反発
『ライトオペラ』のコンサートの日取りが決まった。
また圭一と秋本の希望で、客席の後ろの方でも顔が見えるような、さほど大きくない会場も借りることができた。ただ1日だけのコンサートとなった。
コンサートを1ヶ月後に迎え、圭一と秋本自身で構成も考えることになった。2人の意気込みが目に見える。
また元々少ないチケット数である上、1日だけのコンサートということもあり、すぐにチケットは売り切れてしまった。
しかし、明良の顔色が冴えなかった。
このところ圭一と秋本の人気が上がるにつれ、バッシングがひどくなってきたのである。
「オペラはファッションじゃない。」
「アイドル風情が調子に乗るな。」
「オペラがちゃらちゃらしたものに見える。」
など、毎日のように、メールや郵便等でクレームが届くようになった。
しかし、これも圭一達の活動が功を奏している裏返しだと、相澤は気にしていないようである。
だが明良は、いつか圭一達がこの事を知る日が来るかもしれないと思うと、気が気ではなかった。せっかくの意気込みが萎えてしまうことを恐れ、なるべく圭一達に知られないよう、メールと郵便のチェックを事務所にも通させず、明良だけで先に処理する日々が続いた。
……
しかし、やはりすべてを隠すことはできなかった。
エンターティメントの情報誌で、圭一達の活動を明らかにバッシングしている記事が載ったのである。
オペラ界では、ベテランと言われたテノール歌手のインタビューだった。
『ライトオペラ』のことを聞かれて「あんな子供遊びのようなものと、一緒にされちゃ困るね」と答えている。
「今度コンサートもあるそうだが、行こうという人の気持ちがわからない。オペラをわかっていない人にも興味を持ってもらうという姿勢はいいと思うが、それならもっとしっかりした基礎を築いてからにして欲しいよ。オペラ歌手達は、アイドルでも簡単に歌えるものと思われて皆迷惑している。」
この記事のためか、とたんにチケットのキャンセルが相次いだ。
……
副社長室で、明良はため息をついていた。チケットのキャンセルが止まらない。
完全に赤字になることは目に見えていた。
「コンサートの時期を早まったか…」
そう呟いた時、ドアの外で言い争う声がした。
その声を聞いて、明良は椅子から立ち上がり、ドアを開いた。
圭一の腕を秋本が掴んでいる。2人共、はっとした表情で明良を見た。
「入りなさい」
秋本が手を離し、2人は副社長室に入った。明良はドアを閉めた。
圭一が明良に背を向けたまま立っている。秋本は困った表情を浮かべて、明良を見た。
「コンサートを中止にしたいって言うんです。このままじゃプロダクションに迷惑をかけるって」
秋本の言葉に明良はため息をついた。
「チケットを持っている人はまだいるんだぞ。」
明良はそう言いながら、圭一の前に回った。
圭一は思い詰めた表情をしている。
「確かにコンサートは、早すぎたかもしれない。」
「!!副社長!」
秋本が驚いて言った。
明良は圭一と秋本の2人の顔を交互に見ながら、言った。
「あのテノール歌手のインタビューは正論だ。1つの教訓として覚えておいた方がいい。」
圭一がちらと目を上げた。
怒りが浮かんでいる。
「副社長もそう思うのなら、どうして早くやめさせてくれなかったんですか!」
圭一が唇を震わせながら明良に言った。
「コンサートか?」
「ライトオペラそのものです。」
「!…」
「…今まで僕は…何のために、歌って来てたんですか?恥をかかされるためですか?」
秋本が息を呑んだ。今までに見たことのない圭一の目だった。いや、一度だけ見たことがあった。
暴走族に襲われて、秋本が自分の首を切った時、暴走族のメンバー達に襲い掛かった時の目だ。
秋本はぞっとした。
しかし明良は全く表情を変えなかった。
「恥もかかずにできてるって思っていたのなら、それはお前の思い上がりだ。」
「!!」
圭一の目が見開かれた。
「それでも、コンサートを中止することはできない。チケットがすべてキャンセルされるまではな。」
「……」
「たとえ一人でも、チケットを持って、コンサートに来てくれる人がいる限り、お前はその人のために、歌わねばならない。恥をかいても、思い上がっていてもだ。」
「!」
「お前はプロダクションのために歌ってるんじゃない。そして、オペラファンのために歌っているわけでもない。お前の歌を聞きたいと思ってくれているファンのために歌っているんだ。それを勘違いするな。」
圭一は、明良を睨みつけたまま言った。
「…もう、聞きたい人など、一人もいないんじゃないですか?」
「圭一君!」
秋本が堪え切れずに、明良と圭一の間に立ち、圭一の体を抑えた。
圭一が言った。
「今日は帰ります。…こんな心境で稽古しても、時間の無駄です。」
秋本が明良に振り返った。
明良は圭一達に背を向けて目に手をやった。めまいを堪えながら明良は言った。
「…わかった。明日は必ず来るんだぞ。」
「…はい」
圭一は明良に頭も下げず、部屋を出て行った。
