冷徹
「こんな人が本当にバイオリン弾けるの?」
神野にそう言われ、秋本が苦笑した。
「お気に召さないのでしたら、喜んで辞退いたしますわ。」
菜々子が言った。秋本は驚いて菜々子を見た。
実は、秋本はこの「神野あい」のコンサートで、バイオリンを演奏をして欲しいと要請があったのである。
上下関係では確実に相澤プロダクションの方が下である。下手をすれば、業界から追放されるくらいの力を持っているほどの相手だと、秋本は聞いていた。
神野も神野のマネージャーもびっくりしていた。
「その言葉がどういうことになるかわかっているんでしょうね?」
マネージャーが言った。
「あら、脅しかしら。後は弁護士同士でお話していただいても構いませんけど。」
菜々子は強気だった。元女優の気丈さというものなのか…
「いやその…」
「こんな人という言葉はどういう意味なんでしょうか?…ご不満なら、最初から呼ばないでいただきたいわ。」
秋本が思わず吹き出している。
「今日は帰らせていただきます。何か制裁をお考えならどうぞ。こちらはこちらで、正々堂々とお迎えします。」
菜々子がそう言って立ち上がり、頭も下げずに部屋をでた。秋本も頭を下げて出て行こうとした。
「待って!秋本さん…」
秋本はゆっくり振り返った。
「はい。なんでしょうか?」
秋本は神野に体を向け返事をした。
「…謝るわ…」
秋本は困った表情をした。
「今日は無理だと思います。専務は頑固ですから。」
神野が目を見開いた。秋本が言った。
「私の方から、専務に今の神野さんの言葉をお伝えしておきます。そうだ…すいません、紙とペンはありますか?」
マネージャーが持ってきてくれた。
秋本は「すいません」と言って受け取ってから、自分の携帯のメールアドレスを書いて、神野に渡した。
「私のメルアドです。何かありましたら、こちらにメール下さい。必要なければ棄てて下さい。…失礼します。」
秋本はそう言って再び頭を下げると、ドアを出た。
……
その晩に、神野からメールが来ていた。
ちゃんと謝罪の言葉がある。
神野がいきなりあんなことを言ったのは、上下関係をはっきりさせるためである。…ハクをつけるためと言おうか…。
だが、それは菜々子には通じなかった。今までになかったことなのだろう。
マネージャーが再度脅しても菜々子にはきかなかった。
「相手を間違えましたね。」
秋本がそう返信した。
「専務さんはもう許して下さらなさそう?」
すぐに返信が来た。秋本は面倒なので、自分の電話番号をメールに書き、非通知でいいから、かけてきて欲しいと送信した。
すぐに電話があった。非通知ではなかった。
「もしもし」
「秋本さん?」
「はい。非通知じゃないですが、登録しておいてもいいですか?」
「ええ。して。今日は本当にごめんなさい。」
「いえ。理由がわかりましたので。」
「もう演奏を頼むのは無理かしら?」
「専務が納得する謝罪をしていただけなければ無理でしょう。」
「そうよね…。どうしたらいい?」
「それはこちらから言うわけにはいかないでしょう。脅迫にあたるかもしれない。でもお金と言う意味じゃありませんよ。正直うちが一番嫌がるやり方ですから。」
「…あなた…頭がいいのね。」
「そうですか?普通だと思いますが…」
「興味あるわ。個人的に。」
「それは光栄です。」
「会えない?2人きりで。」
「本当に2人きりですか?壁に耳あり、障子に目ありじゃ嫌ですよ。」
神野が笑った。
「面白いわ、あなた。じゃあなたが場所を決めて。」
「それは困ったな。あまりそういう場所は知らないんです。」
「…そう…」
「個人的にはまたの機会にしましょう。」
「!?」
「演奏についても僕ではどうにもなりませんでした。すいません。」
「…あなたみたいな人初めてだわ。」
「?どういう意味ですか?」
「普通は何も言わなくても、向こうが全部してくれたのに…」
「そりゃ「神野あい」さん相手ですからね。」
「そういうあなたは、諦めるのね。」
「ええ。まず会わなければならない理由がありません。」
「!?」
「演奏もそうです。上下関係がどうのじゃなくて、私がどうして選ばれたのか、理由がわからない。」
「…それは…私が頼んだの…」
「!?神野さんが?」
「ええ…。あなたを従えて歌えたら…私の人気が取り戻せるかもしれないと思って…」
