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笑神様の復活        :約5500文字 :粗野

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/05/06

「あら、どうもー!」

「あら、おはようございますぅ。相変わらずお綺麗にして……また整形ですか?」


「そうなんですよお、鼻にペニスの骨を埋め込んで……って、そんなわけないでしょ! ブス! あはは!」


 なんだ。


「おっと、危ない。前をよく見て歩こうね。学校かい? 気をつけて行くんだよ」

「はーい! ショタホモジジイ!」


「ははは! ユー、かわいいね!」


 なんなんだ。


「ぬーん!」

「ははは、バカやってんじゃねえよ。お前はシャブ中か!」


 いったい、どうなっているんだ……。

 風邪で三日ほど寝込み、久しぶりに外に出たらこの有り様。町の人々の様子が明らかにおかしいのだ。

 プラスチックのバットで通行人の尻を無差別に叩く者。顔に紐付きの洗濯ばさみを取り付け、その紐を他人に引っ張らせる者。鼻の穴にスタンガンを突っ込み、びくびく痙攣している者。歩道の真ん中で漫才やコントを繰り広げている者――。

 なぜかそこかしこで『お笑い』のようなものが行われていた。しかも言葉遣いが荒く、ツッコミがやたらと激しい。コントはまるでヒーローショーの戦闘シーンのように大げさで、漫才はほとんどヤクザのどつき合いだ。

 何かのイベントだろうか。だが平日の朝早くから、しかも公道でこんなことが許されるとは思えない。それに、人々はさもこれが日常であるかのように平然と受け入れている。

 ……待てよ。この調子だとまさか――。


「――で、蓋を開けたら小っちゃいウンコが残ってたんだよ。家族の誰かの流し忘れかと思って、舌打ちしてレバーに手を伸ばしたんだけどさ……いや、待てよ。もしかしたら、おれの流し忘れかもしれない。さっきウンコしたよなって思ってさ。だからウンコに聞いてみたんだよ。『なあ、お前、誰のウンコだ?』。そしたらさあ、ウンコがこう言ったんだよ。『わからないよ。だって僕はお尻しか見てないからね』」


「……あっ、ははは」


「って、反応遅っ! お前、境界知能かよ! はははは!」

「はははは!」

「はははははは!」


 まさかと思ったら、やはりそうだった。駅のホームや電車の中、そして会社でも当たり前のように『お笑い』が繰り広げられていた。


「はーあ……なあ、お前大丈夫か?」


 先ほど糞みたいな糞の話をした隣の席の同僚が、声を潜めて訊いてきた。


「え……?」


「まだ体調悪いんだろ。さっきも反応鈍かったしよ」


「い、いや……あ、ああ。まあ、そんな感じだ」


「だよな! さっき一瞬、つんぼかと思っ――」


「あのさ!」


「おん? なんだよ、急にでかい声出して。発狂か?」


「うお、いや、その……いつもこんな感じだったっけ?」


「こんな感じって?」


「だから……この『お笑い』的なノリというか、さ……」


「はあ? 何言ってんだよ。お前は痴呆老人かっ!」


「いや、だから!」


 おれは思わず立ち上がった。その瞬間、オフィスがしんと静まり返り、無数の視線が一斉にこちらへ突き刺さった。おれは「あっ」と小さく声を漏らし、居心地の悪さに耐えきれず、ゆっくりと椅子に座り直した。


「って、何も言わんのかーい!」「って、何も言わんのかーい!」「って、何も言わんのかーい!」


 次の瞬間、四方八方から一斉にツッコミが飛んできた。笑い声が渦を巻き、鼓膜を叩きつけた。「バカがよ」「アホ」「クズ」と、もはやツッコミとは呼べない罵詈雑言が容赦なく浴びせられた。

 頭がずきずきと痛み始めた頃、ようやく騒ぎが収まった。おれはよろめきながら同僚にそっと顔を寄せ、口を開いた。


「だからさ……こんなのお笑いじゃねえよ。正直言って……いや、かなりひどいもんだぞ」


 おれは今でこそ、たまにしかバラエティ番組は見ないが、子供の頃は毎週欠かさずテレビにかじりついていた。ゴールデンタイムはおれの生き甲斐だなんて、本気で言っていた覚えもある。だから多少なりとも『お笑い』というものはわかっているつもりだ。

 こんなの……いや、それにしてもひどすぎる。

 だというのに、同僚はきょとんとした顔でまばたきを繰り返した。


「ひどいって何が?」


「だから、ツッコミがただの悪口だろ。ほとんど放送禁止用語じゃないか。過激なことを言えば面白いと思ってるのか? やめてくれよな。そういうのは中学生までだろ」


「お前……語るねえ~。どうも、お笑い評論家です。殺してください」


「うるせえなっ」


「ははは。でも、その考えこそ中学生までだろ。これが“お笑い”なんだよ」


 同僚は自分の腕をぺしぺしと叩き、したり顔で頷いた。


「どこがだよ……。テレビのバラエティでこんなことはやってないだろ」


「お前、そりゃそうだろ! テレビのお笑いはつまんねえからな。自主規制、自主規制」


 同僚は肩をすくめ、鼻で笑った。自主規制――確かに、最近のバラエティ番組はすっかり牙を抜かれている。『人を傷つけない笑い』なんて言葉がもてはやされ、ツッコミで相方を叩くことすら問題視されている。容姿いじりは影を潜め、『ブス』なんて言葉を最後に耳にしたのはいつのことか。血がNGなのは昔からだが、過激な罰ゲームなど今どき見ない。