秋本はしばらく迷っていたが、黙って明良に頭を下げドアを出た。
ドアが閉まったのを背中に感じ、明良はふーっとため息をついて、ソファーに体を沈めた。
「…やっぱり…こうなってしまったか…」
明良はそう呟いて、ため息をついた。
……
「圭一君!」
秋本が廊下を走り、圭一を追った。
「本当に帰るのか?」
「帰ります。」
圭一は立ち止まりもせずに答えた。
「バイクで送ろう。」
「!」
圭一が驚いた表情をして、秋本に振り返った。
「駐車場で待ってるから、荷物持っておいで。」
その秋本の言葉に圭一はとまどっていたが、やがて頷いた。
……
圭一のアパートで、秋本はコーヒーを入れる圭一の後ろ姿を見ていた。
圭一を送って、すぐに帰るつもりだったが、圭一が「コーヒー飲んでいきませんか?」と誘ってくれた。
明良に見せていた鋭い目はもうなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
秋本は出されたコーヒーを一口飲んだ。
「青い山脈か」
「え?」
「ブルーマウンテンだね。」
秋本のそのジョークに圭一が思わず笑った。
「君は笑顔の方がいい。」
秋本が言った。
「秋本さんが言うと、口説き文句みたいですね。」
「ひどいな。女の子口説いたことなんかないよ。」
「!ないんですか?」
「口説かれたことはあるけどね。」
「…なんか、ムカつく。」
2人は笑った。しばらく2人は沈黙した。秋本が遠慮がちに言った。
「…コンサートの話…していいか?」
「…ええ…」
「本当に、誰も来ないって思ってる?」
「…実はずっと歌っていて思ったことがあるんです。」
「?…なんだい?」
「皆、僕を見に来ているのか、歌を聞きに来ているのかわからない時があって…」
「!!」
「雄一とユニットしてる時も思ったんですけど…キャーキャー言われるたびに、皆、僕の歌なんかどうでもいいんじゃないかな…とかふと思うことがあるんです。」
「ん…それは僕も思うな。」
秋本がコーヒーカップを置いて言った。
「僕もバイオリンを弾いている時に、よく映像がアップになったりすると同じようなことを思う。ま、見映えのする顔を持った者の宿命というかなんというか。」
「…またムカついていいですか?」
圭一のその言葉に、秋本が笑った。圭一も笑っている。
「でも親からもらった顔だ。文句を言ったらバチが当たる。」
秋本がそう言うと、圭一が少し下を向いた。
「あ、そうか…君は副社長とは血がつながってなかったね…。よく勘違いするんだ。」
秋本が苦笑しながら言った。圭一が驚いた表情で秋本を見た。
「…さっきのだって、まるっきり親子ゲンカだもんなぁ…」
「…親子ゲンカ?」
秋本の言葉に圭一はとまどった表情を見せている。秋本は、コーヒーを一口飲んでから言った。
「なぁ…副社長の顔色が悪いのに気づいてるかい?」
「え…?」
圭一がぎくりとした表情をした。秋本が部屋を見渡しながら言った。
「パソコンがないようだが…俺達がネット上でいろいろ批判されているのは知ってる?」
「そりゃ…されていることはわかっていますが…」
「最近、半端じゃないんだ。…あのテノール歌手の記事じゃないけど、オペラを馬鹿にしすぎてるってさ。」
「……」
「ほとんどが言いがかりみたいなもんだから、相澤社長は気にしていないみたいだけど…。副社長は…とても気に病んでいるんだそうだ。」
「!!…」
圭一が動揺しているのを見て、秋本が言った。
「今日、ゆっくり寝て頭をすっきりさせてから、コンサートのこと考え直してほしい。」
「……」
「副社長の親心…無駄にしないようにね。」
「!…」
秋本は、涙ぐんでいる圭一の肩を叩いた。
……
夜中-
明良が帰って来た。
リビングで待っていた菜々子が、慌てて玄関に向かった。
「明良さん!」
「菜々子さん…起きてたんですか…」
「起きてるわよ!」
菜々子は明良の上着を脱がせた。
明良はそのままリビングに入りソファーに体を沈めて、じっと目を閉じていた。
「明良さん…寝ないとだめよ。ほら着替えて…。」
菜々子がパジャマを持ってきて言った。
「ん…何か眠いのに、眠れなくて…。」
特異体質の明良の場合は、睡眠薬を飲ませるわけにいかない。
「じゃ…原因を少しでも、取りましょう。」
菜々子が、明良の隣に座って言った。
「?」
「今日、圭一君、早退したって?」
「ええ…私が怒らせてしまったんです。」
「あのテノール歌手の記事のこと?」
明良は頷いた。
「圭一のあんな目…初めて見ました。」
明良はそう言って思い出すように前を向き、悲しそうな表情をした。
「圭一君に、なんて言ったの?」
「テノール歌手の言うことは正論だって。一つの教訓として覚えておけと言ったんです。」
「…その通りだけど…」
「…そしたら圭一が、今まで自分は恥をかくために歌ってきたのか…って…。」
「!……」
菜々子は何も答えられなかった。
「それで私は…恥だと思わずに歌っていたのなら、それはお前の思い上がりだと…。」
