ。」
「!!」
「君が一人でやっている頃は、どんどん新曲が出ていた。それは自由に歌えるからだ。」
「秋本さん…」
「君はソロでやった方がいい。」
「秋本さんは、何かされるんですか?」
秋本は首を振った。
「バイオリンだけではだめだよ。僕のバイオリンは君の歌のおかげで生きていた。でも…君の邪魔になっているんじゃないかって…昨夜ふと思ったんだ。」
「…そんな…」
「新曲…初心に戻るつもりで、独りで考えてみるんだ。」
秋本はそう言って圭一の肩を叩くと、パスタの皿の乗った盆を持って、カウンターに行った。
「これ持って帰るから、パックに入れてくれる?」
秋本は明るい声でカウンターの女性に頼んでいる。
女性が快諾している声がした。
圭一は一点を見つめたまま、動かなかった。
……
圭一はアパートで体を横たえていた。
何故か勝手に涙が流れた。
「僕だって…今更独りで歌えないですよ。」
そう呟いた。本当はあの時もそう言いたかった。だが、何故か言えなかった。
圭一が目を覚ますと陽が射していた。
ふと体を起こすと、ちゃんと布団の上で寝ている。
自分でひいた覚えがなかった。
携帯を見るとメールが入って来ている。
明良からだった。
『昨夜行ったが、寝てたので帰った。起きたら、電話してほしい。』
圭一は目をこすって、明良に電話をした。
明良がすぐに出た。
「圭一、大丈夫か?」
「父さん、ごめんなさい。気づかなくて…」
「いや、それは構わないが…何があったんだ?」
「!?」
「…泣いてたから…何かあったかと思ってね。」
圭一はまた慌てて目をこすった。
「今からそっちに行くから。」
「ううん…僕が副社長室に行きます。」
「いやいいよ。待ってなさい。」
通話が切られた。
……
20分程してから、ノックの音がした。
圭一が椅子から立ち上がると、玄関が開いた。
「父さん…」
「大丈夫か?」
明良の言葉に圭一はうなずいた。
「座ってていいよ。」
「コーヒー入れる。」
「…そうか…」
圭一の煎れるコーヒーが美味しいのは、明良も知っている。
明良は、圭一がコーヒーを煎れるのを、椅子に座って見ていた。
しばらくして、圭一が明良と自分にコーヒーカップを置いた。
「ありがとう。」
明良が一口飲んだ。
「今日はブルーマウンテンじゃないようだな。」
そう明良が言うと、圭一の目がふと陰った。秋本のことを思い出したのだ。
「キリマンジャロ…」
「そうか。酸味が確かに強いな。」
明良はそう言ってから、
「で、何があったんだ?」
と言った。
「秋本さんが…」
「うん」
「初心に戻って、独りで新曲やれって…」
「また何かぶつかったのか?」
圭一は首を振った。
「昨日、食堂で会って、突然…。前の晩に急に思ったんだって…」
「……」
明良は、秋本が圭一のことを思って、決心してくれたことを悟った。
「お前はどうしたい?」
「…今は…秋本さんのいないライトオペラは考えられないけど…。初心に帰れって言われれば、確かに、秋本さんに頼らないで、やってみた方がいいかも知れないって思って…」
「ん…」
明良もうなずいた。
「考え方によっては、秋本君がくれたチャンスとも言える。独りでやってみたら?」
圭一は頷くが、目が一点を見つめたまま、黙っている。
まるで、魂が抜け落ちたようになっている。
「圭一…」
明良が圭一の肩に手を乗せて、軽く揺すった。
圭一が、はっとして明良を見た。
「今日は休んでいい…ゆっくり考えるんだ。」
圭一は「はい」と答えた。
……
圭一は、オペラの楽譜を感情もなく見ていた。
全く、頭に何も浮かばない。
曲はたくさんあるのに、選べない。
「プッチーニ…ビゼー…ヘンデル…」
呟くように言うが、ピンと来ない。
圭一は、ため息をついて呟いた。
「僕は…何がしたいんや…」
自分で自分がわからなくなっていた。
自分は一体、何がしたくてオペラを歌っているのだろう?