 おれがバラエティ番組から距離を置くようになった理由の一つでもあった。きっとPTAやクレーマー連中も暇を持て余し、涎を垂らして新しい標的を探していることだろう。

 それなのに、どうしてこんなに極端な方向に振り切れているのか……いや、ということは、この異常な状況はその反動なのかもしれない。視聴者の奥底にあった過激なお笑いへの渇望が一気に噴き出した――いやいや、だとしても急すぎる。おれが寝込んでいる間に何か決定的な出来事があったのか……。


「――おい、おーい」


「ん、なんだ?」


 さっきから同僚が呼んでいたらしい。意識を引き戻し、おれは顔を向けた。


「電話。しっかりしろよな、キチガイさん」


「うおっ……おう……」


 耳に飛び込んでくる言葉がどれも聞き慣れないもので、いちいち引っかかり、頭の処理が追いつかなかった。

 受話器を取ったが、その向こうの取引先も同じような調子で、やたら下品で意味のない冗談を連発してきた。


『それでよー、鼻をぶん殴ったら、そいつなぜか耳から血を流したんだよ。はははは!』


「ははは……」


 おれは力の抜けた笑いを返すことしかできなかった。だが、それが気に入らなかったらしい。相手は徐々に機嫌を悪くし、やがて舌打ちのあと一方的に通話を切られた。

 まったくわけがわからない。頭がおかしいのか。いや、こっちがおかしくなりそうだ。

 おれは深くため息をつき、受話器を置いた。ちらりと正面の席の同僚に目を向けると、彼は受話器を耳に当てて「そんなん、輪姦されたって、しゃあないっすね!」と笑っていた。


 ……どうやら、これがこの世界における“正解”らしい。

 本当にどうかしている。こんなの、まったく面白くない。

 ……だが、それが今の“普通”だというのなら、おれが合わせるしかない。これまでも、飲み会で人気芸人のネタを無理やりやらされたことが何度もあった。あれと同じだ。空気に従い、求められる役割を演じる。

 たとえ明日、法律が変わったとしても、すぐに適応しなければならない。できない、やれないなどという言い訳は会社員には許されないのだ。


「健康診断で『便は綺麗ですね』って褒められてさあ。だからあたし、『何よ、顔は汚いって?』って返したの。そしたら、『いいえ、顔を褒めたんです』だってさ。あははは!」


「はははは!」「はははは!」

「ははは……」


「昨日の帰りに駅のホームで知恵遅れを見かけたんで、ぶん殴ったんですよ。そしたらそいつ……なんと僕の父さんだったんですよ! だから僕、慌てて聞いたんですよ。『父さん、何してんの?』。そしたら父さんこう言ったんです。『ああ、真似してたら仲間だと思って知恵遅れが寄ってくるかなって思いついてさ。そしたら、ぶん殴ってやるんだよ』ですって。馬鹿ですよねえ。ははは!」


「はははは!」「はははは!」「ははははは!」

「ははは……」


「こないだの休みにさあ、大学の後輩とサービスエリアで飯食ってたんだよ。で、そいつトイレに行ったっきり、なかなか戻ってこねえの。戻ってきた頃には飯なんてもう冷めちゃってさ。だからおれ言ったんだよ。『トイレ長すぎだろ! 大か? まさか食ってたんじゃねえだろうなあ! この糞食いが!』って。そしたらそいつ、すまし顔でこう言ったんだよ。『いや、中ですよ』。『中ってなんだよ! 大か小しかねえだろ!』。『中ですよ。シコってたんです』。『嘘つけ! じゃあ、もっと早いだろ! 早漏野郎が!』」