「…明良さん…」
菜々子は明良の手を取って握った。明良もその菜々子の手を握り返して、ため息をついた。
「今が圭一の耐え時だと思うんです。…今までいい話ばかり聞かせていたから、今回のことはかなりのショックだったんでしょう…。本当はコンサートまで守ってやりたかった…」
明良が目を空いた手で覆った。
「明良さん…」
「雑誌で、あんな批判文が載るなんて考えてなかった。私も甘かったのかもしれません。」
明良がため息をついた。
「…コンサートの中止はどうしても避けたい。…早まったかもしれないが…このまま中止してしまったら、圭一はもう歌わなくなるような気がするんです。」
「…そうね…。やる気も何もかも失ってしまうわね…きっと…」
「…中止させないためには、これ以上、圭一が傷つかないようにしてやらなくては…。」
「ねぇ…明良さん…明良さんのその気持ちはちゃんと伝えたの?」
菜々子が明良の手を握り直して尋ねた。
明良は首を振った。
「伝える必要はないでしょう。今の圭一には、八つ当たりでもなんでもいいから不満をぶつける相手が必要です。」
「それが明良さんの役目だというの?」
「……」
「圭一君が悩んでいるのはチケットのキャンセルが続いている事だと思うの。圭一君が反発したのは、その原因になったあのバッシング記事のことをあなたが否定してくれなかった事が悲しかったからじゃないかしら。」
明良は黙っている。
「…あなたは…あなただけは、圭一君の味方じゃないといけないわ。…でないと、圭一君は支えを失っちゃう…。圭一君はあなたのことを一番信じているのよ!」
明良は目に手を当てて、涙を堪えた。
「明良さん…いつも言うでしょ?独りで何でも決めないの。…それが圭一君のためだとしても…独りで何もかも背負って、自分をつぶさないで…お願い。」
菜々子が明良の体に手を回して、明良を抱きしめた。明良はその菜々子の体に手を回した。
……
翌朝、菜々子がベッドで目を覚ますと、隣で寝ていたはずの明良がいなかった。
「!……」
菜々子が慌ててリビングに行ったが、明良の姿はなかった。
菜々子は壁時計を見て驚いた。8時を過ぎている。
正直、菜々子も最近寝ていない。
つい、深寝してしまったことを後悔した。
洗面所へ行くと、シャワーを浴びた痕があった。
ふと気になって、パソコンのある書斎を見てみた。
本体に触れてみると、さっきまで電源が入っていたらしく温かかった。
「今、行ったのかしら…」
菜々子は、リビングに置いていた携帯を取り、相澤に電話をした。
……
「コンサートはするんですか!?チケットがかなりキャンセルされているようですが」
「オペラ界から、コンサートを中止するよう要請があったというのは本当ですか!?」
プロダクションの駐車場で、記者達が明良を取り囲んでいる。
「コンサートはやります。中止の要請などはありません。」
明良はプロダクションに入るドアまで歩きながら言った。
「おかしいですね…確かな筋からの情報なんですが!」
「少なくとも私は聞いていませんが。」
明良はそういい、ドアを開けプロダクションに入った。
急に静かになった。
明良はエレベーターに乗り1階のボタンを押した。ドアが閉じたのを見て、壁にもたれて頭に手を当てた。鈍い頭痛がずっと取れない。
1階についたベルがなりドアが開いた。目の前に相澤が心配そうな顔をして立っていた。
「先輩」
明良は目を必死に開こうとするようにして、エレベーターを降りた。
「明良…大丈夫か?」
「ええ…。後でそっちに…」
「!…明良!!」
相澤が倒れかかる明良の体を支えた。明良は相澤に抱えられたまま、仰向けに床に倒れこんだ。
……
圭一は、秋本のバイクの後部座席に乗って、プロダクションに向かっていた。
朝、秋本から携帯に電話があり、圭一を迎えに来てくれたのだった。
プロダクションの地下駐車場に入るところで、記者達が何か騒いでいるのが見えた。
秋本がバイクを近づけると、記者達は驚いて脇に避けた。秋本達が地下駐車場に入った時、救急車が中にいるのがわかった。
「!? 」
圭一と秋本がヘルメットを取った。
プロダクションに入るドアから、ストレッチャーが出てきたのを見て、圭一が思わず「父さん!」と叫んだ。
明良を乗せたストレッチャーが、救急車まで運ばれていく。
明良の顔色は真っ白だった。
「父さん!」
圭一がストレッチャーに駆け寄ると、救急隊員に「危ない!」と言われ、腕で避けられた。
「圭一君!」
秋本が圭一の背中から腕を取り、体を抑えた。圭一はその秋本の手を振り払おうとした。
「父さん!!」
ストレッチャーと一緒に救急車に乗り込んだ相澤が「お前はコンサートの稽古をつづけろ!」と圭一に叫ぶように言った。救急車の後部のドアが閉じられた。
救急車が動き出した時、圭一の体から力が抜けた。
「圭一君!」
秋本が圭一の体を背中からとっさに抱いた。圭一はゆっくりとその場に座らされた。
「圭一君…しっかりするんだ。」
秋本が涙声で圭一を抱いたまま言った。