「!…神野さんは、そんなことしなくても…。それも私にそこまで影響力があるとは思いませんが。」
「謙虚なのね。…うちの事務所と大違い…」
「!」
「うちは正直、事務所が古いだけで、もうこの業界では力なんてないのよ。だからあんなことを私に言わせて…」
「言わせて?あなた自身がハクをつけるためじゃなかったんですか?」
「……」
神野が黙り込んだ。神野は自分の意志に反して言わされていたのだ。
それを知ったとたん、秋本は神野が気の毒になってきた。
「やっぱり会いましょう。」
「!!本当?」
「ただ、屋外でもいいですか?」
「!!」
「それでよければ会います。」
「…考えさせて…」
レポーター達に見つかることを考えているのだろう。
「もちろん。僕は急ぎません。」
「最後まで意地悪を言うのね。」
神野が言って電話が切れた。
秋本はふーっと息をついた。
「業界追放かなー」
ふとそう呟いた。
……
それから神野からの連絡は全くなかった。だが制裁もなかった。
週刊誌には、菜々子が神野あいからの要請を蹴ったことは載ったが、それが逆に功を奏し、武勇伝のように伝えられた。逆に神野の事務所の方が窮地に追い込まれた。
(力がないというのは、本当かもしれない…)
秋本はそう思った。
そうするうちに、神野あいが引退する記事が載った。
秋本は驚いた。
そして慌てて自宅から神野に電話をした。
神野がすぐに出たが、声がおかしかった。
「…泣いてたんですか?」
秋本がそういうと返事がなかった。
「何故いきなり引退なんて…」
「私にもわからないわよ!」
「!?わからない?」
「私だって、何も聞かされてないもの!」
秋本は驚いた。
「何も?」
「引退という言葉を使って、注目を浴びさせようというつもりかも知れないわ…」
「どれだけ古典的なんですか…一時的に話題にはなっても、下手したら本当に引退しなければならなくなりますよ。」
「私に言われたって知らないわよ!」
「…確かに…」
「もう…どうしようもないところまできてるんだわ…。私…歌手をやめたら、他にできることなんて…」
「…今から出てこられますか?」
「!?…」
「今からいう橋に来てほしいんです。」
「橋?」
神野は不思議そうな声を出したが同意した。
……
秋本は橋から川を見ていた。すると後ろで車が止まる音がした。秋本は振り返った。
神野がタクシーから降りて、ゆっくり秋本の方へ来た。
秋本は、そばに来た神野の顔を見ていきなりいった。
「やっぱり泣いてたんですか。」
「どうしたらいいのかわからなくて…」
「あんな風に載せられたら…引退せざるを得なくなりますよね。」
「…相変わらず意地悪なのね。」
「そう言われると困りますが…」
秋本は、革のズボンの両ポケットに手を入れて神野に向いた。神野が秋本にすがるようにして言った。
「ねぇ助けて…」
「そう言われても…」
「こうしてくれたらいいのよ。」
神野が、秋本の首に両腕を回して唇を重ねた。秋本はポケットに手を入れたまま、身じろぎもしない。
フラッシュがいくつか光ったのがわかった。
神野が唇を離した。秋本は何もなかったような表情で辺りを見渡している。
「こんなもんですか?」
神野が驚いた。
「わかってたの?」
「お誘いしたのはこちらですが、こうなることはなんとなく…」
「!」
「お役に立てるといいんですけどね。」
「あなたの事務所からは…何も言われないの?」
「さぁどうでしょうね…。写真が載ってみないことには…」
「…どうして、わかっていて誘ったの?」
「意地悪ついでに、あなたを試させてもらいました。」
「?」
「もし、今日あなたが純粋に私に会いに来てくれていたら、あなたのコンサートで、個人的に演奏をするつもりでした。」
「!?」
「裏切られましたよ。完全に。」
「…秋本さん…」
「さよなら」
秋本は神野に背を向けて歩きだした。
神野はその場に座り込んでしまった。
……
翌日、神野との写真が載るかと思ったが、それから3日経っても、4日経っても、何も起こらなかった。どうもその後の様子から、記者の方がシラけたようだ。
……
結局、神野は引退した。引退コンサートも何もせずである。事務所も倒産した。
あれから秋本に神野から何度か連絡があったが無視した。
秋本は神野の連絡先をためらわず削除した。
(終)