「はははは!」「ははははは!」「はははははは!」

「ははは……」


「玉袋の右と左を合わせて、しわしわ~。ちーんぽーん」


「はははは!」「はははははは!」「ははははははは!」

「ははは……」


 ぎしり、ぎしりと体の内側が軋み、特に胸のあたりが鈍く痛んだ。それでもおれは必死に耐え、笑みを貼り付け続けた。

 終業後には顎がじんじんと痛み、喉は掠れ、胃の奥がむかむかと波打ち、椅子から立ち上がる気力すら残っていなかった。


「おーい、何してんだ、不良品。ほら、行くぞ」


「お、おう……あれ、飲みの約束してたっけ……?」


 おれは同僚に腕を引っ張られ、のそのそと椅子から立ち上がった。


「は? 性犯罪者みたいなツラして何言ってんだよ。お出迎えだろ」


「性犯……! え、お出迎え……?」


 意味が飲み込めないまま急かされ、おれは同僚のあとに続いて会社を出た。夕暮れの街はどこか落ち着きがなく、人々のざわめきが響き、浮足立っている気配が漂っていた。

 電車を乗り継いで、都心へ向かった。

 車内もまたいつもと違い、妙に浮ついた空気で満ちていた。下品な冗談が飛んでいるのはもはや驚きではなかったが。


「よーし、こっちだ。はぐれるなよ」


 取引先の接待かと思ったが、どうも違うらしい。どうやら何かのイベントらしい。それもかなり大規模なもののようだった。

 駅を出ると、思わず圧倒されそうになった。車道は完全に封鎖され、路上には人、人、人。群衆がひしめき合い、熱気とざわめきが渦を巻いていた。まるで祭りのようだったが、より熱狂的で逃げ場のない圧力があった。

 おれたちもその中へ押し込まれるようにして混ざっていった。


「な、なあ、誰を出迎えるんだよ!」


 おれは同僚の肩を掴み、声を張り上げた。人混みの中は一層凄まじい熱気に包まれていた。油断すると足が地面から離れ、体が浮き上がりそうになる。まるで――いや、この例えはやめておこう。


「はあ? お前、キチガ――」


「だから、それやめろ!」


「はあ……神様を迎えるに決まってるだろ」


「神様……? それって――あっ!」


 何の比喩だ、と問い返そうとしたその瞬間だった。

 突然、夜空に光の玉が現れた。次の瞬間、それはカッと猛烈に輝き、暗闇を切り裂いた。あたり一帯を白く塗り潰し、輪郭という輪郭を奪い去った。おれは反射的に目を細めた。それでもその眩しさは網膜に焼きつき、ずきずきと痛んだ。

 光の玉はゆっくりと下降していった。落ちるにつれて縮んでいき、やがて一人の男の姿が形作られた。

 白い服に金色の短髪。男は宙に浮かび、人々を見下ろしてにやりと笑った。

 その瞬間、空を割らんばかりの歓声が爆発した。


「な、な! な――」


「エズガンガンガン!」

「フォオオオオオウ!」

「ティコンカンカンカンカンカン!」


 人々の熱狂的な叫びに、おれの声は完全に掻き消され、自分の耳にすら届かなかった。おれは耳を塞ぎながら、その男を凝視した。

 あれが神様なのか……? 

 どう見ても、ただの浅黒い初老の男にしか見えない。いや、だが確かに雰囲気はある。その場にいるだけで空気が変わるような存在。何か……そう、面白いことを言いそうな気配があった。

 待てよ、神様……。まさか、『笑いの神様』か? 

 ……あっ! だとしたら、こんな頓狂な世界にしたのは、あいつの仕業なのか。

 なんてオチだ。だが、神の力なら説明がつく。どういうわけか、おれだけは影響を受けていないらしいが、なんてことしてくれたんだ。あのスケベ面のケチ臭野郎め……。

 と、異常な状況にすっかり染まりつつあるおれの口から罵声が飛び出しそうになった、そのときだった。

 笑いの神がすっと片手を挙げた。

 静寂――あれほどの喧騒が嘘のように消えた。ただ群衆が一斉に息を呑んだことだけは伝わってきた。

 何万人もの視線が一点に収束し、空気が張り詰めた。

 待っている。誰もが息を潜め、笑いの神の言葉を待っているのだ。


「えー……なんかちょっと、この国の笑いがしんどいと最近聞きまして、私、復活することになりました。よろしくお願いします」


 再び歓声が炸裂した。笑いの神は感極まったように斜め上を見上げた。涙を堪えているようにも見えたが、どこか芝居がかった軽さがあった。

 笑いの神は軽く咳払いした。再び群衆が静まり返った。

 何か面白いことを言う気だ――空気が人々の期待で膨らんでいくのがわかった。

 いったい何を言うのか。正直少し、いや、かなり楽しみだ。おれはごくりと唾を飲み込んだ。


「えー……安カレー!」


 ……今、なんて?

 理解が追いつかず、呆気に取られた。そしてそれはおれだけではなかったらしい。時間が止まったかのように場は静まり返っていた。

 数秒経っても笑いは起きず、誰一人として動かなかった。何事もなかったかのように、そのまま笑いの神を見つめ続けている。

 笑いの神はフゴッと鼻を鳴らして笑うと、また咳払いをした。


「あー、素人さんにはちょっと難しかったかー! こっちだったな。うん、うんうん。ははは! えー、じゃあいきまーす。はい……光あれ!」


 そう言って、笑いの神は頭に手をかけて――髪を取った。

 かつらだった。

 露わになったつるつるの頭から、強烈な光が放たれた。その光は波紋のように広がり、薄い膜となって辺り一帯を包み込んだ。

 しかし、誰も笑わなかった。

 風が止み、音が消え、ただ白い光だけが場を満たしていた。

 歓声もざわめきも失われた世界――。笑いの神の頭だけが、何かを求めるようにピカッ、ピカッと時折強く光を放っていた。


 おれは口元をそっと手で覆い、静かに涙をこぼした。


 神は――休みすぎたのだ……。

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