そんなことまで思った。自分がオペラを歌う意味までがわからなくなっていた。
……
翌日-
圭一は、声楽レッスン室に独りいた。ピアノの鍵盤を見つめ、ぼんやりとしている。
何も決まっていない。
今まで歌っていないオペラを何曲か歌ってみた。
しかし、インパクトのある曲がない。
『ライトオペラ』はポップスの音楽番組で歌うことをコンセプトにしている。新曲を出して出演するためには、インパクトが必要だ。
圭一がデビューした時は、いつもと違う声で印象付けていた。
そして、皆が圭一の声に慣れたころ、秋本のバイオリンと美しさに補われた。
今、その秋本に頼れないとなっては、それ以上のインパクトがある何かが必要になる。
そのインパクトに当たる歌も演出も思いつかない。
独り悩む日が続いた。
……
「圭一…顔色が悪いぞ。」
明良が言った。1週間が経過しても圭一から新曲の報告がないので、レッスン室に圭一の様子を見に来たのだった。
「何か…気分悪くて…」
圭一が胃の辺りをさするように言った。
「!…病院へ行こう。車を用意するから…」
明良が立ち上がりながら言った。
圭一は首を振った。
「病院行くほどじゃ…」
「だめだ。今のうちに行った方がいい。駐車場で待ってるから、荷物を持って下りておいで…」
「…はい」
明良は急ぐようにレッスン室を出て行った。
独り残った圭一は、楽譜をまとめて、鞄に入れた。
その時、咳がでた。
口元を押さえた手に血がついた。
「!?」
(喉を切ったかな?)と思った。歌い過ぎるとたまにあることだ。だが今日は1曲しか歌っていない。
「おかしいな…」
圭一はそう呟いて、鞄を肩にかけた。
そのとたん、胸にいきなり熱いものが込み上げてきて吐いた。
大量の血だった。
目の前が真っ暗になり、圭一の身体が崩れ落ちた。
明良は圭一がなかなか来ないので、車から出た。
(全くあいつは…たまに頑固になるからな…)
そう思いながら、エレベーターに乗り、一気に声楽レッスン室のある5階まで上がった。
声楽レッスン室まで駆け足で向かい、ドアをノックしてから開けた。
「圭一!ちゃんと言うことを…」
明良は異様な光景に目を見開いた。血だまりの中で倒れている圭一に駆け寄り、圭一の上半身を持ち上げた。口元に大量の血がついている。血を吐いたことを悟った。
「…圭一…圭一!」
明良は涙声で圭一の体を揺すった。圭一の顔は白く死んだように動かない。
圭一の胸に耳を当てて、心臓の鼓動を確認すると、血がついたままの手で携帯をポケットから取り出した。
……
秋本は、圭一の病室に向かっていた。
本当は圭一が新曲を出すまで、ずっと会わないつもりでいた。
だが明良のメールを見て、そうはいかなくなった。
メールには「圭一が重度の胃潰瘍で倒れた。」とあった。
秋本は、病室の前のソファーで座りこんでいる明良を見つけた。
明良も気づいて、立ち上がった。
「秋本君!…来てくれてよかった…」
「…すいません…」
秋本が頭を下げた。
「…いや…私が圭一をしっかり管理していていれば…こんなことには…。」
明良の言葉に、秋本が首を振った。
「…会ってやってくれるか?…眠っているかもしれないが…」
「はい…」
明良がドアを開いて、秋本を病室に入れた。
秋本は、圭一の顔を見て息を呑んだ。
顔色が全くなかった。青いというより透き通るように白い。まるで蝋人形のようだった。
明良がそっと部屋を出て行った。
秋本は、ベッドの傍にある椅子に座った。
「…そんなに…つらかったのか?」
秋本が呟くように言った。
「どうしてだよ。…最初は独りでやってただろ?…どうしてそれができなくなったんだ…」
その声が聞こえたのか、圭一がゆっくりと目を開いた。
そして、秋本の方を向いた。
うれしそうに微笑んで、秋本に手を差し出した。
何か言おうとするのだが、声が出ていない。
秋本は圭一の白い手を取った。
「…声…でないのか?」