「僕のせいや…」
圭一は、涙を流しながらそう呟いた。
……
レッスン室で、圭一はソファーに座り顔を覆うようにして泣きつづけていた。
秋本は圭一の隣に座って、ずっと圭一の背をさすっている。
どうしてやればいいのかわからない。秋本も、とても稽古をする気にはなれなかった。
ドアがノックされた。秋本が返事をすると、雄一が入ってきた。
「!雄一君…」
雄一は秋本に頭を下げると、下を向いて泣いている圭一の前にしゃがんだ。
「圭一…泣いてる場合やあらへんやん。副社長のこと思うんやったら、稽古せな。」
「…ほっといてくれ」
圭一が泣きながら言った。
「もう、ほっといてくれや…。皆にも…父さんにも、こんなに迷惑かけるだけやったら…コンサートやる意味ないやんか…。なんでこんな無駄なことせなあかんねん…」
「……」
秋本はため息をついて下を向いた。雄一が言った。
「お前の歌聞きたい人いっぱいいるんや。僕もそうや。頼むから、無駄やとか言わんといてくれ。そんなん言われたら、僕らお前に捨てられたみたいやん。」
「……」
圭一は、目を手で押さえたまま黙っている。
「僕らのこと見捨てんと、お前の歌聞かせてや…。やめるのは、このコンサート終わってからでもええやんか。たとえ最初で最後になるかも知れへんでもええやんか。秋本さんのバイオリンかて、聞きたい人いっぱいおるんやで。お前だけのコンサートちゃうんや。秋本さんの、僕らファンの、プロダクション皆のコンサートなんや。」
雄一のその言葉に、秋本が頷くようにして下を向いた。
圭一は目を抑えたまま動かない。
その時、ノックの音が聞こえた。
秋本が「はい」と返事をした。
「圭一君!ここにいる!?」
菜々子の声だった。秋本が慌てて立ち上がり、ドアを開けた。
手に新聞を持った菜々子が立っていた。秋本に微笑み、腕を取って一緒に圭一のところへ連れて行きながら言った。
「コンサートのチケットがまた売れ出したのよ!」
「!!」
全員が驚いた顔をした。圭一も顔を上げた。
「どうも、新聞のこの投稿欄が元みたいなの。読んでみて。…70歳のオペラ好きな女性の方だって」
圭一は菜々子から新聞を受けとって、投稿を読んだ。秋本と雄一も横から覗き込む。
投稿にはこう書いてあった。
『先日「ライトオペラ」というジャンルのアルバムを孫からもらいました。ジャケットを見ると、孫と同い年くらいの男の子のジャケットで、何かの間違いじゃないかと思ったのですが、実際に聞いてみると、確かにオペラのアルバムでした。
何かの雑誌でその子のことを酷評されている記事も見ましたが、確かに彼のレベルはまだまだだとは思います。
でも、何度も聞き返してしまうんですよね。心を込めて歌ってらっしゃるのがわかります。
コンサートもされるとのこと。ちゃんとチケット、孫に取ってもらってます。孫も一緒にいきます。
チケットの売れ行きが思わしくないようですが、どんなにお客さんが少なくても、コンサートを中止になさらないで欲しいと思っています。
いろんな批判、中傷はあるでしょうが、まだまだ若いのですから、きっと乗り越えて行ってくれるでしょう。
私も彼のこれからの成長を、自分の孫のように見守って行きたいと思っています。彼の心のこもった、生の歌声を聞くのが本当に楽しみです。』
圭一の目に新たな涙が溢れた。秋本と雄一が微笑んで、圭一の肩にそれぞれ手を乗せた。
圭一は2人の顔を見て、やっと微笑んだ。
「たとえ一人しかいなくても、コンサートやるって、副社長言ってましたよね。」
圭一が秋本に言った。秋本が頷いた。
「これ読んだら少なくとも、僕入れて3人や」
雄一がそう言った。圭一と秋本が笑った。
「心を込めてやろう。誰にも真似できないコンサートを。」
秋本が言った。圭一が頷いた。
「私は、この投稿のこと、明良さんに報告しに行くわね。きっとすぐに元気になるわよ。」
その菜々子の言葉に圭一達が頷いた。
「じゃ、稽古がんばってね。」
菜々子はそう言って出て行った。圭一達は立ち上がって、頭を下げた。
「よし!景気付けに!」
秋本がバイオリンを手に取った。
「ハンガリー舞曲第5番を」
秋本はそう言い、いきなり弾き出した。
圭一も雄一も目を見開いた。
皆知っている曲だが、かなりテンポが早かった。
圭一と雄一は椅子に座り直し、秋本の奏でる激しい音色をただ黙って聞いた。
「すごい!」
秋本が弾き終わってから、雄一が言った。
秋本が雄一に言った。
「君の空中バック転の方がすごいよ。」
雄一が面食らったような表情をした。
圭一も、雄一を見てうなずいている。
「あんなん…練習すればできるって…」
圭一と秋本は「無理無理」と異口同音に言って、首を振った。
3人は顔を見合わせて笑った。
……
その日の夜、明良が自主退院して自宅に帰ったことを聞いた圭一は、タクシーで明良の家へ駆け付けた。
菜々子がドアを開けてくれ、明良が寝室で休んでいることを聞いた。
「今、目を覚ましているから…行ってらっしゃい。」
