第10話
医療棟へ入ると、消毒液の匂いが鼻をくすぐった。外では試合を終えた生徒たちの声が聞こえるが、ここだけは別世界のように静かだ。
「失礼します」
結衣が声を掛けると、奥のカーテンがゆっくりと開いた。
「はいはーい。またけが人ね」
白衣を羽織った女性が気だるそうに姿を現す。長い黒髪を肩へ流し、細縁の眼鏡を指先で押し上げる仕草だけで妙に様になっていた。大人びた雰囲気に、陽菜は思わず目を瞬かせる。
「私は白石彩音。この学園の保健医よ。けがした子はこっちへ」
「せ、先生……めちゃくちゃ美人……」
陽菜が思わず本音を漏らすと、朝霧先生は肩を揺らして笑った。
「ありがと。でも口説くなら卒業してからね」
「もう、そんなつもりじゃないですよ!」
医務室に小さな笑いが広がる。
白石先生は陽菜の腕を持ち上げると、軽く患部へ触れた。
「打撲ね。それと……結衣ちゃんは膝を擦ってる」
結衣は照れくさそうに頷く。
「戦いに集中してて……」
「実戦の授業ではそういうこともあるわ」
白石先生は二人へ同時に手を添える。すると、手のひらから淡い光が滲んだ。
眩しいほどではない。だが、その光に包まれた腕と膝はみるみる元の状態へ戻っていく。
「はい、おしまい」
陽菜は恐る恐る腕を動かした。
「あれ……?」
何度振っても痛くない。結衣も膝を曲げ伸ばししながら目を丸くする。
「もう平気……」
「勘違いしないでね」
白石先生はカルテへ視線を落としたまま続けた。
「私の異能は傷を治してるんじゃないの。あなたたち自身の回復力を一気に高めてるだけ。その代わり――」
ぐぅぅぅぅ。
医務室へ大きな音が響く。陽菜は硬直した。続けて、結衣のお腹まで可愛らしく鳴り始める。
「あ……」
二人は顔を見合わせ、頬を染める。
自分の顔が熱い。
よりにもよって、玲斗くんの前で。
恐る恐る視線を向けると、玲斗くんはいつも通りの無表情でこちらを見ていた。
(恥ずかしい……今の記憶だけ、玲斗くんから消せたら……)
そこまで考えて、結衣ははっと我に返る。
(何考えてるの、私)
そんなことできるわけないし、できたとしても絶対に嫌だ。玲斗くんとの思い出を、自分から消すなんて。
「き、気にしないでね……」
小さく呟く声は、自分でも情けないくらい弱々しかった。
白石先生は吹き出しそうになりながら笑う。
「だから言ったでしょ。回復した分だけエネルギーを使うの」
「急にお腹空いてきた……」
陽菜はお腹を押さえながら情けない声を漏らす。
「ラーメン三杯くらい食べられそう……」
「私はカレーかな……」
結衣まで真面目に考え始め、白石先生は「それくらい食べなさい」と笑った。
便利な異能だ。
だが万能ではない。
戦闘中に治療を受けられるわけでもなく、傷が深けれ回復の反動も大きい。戦場では結局、けがをしない立ち回りが何より重要になるようだ。
「橘くんは?」
白石先生がこちらを見る。
「けがはありません」
「そう。優秀ね」
そう言って微笑んだ先生は、ふと意味深に目を細めた。
「でも、無茶はしそうな顔してる」
「先生もそう見えますか?」
結衣から言われることはあるが、まさか初対面の先生から言われるとは…。
「うん。雰囲気から何までそう見えるわ」
困ったように笑う姿に、陽菜と結衣もつられて笑みを零した。
その隣では黒崎が小さく胸を撫で下ろしている。
「二人とも、大きなけがじゃなくて良かったです……」
「黒崎くんのおかげだよ。相手を見つけるのが遅れていたら、もっと被害をもらっていた可能性だってあったから」
玲斗がそう言うと、黒崎は照れくさそうに俯いた。
医療棟を出る頃には、校内放送が次の試合の開始を告げていた。