秋本が言った。圭一は首を振っている。だが、口が動くばかりで声が出ていない。圭一が困ったように眉をしかめた。
秋本は圭一の口元に耳を寄せた。
「…もう1度言って。」
秋本がそう言うと、圭一の口が動いた。
秋本の目が見開かれた。
「圭一君…それは…!」
秋本が圭一の手を握り、首を振った。
「だめだ!…今になってどうしてそんなことを言うんだ!」
圭一の目から涙が零れ落ちた。
「圭一君!俺はそんなつもりで離れた訳じゃない。もう1度、君に独りで歌って欲しかったんだ。それだけだ。」
圭一が首を振っている。
「最初は独りで歌っていたじゃないか!それがどうして…」
圭一は涙を残したまま、首を振るばかりだった。
……
秋本は病室を出た。
明良が、ソファーから立ちあがった。
「…副社長…圭一君が…ライトオペラを辞めるって…」
明良はうなずいた。先に聞かされていたのだ。
「私からは辞めるのではなく、期間を決めずに休んだらどうだと言ってある。マスコミにも公表しないつもりだ。」
「……」
秋本は責任を感じていた。まさかこうなるなんて予想していなかった。
明良が口を開いた。
「…思えば、まだ圭一は19歳なんだ…。…圭一にとっては、重圧だったのかもしれない。…私も…圭一に任せっきりで、何もアドバイスをしてやれなかった。」
「…僕のせいです…」
「いや、いい機会だったんだよ。…圭一にとっては。」
秋本は顔を上げた。
「…もし君がこうしてくれなかったら…圭一を休ませることはできなかった。圭一には週に1日は必ず休ませていたが…それでは足りなかったんだ。ドラマとオペラ、そして雄一君とのユニット。彼の若さに任せて私たちは何も彼のフォローをせずにいた…。」
(そして俺がとどめを刺してしまったんだ…)
秋本が思った。それに気付かない明良が言った。
「医者が言うには、圭一の胃には胃潰瘍を繰り返した跡がいくつもあったそうだ。コーヒー好きも胃を荒らすのを手伝っていた。…だが圭一にとっては、喫煙者が煙草をやめられないのと一緒で、コーヒーの沈静作用の助けがなかったら、耐えられなかったんだろうと思う。」
「……」
「圭一が退院したら、私の家に引っ越させるつもりだ。それでしばらく様子を見ようと思う。」
秋本はうなずいた。それだけが救いだと思った。
「退院したら連絡するよ。家に遊びに来てやって欲しい。」
「!」
「圭一が一番頼りにしているのは、君だ。負担に思うだろうが…このことで、圭一と縁を切って欲しくないんだ。」
「副社長…」
秋本が俯いた時、涙がこぼれ落ちた。初めて人前で見せた涙だった。
……
圭一は、それから1週間後に退院した。
そして明良の家への引っ越しも、無事終わった。
だが医者からは安静を言い渡された。退院後1ヶ月は、すべての仕事を休むように言われた。
秋本は明良から連絡をうけたが、どうしても圭一に会いに行く決心がつかなかった。とりあえず、連絡をくれたことへの礼だけ返信した。
圭一からもメールは来ない。
もう圭一とは、一緒に演奏することも、一緒にバイクに乗ることも、一緒にコーヒーを飲むことすらないことを、秋本は予感していた。
(終)
<あとがき>
最後までお読みいただきありがとうございます(^^
圭一はオペラを歌わないと決めましたが、ま、そうはいかないでしょう(^^;)
圭一が血を吐くシーンがありますが、これは実際に血を吐いた方に聞いたんですが、結構血を吐くまで自分で気付かないそうです(--;)気分が悪いな~とかそんな程度にしか思っていなかったそうなんですが、仕事が忙しく、対して気にしていなかったある日、突然、気分が悪くなり、「吐いちゃった方が楽かなー」なんて気楽に吐いたら、血だったという・・・(--;)その後目の前が真っ暗になって、救急車のお世話になったそうです。
皆さんも、お体には気をつけて下さいね。
では、次回もどうぞよろしくお願いします(m_ _m)