圭一はうなずいて、寝室のドアをノックした。
「はい?」
中から明良の声がした。
「…父さん…」
圭一が遠慮がちにそう言うと、しばらく間があってから「どうぞ」という声がした。
圭一はゆっくりとドアを開いて、部屋へ入った。
明良は体を起こそうとしていた。
「!…父さん…寝てて…!」
圭一はベッドに駆け寄るようにして言った。
明良の顔色がまだ悪い。それでも明良は起き上がろうとしている。
「大丈夫。ただの睡眠不足だから…」
「大丈夫やない!」
圭一は涙ぐみながら、明良の体を支えて、ゆっくり寝かせた。
「父さん、ごめんなさい…」
明良はそう泣きながら言う圭一に首を振った。
「…お前が謝らなくていい…」
圭一は明良の胸にしがみつくようにして、体を伏せた。
明良は、圭一のその体を抱きしめた。
「圭一…コンサート…やってくれるか?」
圭一はそのままうなずいた。明良が深いため息をついたのを、圭一は感じた。
「…良かった…。」
ため息の後、明良が言った。
「…こんな頼りない父親で…すまない。」
「!?」
「…お前を守りきることができなかった。…我ながら情けないよ。」
圭一は体を上げて首を振り涙を手で払った。圭一は明良に微笑んで言った。
「コンサート…来てくれた人が心に残るようなコンサートにします。成功させるとかそういうのじゃなくて…心の込もった…そして僕達にしかできないコンサートにしようって、秋本さんと決めました。」
明良はうなずいた。
「…そうだな…お前達らしい…等身大のコンサートにすればいい…。」
「はい…」
明良が圭一の肩を叩いた。
・・・・・・・
新聞の投稿のおかげで、圭一達のコンサートをすることが決まり、明良も体調が戻った。プロダクションは、正常に動き出していた。
ただ、まだコンサートの構成がはっきり決まっていなかった。
特に「オーソレミオ」の演出がなかなか決まらず、圭一と秋本は頭を悩ませていた。
そんなある日-
オープン間もないプロダクションの食堂で、圭一と秋本は、ランチを食べていた。
圭一がふと秋本の顔を見て箸を置き、じっと秋本を見つめた。
秋本はフォークにささったハンバーグの切れ端を口に持って行こうとして、その圭一の目と合った。
「?」
秋本は、フォークに刺したハンバーグの一片を見ると、圭一の口にもっていった。
圭一はついパクッと食べてしまった。
それでも目は秋本を見たままである。
秋本は不審気な顔をした。
そして、切ったハンバーグを今度は自分の口に入れた。
圭一は、口の中のハンバーグがなくなると、お茶を一口飲んで言った。
「秋本さん、それつけまつげ?」
秋本はとたんにむせた。
あわてて茶を飲み、のどにつかえたハンバーグを飲み下した。
「んな訳ないだろ!」
「だって、すごい長いから…」
「すごいってほどでもないだろう。」
秋本はポテトをフォークで刺して食べて言った。
「なんだ、ハンバーグが欲しいんじゃなかったのか。」
「違ったんですけど、くれるからつい…」
圭一はそういい、箸を取って、鯖の味噌煮を崩して、口に入れた。
「後で返してね。」
秋本のその言葉に今度は圭一がむせた。
圭一があわてて茶を飲む。
秋本が笑いながら、残りのハンバーグを食べた。
「そうだ!」
圭一がいきなり叫ぶので、秋本がびっくりした。周りの研究生達もびっくりしている。
圭一は周りに謝って、秋本に向いた。
秋本は茶を飲みながら、圭一の言葉を待っている。
「秋本さん、女装しましょう!」
秋本は思いっきり茶を吹いた。
「……」
圭一の顔にまともに秋本の吹いた茶が当たって、圭一は固まっている。
秋本は横を向いて、咳込み続けていた。
周囲の研究生達が笑っている。
・・・・・・・
コンサート当日-
結局チケットは完売となり、当日にもチケットを求めて会場のチケット売り場にキャンセル待ちの列が並んだ。
立ち見席も設けられたが、結局すべてのファンを客席に入れることはできなかった。
だが、客席の外のロビーに大きなテレビを置き、中の様子を見られるようにした。パイプ椅子も用意され、ファン達はロビーでも溢れかえるようだった。
……
客席のライトが突然消えた。
どよめく中、バイオリンの音色が響いた。スメタナの「モルダウ」である。
その音に拍手が起こった。
幕が開き、ドライアイスがステージに流れ込む中、中央から、バイオリンを弾く正装した秋本優がゆっくりとせり上がって来た。
ため息のようなどよめきと拍手が起こった。
この「美しきバイオリニスト」から奏でられるバイオリンの音色は、観客を魅了していた。
その長身もさることながら、音色も洗練されている。
秋本がバイオリンを弾き終わると、拍手が起こった。
秋本は一旦バイオリンをはずし、頭を下げた。
再び拍手が起こった。
そして、後ろの幕が開き、小さなオーケストラが姿を現した。
秋本はステージ上手に移動する。
指揮者が客席に頭を下げた。
拍手が起こった。おさまるのを待って、指揮者がオーケストラに向き指揮棒を構えた。それを秋本も見ながらバイオリンを構える。