第二回戦は第一回戦以上に危なげなく終わる。
黒崎が敵を見つけ、陽菜が相手の動きを乱し、結衣が風刃で仕留める。その流れは驚くほど滑らかで、試合時間はわずか数分だった。
俺は班員が危険になったら異能でサポートをいれる程度でほぼ働いて無かった。なのに、勝ってしまった。
準決勝の終了を告げるブザーが競技場へ響き渡る。
そして大型モニターの表示がゆっくりと切り替わり、勝ち残った班だけが残された。
第一班
第四班
その文字が映し出された瞬間、競技場は大きなどよめきに包まれる。
第四班では、陽菜が飛び跳ねるように喜び、結衣も安堵したように笑みを浮かべた。黒崎だけは現実味がないのか、モニターを見上げたまま小さく息を呑んでいる。
ここまで来られるとは、本人が一番思っていなかったのだろう。
俺はそんな三人を横目に、静かに第一班へ視線を向けた。
東雲は相変わらず豪快に笑いながら慎二の肩を叩き、篠原は制服についた葉を払い落としている。その中で慎二だけは真っ直ぐこちらを見ていた。
「ようやく戦えるな。楽しみにしているぜ!」
慎二は口元を吊り上げる。
その一言だけを残し、踵を返す。
二回戦での1班はあまりにも一方的だった。
開始直後、東雲が《従者召喚》で黒狼を呼び出し、相手の陣形を一気に崩す。混乱した隙を逃さず、慎二が《武装強化》を施した木刀で一人、また一人と戦闘不能へ追い込んでいく。
逃げ道を探した相手の前には、いつの間にか篠原が立っていた。霧のように姿を消し、気付けば背後へ回り込む。その不可解な動きに相手は対応できず、勝負はあっという間についた。
詩織は最後まで一歩も動かない。
それは誰かを意識したうえの行動なのか、ただ単にその必要がなかっただけなのか判断は本人しかできない。
開始からわずか数分。
第一班は圧倒的な力を見せつけ、決勝進出を決めた。
観客席からは感嘆の声が漏れる。
「やっぱり第一班は別格だな」
「先生、班の割り振りミスりすぎでしょ」
その一方で、第四班もまた着実に勝ち上がり、決勝の舞台へ駒を進めていた。
第四班。
初戦は誰も注目していなかったその班名が、今では観客席のあちこちで囁かれている。
黒崎の索敵能力。
結衣の切れ味のすごい風刃。
陽菜の幅広い対応能力。
そして、決して前へ出ようとしない橘。
試合を見ていた生徒たちは、それぞれ好き勝手に考察を交わしていたが、誰一人として答えへ辿り着く者はいなかった。
その様子を、少し離れた観客席から一人の孤高な少女が眺めていた。
雪代ミリア。
白銀の髪を揺らしながら大型モニターへ一度だけ視線を向ける。
「雪代さん」
近くの女子生徒が遠慮がちに声を掛けた。
「決勝、どっちが勝つと思います?」
ミリアは少しだけ考える素振りを見せるやがて第四班の表示へ視線を止め、小さく口を開いた。
「……第四班の橘」
それだけで十分だった。
「あの人は、少しやれそう」
興味を失ったように視線を外すと、それ以上は何も語らない。
周囲の生徒たちは驚いたように顔を見合わせた。
人に無関心な雪代ミリアが、他人を評価した。それだけで十分すぎる出来事だった。これはさらに生徒たちの熱を上げた。
競技場では決勝戦の準備が着々と進められていく。
第一班。
第四班。
最後に残った二つの班が、それぞれ開始位置へ向かう。
俺はトーナメント表から目を離し、静かに息を吐いた。
……結局、ここまで来てしまった。
ここで負ける。
その考えは変わらない。問題は、どう負けるかだ。詩織は他の誰よりも観察眼が鋭い。少しでも余計なものを見せれば、必ず違和感を抱く。
ならば詩織と戦わなければいいだけのこと。
そう心へ言い聞かせながら、俺はゆっくりと決勝の舞台へ足を踏み入れた。