指揮者が動くとともに、オーケストラと秋本がイントロを演奏する。
バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」である。
いつの間にか降りていたせりから、北条圭一がゆっくり姿を現した。
拍手が起こった。
圭一が歌い出す。
まだ未成年とは思えない深い声に、客席が静まり返るのがわかる。
一歩間違うと、退屈しそうな曲だが、秋本の奏でるバイオリンと圭一の深い歌声は、逆にいつまでも聞いていたいような気持ちに誘われる。
圭一の歌声が終わり、秋本のバイオリンが最後のフレーズを弾き終えると、しばらくの余韻を残して、拍手が起こった。
圭一と秋本が頭を下げる。
そして、圭一と秋本が顔を見合わせると、秋本が少し圭一に近づいてバイオリンを構え、指で弦をはじいた。
圭一はそれを聞いて、目を閉じ、アカペラで歌いだした。
「アメイジンググレイス」である。
ワンフレーズ歌い終わったところで、秋本が同じ旋律を弾きはじめる。秋本のバイオリンの音色が会場に広がった。
次のフレーズから圭一とオーケストラが静かに加わる。
最後は盛り上がりを見せて終わった。
拍手が起こった。
圭一と秋本が頭を下げた。再び拍手が起こる。
「ようこそ『ライトオペラ』の世界へ。」
圭一がそう言うと、一層大きな拍手が起こった。
「どうぞ、最後までお楽しみください!」
圭一がそう言って、手を後ろのオーケストラへ向けると、圭一は下手へ秋本は上手へ走り去った。
オーケストラがヴィヴァルディ「四季」の「春」の演奏を始めた。
演奏の中ライトが落ち、舞台で何かの準備がされていた。
曲が終わり、次にライトがついたときにはグランドピアノが中央に置いてあり、ピアノの鍵盤の前に秋本が座っていた。
どよめきがおこる。
秋本は大げさに袖をまくるような仕草をし、鍵盤の上に手を乗せると「ねこふんじゃった」を弾き始めた。
客席から笑いが起こる。秋本は途中でやめ「違う違う」というように客席に向かって人差し指を振って見せると、再び鍵盤に向いて「子犬のワルツ」を弾き始めた。高速で動く指に観客が驚いて拍手をした。ピアノまで弾けるのかという驚きが混じっている。
秋本が弾き終わると、大きな拍手が起こった。
その拍手の中、上手から圭一が秋本に拍手をしながら現れた。そして秋本と目くばせすると、グランドピアノの前に立ち、歌う姿勢を見せた。
客席がしんと静まり返る。
秋本がシューベルト「アベマリア」の前奏を弾き始めた。圭一が歌いだす。
圭一の深い声が響き渡った。軽快な小犬のワルツの後だけに、ゆったりとして聞こえる。
目を閉じている客も多くいた。
圭一が歌い終わり、秋本のピアノが終わると少し間があってから拍手がゆっくりと起こった。
圭一が頭を下げる。後ろで秋本も立ち上がって頭を下げた。
再び拍手が起こった。
「ちょっと、ここで休憩タイムにしましょう。」
圭一の言葉に客席からどよめきのようなものが起こった。
秋本がピアノの奥へ移動し、圭一がピアノの客席側に座った。
さらにどよめきが起こる。
圭一と秋本がお互い「せーの」と声を上げると、映画「スティング」の「エンターテイナー」を連弾しはじめた。
拍手が起こった。
さらに、客席のどよめきが大きくなったのは、圭一と秋本が場所を交代しながら弾き続けたことだった。
最初は圭一が立ち上がり、秋本の背中越しにピアノを弾きながら場所を移動する。前では秋本が圭一がいた場所に移動した。そのあと、秋本が戻るように圭一の背中越しに場所を移動しながら弾く。その時お互いの体を抱くような形になるので、その度に客席から拍手とどよめきが起こった。
しかし完璧には行かなかった。圭一が「あっ」と声を上げリズムが乱れた。秋本が「あーっ」と思わず声を上げているが、何とか元のリズムに戻った。客席から笑いと拍手が起こる。逆にこの乱れで、2人が本当に弾いていることが証明された。
2人が曲を弾き終えた時、大きな拍手が起こった。
圭一が秋本に手を合わせて謝っている。秋本が圭一の首を絞めるような動作をすると、客席から笑いが起こった。
思わぬファンサービスに、観客は喜んでくれたようである。
・・・・・・・
10分の休憩が入った。
開幕のベルがなり、第2部が始まった。
開幕すると、オーケストラの「オーソレミオ」の前奏が流れる。
中央にアンティーク調の赤い小ぶりのソファーがあり、黒いロングの巻き髪の女性が赤いロングドレスを着て、ソファーに上半身だけを横たえていた。
客席がどよめいている。
圭一がソファーの後ろにある、せりからゆっくり上がってきて歌いだす。歌詞はイタリア語だ。「オーソレミオ」は「私の太陽」という意味で、女性を讃える歌である。
パンフレットには、全曲の日本語訳歌詞を載せてあるので、観客も歌の意味を知りながら聞くことができる。
圭一は歌いながら、女性の寝ているソファーの前へ回り、ソファーの前の床に片膝をついて、持っていた一輪の薔薇の花をその手に掴ませる。
女性はゆっくり起き上がり、その薔薇の花を持って、圭一を見る。
…ここで気付いた観客がざわざわとしはじめた。抑えた笑い声もする。
しかしその美しさに、ため息も聞こえる。まだ気づいていない観客もいるようだ。
圭一は、その女性に求婚するように「オーソレミオ」のサビを歌う。(イタリア語なので「イルソレミオ」と歌っている。)
しかし、女性はプイと横を向いてしまう。圭一はまたその女性の向いた方へ移動して歌った。歌い終わって、圭一がその女性の手を取ると、女性は手をさっと引っ込める。
「…男同士で、気持ち悪いだろ。」
その女性の地声に観客が爆笑する。
「秋本さんっ!!」
圭一が必死に人差し指で自分の唇を押さえ「だまってたらわからないですって!!」と慌てふためく。
今気付いた観客から驚きの声が上がる。
女装した秋本、観客の方を向いて投げキッスした途端、ライトが落ちる。
観客が笑う。
……
ライトが落ちたまま、オーケストラが、エルガーの「威風堂々」を演奏する。
その間に舞台上のソファーが取り除かれる。
曲が終わったと同時に、ライトがゆっくりとつく。
舞台中央に圭一が立っている。
圭一がオーケストラをバックに「希望と栄光の国」を歌う。いつもよりゆっくり厳かに歌っている。
歌い終わると、ゆっくり頭を下げた。
拍手の中、圭一は頭を上げる。
オーケストラの更に後ろに階段のあるステージいっぱいの高台がある。その高台の上中央に正装に戻った秋本が高台の後ろから上がってきて、頭を下げるとバイオリンを構えて立つ。
オーケストラが、オペラ「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」の前奏を演奏しはじめた。
圭一が歌いだす。圭一にとっては挑戦ともいうべき、難しい曲だった。
声の張りも伸びも深みもすべて全力を出して歌った。
間奏は、秋本がオーケストラとメロディーを弾いた。
そして、最後はかなりの盛り上がりを見せて圭一は歌い上げた。
…正直、実力を出し切ったつもりだが、完璧でない感は自分自身でもあった。だが、客席からは今までにない大きな拍手をもらえた。立ち上がっている客もいる。
圭一は息を切らしながら頭を下げた。そして頭をゆっくり上げると、圭一にスポットライトがあたる。圭一がもはや涙ぐみながら、観客を見渡して言う。
「最後の曲になりました。この曲のおかげで、僕は今ここにいられると言っても過言ではありません。…この曲を、僕に名前をくれた父と、今ここにいて下さっている皆様に捧げます。」
拍手が起こった。
高台の上から、秋本のバイオリンが流れた。「モルダウの流れ」である。メロディーを弾いている。
一旦静かになり、オーケストラが静かに前奏を演奏しはじめる。
圭一の深い声が響く。「モルダウの川」の情景が浮かぶように力強く、それでいて静かに歌っている。間奏になると、秋本のバイオリンの音色が響いた。秋本はバイオリンを弾く間は目を閉じる癖がある。ロビーではその秋本の顔のアップが映し出されている。閉じている長い睫毛にほーっと息をつく女性もいる。
間奏が終わり、圭一が歌いだした。そして終盤にかかり盛り上がりを見せる。いつもなら最後のフレーズは静かに終わるのだが、今回は盛り上がりを見せたまま、圭一は歌い上げた。
拍手が起こった。圭一は息を切らしながら、そして涙を手で拭いながら、笑顔で観客を見渡した。そして頭を下げた。
拍手はなかなか鳴りやまなかった。
その時、観客席のライトがつく。そして秋本が高台の前の階段を走り降りた。オーケストラを避け、驚いている圭一を駆け足で過ぎ、観客に向かって「お願いします!」と言った。
圭一は訳が分からない様子で、秋本の背を凝視している。
観客の何人かが立ち上がり始めた。
「座ったままでも構いません。皆さんご一緒にどうぞ!楽譜は手元にありますね!」
秋本が叫ぶように言っている。
圭一は驚いた表情で、どんどん立ち上がり始める観客と秋本を見比べている。
「では、行きます!」
秋本は圭一に振り返った。そして観客をバックにバイオリンを構えた。圭一の後ろでは指揮者が指揮棒を上げている。
「これからの北条圭一君に応援の意味も込めて、皆で歌います!」
オーケストラが「モルダウの流れ」を演奏し始めた。秋本もバイオリンを弾いた。
そして、観客席から「モルダウの流れ」の大合唱が起こった。
怒涛のように、せまるその合唱の声に、圭一は感動のあまり座りこみそうになった。サラウンドで響くモルダウの流れの合唱。
秋本がバイオリンを弾きながら、圭一に一緒に歌うよう目配せをした。
圭一はうなずいて、声を震わせながら、合唱と一緒に歌った。
そして、最後は一緒に盛り上がりを見せたまま、全員で歌い上げた。
大きな拍手が起こった。どよめきもある。涙を拭きながら拍手をしている人もいる。
圭一も涙を拭きながら、観客に向かって拍手をした。秋本もバイオリンを脇にはさみ拍手をしている。
圭一は、深々と頭を下げている。そして秋本も頭を下げた。
幕がゆっくり降りていく…。
……
幕が閉じた後、ステージでは圭一が秋本に抱きつきながら声を上げて泣いていた。
「圭一君、泣きすぎだよ。」
秋本がそう言っても、圭一は泣きやむ様子もなかった。コンサートが成功したということよりも、最後の観客の大合唱に感動したのだった。
……
翌朝のワイドショーでは、圭一と秋本のコンサートが大成功を収めたことを、各局が報じていた。そしてやはり最後の観客の大合唱が話題を呼び、どの局も観客が圭一に向いて歌うシーンを流していた。
そして、圭一が秋本に抱きついて、声を上げて泣くシーンも放映されていた。
(終)
<未公開シーン>
アンコールがかかった。
圭一はまだ秋本に抱きついて泣きじゃくっている。
スタッフが袖から「どうしよう?」というように秋本を見た。
「このまま開けて下さい」
秋本が苦笑しながら言った。
幕が開いた。拍手が大きくなった。
スタッフが秋本にマイクOKの指示を出した。秋本は頭にかけているマイクの先を口元にセットした。
「すいません…圭一君がこの通り泣きやまないので、ちょっとアンコールどうしようかと…」
秋本がそう言うと、客席から笑いと拍手が起こった。
圭一は、ずっと泣きじゃくったまま秋本から離れない。
「本当に感動したようで、ずっと声を上げて泣いていまして…。…圭一君…圭一君、お仕事しよう…ね?」
客席がその秋本の言葉に再び笑った。
圭一がやっと秋本から離れて、背を向けたまま涙を拭っている。
客席にはもらい泣きをしている人もいる。
「圭一君歌える?」
秋本が圭一の顔を覗き込みながら言った。
「…歌います…」
圭一がしゃくりあげながら答える。拍手が起こった。
秋本が苦笑しながら、客席に向いた。
「でも…ちょっと歌えるようになるまで、時間がかかりそうなので、私の方から1曲、バイオリンを演奏しましょう。」
客席から拍手が起こる。
「リクエストありますか?著作権の問題もあるので、クラシックで。」
客席の後ろの方にいた男性が手を上げる。
「はい!どうぞ!」
秋本が手で指し、声が聞こえるように耳に手を当てた。
男性が「ジュピター」と言った。
小さいホールなので、よく声が聞こえた。
拍手が起こる。
「ジュピターですか!…とっつきだけでいいですか?あの平原綾香さんが歌っている部分だけの…歌うことは無理ですが。」
秋本の言葉に、男性がうなずいている。
「わかりました。」
秋本がちょっと上を見て考える風をみせてから、バイオリンを構えた。
拍手が起こった。
拍手が終わるのを待って、秋本が「ジュピター」を弾き始めた。少し編曲してメロディーを繰り返した。
弾き終わると、拍手があった。
秋本が頭を下げた。
「さて…圭一君、歌える?」
圭一は、スタッフに水とタオルを返し、うなずいた。
拍手が起こる。圭一はマイクを通さずに「すいませんでした。」と頭を下げた。
「これもリクエストで行きましょう!でも、すいません…今まで歌った中でお願いします。」
秋本が言った。
客席からいくつも手が上がる。
「えーと…どうしよう。お母さんどうぞ!」
「オーソレミオ!」と聞こえた。
「なるほど…そちらの方は?」
「私もオーソレミオ…」と女性が小さな声で言う。
「他の曲は?…え?皆さん、オーソレミオ?」
客席から笑いが起こった。たぶん他にもあっただろうが遠慮してくれたのだろう。
「…女装は勘弁して下さいよ。」
秋本がそう言うと笑いが大きくなった。圭一も笑っている。
「じゃ、圭一君、オーソレミオで。今度は僕じゃなく、皆さんに愛を伝えて下さい。」
秋本のその言葉に圭一が笑いながらうなずいた。客席からまた笑いが起こる。
秋本がオーケストラに向かって「お願いします」と言った。指揮者がうなずいて手を上げる。演奏者達が楽器をそれぞれ構えた。
秋本もバイオリンを構えた。
圭一が、頭につけた小型マイクに声が入るように口元に調整した。
指揮者に合わせて前奏が鳴った。秋本は舞台では演奏しなかったが、即興でオーケストラに合わせて弾いている。
圭一が歌いだした。大泣きした後だが、声が出ている。
サビの「イルソレミオ」のところで客席に手を向けた。客席から拍手が起こる。
最後に圭一が盛り上がりを見せて歌い上げ、同時に曲も終わった。
大きな拍手が起こった。
圭一と秋本が頭を下げる。
幕がゆっくり降りた。
……
客席にライトがつき、人々がそれぞれ立ち上がった。
ドアが開かれ、ロビーに最初の観客が出て声を上げている。
ロビーの端に少し寄り気味のところに、圭一と秋本が立っていた。
見送りに立っているのだ。
騒ぎが大きくなりそうになったので、数名の公演スタッフが「ゆっくりお願いします!」と声を上げた。
圭一と秋本が独り独りに握手をして礼をいい見送っている。
涙している客もおり、圭一がつられて泣いたりもした。
観客は、皆、満足して帰っていった。
全員を見送った後、また圭一が泣きだした。秋本が笑いながら、圭一の頭を抱いた。圭一も秋本の体を抱いて、しばらく泣き続けていた。
(終)