第三話『鉄の揺り籠、あるいは偽らざる安息』
草原を赤く染めていた夕刻が、深い群青の夜へと溶け落ちる頃。
リヒト・フェルンの視界に、地平線を縁取る無数の灯火が飛び込んできた。それは、力ある者が法となり、居場所を失った者が最後に流れ着く混沌の街、自由都市リベルタ。
「……あれが、リベルタ」
「ああ。この世界のゴミ捨て場であり、同時に唯一の楽園だ」
カイ・シュバルツ・クロノスは、キマイラとの死闘で削られた寿命の重さを微塵も感じさせない足取りで、巨大な城門へと向かう。リヒトは銀に近い淡い色の髪を隠すようにボロボロのフードを深く被り直し、その背中に一歩遅れて続いた。
門をくぐった瞬間、リヒトの五感は暴力的なほどの情報量にさらされた。
五年間、原生林の静寂と、死者の無言に囲まれて生きてきたリヒトにとって、街の活気は恐怖に近い。リヒトは思わず立ち止まり、右手の甲から指先にかけて刻まれた黒い鎖のような紋章――
『クロノ・ドレイン』の呪印を隠すように、黒い手袋を嵌めた拳を握りしめた。これほど多くの「人間」がいる。つまり、これほど多くの「寿命」が、自分の周囲を歩いているのだ。
「……っ……」
「おい、リヒト。そんなところで固まってると、スリに身ぐるみ剥がされるぞ」
「……アンタ、正気か? こんなに人がいるところを歩くなんて。俺が誰かに触れたら……」
「心配しすぎだ。お前が自制している限り、この街の連中はそう簡単に死にゃしない。それに、万が一の時は俺がいるって言っただろ?」
カイは当然のように言い放つと、迷うことなく路地裏の奥へと突き進んでいく。辿り着いたのは、街の喧騒から一段と離れた、崖の上に建つ古びた時計塔だった。蔦が絡まり、石造りの壁はあちこちが欠けているが、その佇まいには奇妙な威厳が漂っている。
「……ここが、俺たちの根城。ギルド『クロノス』だ」
カイが重厚な鉄の扉を押し開く。
中に入ると、巨大な歯車が壁一面で鈍い音を立てて回っていた。カチ、カチ、と刻まれる秒針の音。
それは、リヒトの不安な鼓動を無理やり一定のリズムに上書きしていくような、奇妙な圧迫感を持っていた。
「おーい、戻ったぞ。新しい『同胞』を連れてきた」
カイの声がホールに響く。奥から現れたのは、年齢も性別もバラバラな数人の転生者たちだった。
「お帰りなさい、カイさん。無事でよかったです……」
最初に現れたのは、整った顔立ちをした美少年、シオン・ヴェルフェインだ。絹のように滑らかな金髪に、吸い込まれそうなほど澄んだ青い瞳。
まだ幼さの残る白い肌が、彼の育ちの良さを物語っている。
彼はカイに対して恭しく頭を下げたが、その直後、背後に立つリヒトへ向けた視線は、剃刀のように鋭く冷ややかだった。
「……彼が、例の『時剥ぎ』ですか。カイさんが自ら迎えに行くほどの価値があるとは、到底思えませんが」
シオンの背後の影から、一人の女性が音もなく姿を現す。参謀のシルヴェナ・クライオスだ。
氷のように透き通った氷蒼のロングヘアを、乱れなく背に流している。
彼女は眼鏡の奥の鋭いサファイアの瞳でリヒトをスキャンするように見つめた。その瞳には感情が乏しく、まるで機械が構造を解析しているかのようだった。
「リヒト・フェルン。右手の紋章の稼働率、および魔力の流動を確認。……カイ、彼の効率的な運用方法については後ほど協議しましょう」
「ハハ、相変わらずだなシルヴェナ。……おい、ガルヴァン! 新入りだぞ!」
二階からドスンと重い音がして、巨漢が飛び降りてきた。
逆立った赤茶色の髪に、顔には古い戦傷が深く刻まれている。
熊を思わせる濁った黄金色の瞳が、獰猛な光を放ちながらリヒトを見た。
衣服の上からでも分かる分厚い筋肉は、まるで動く岩塊のようだ。
「ガハハ! 新入りか! 随分としけた面してやがるな。俺はガルヴァン・ドレクスだ。困ったことがありゃ俺の後ろに隠れな、坊主!」
ガルヴァンは豪快に笑いながらリヒトの肩を叩こうとしたが、リヒトが反射的に身を引くと、苦笑いして手を引いた。
次々と現れる、常識外れの転生者たち。リヒトは圧倒されていた。
だが、その場の空気を一瞬で凍てつかせたのは、階段の上に立つ二人の少女だった。
「……リ、リヒトさん、ですね。よろしくお願いします」
一人は、銀髪の少女、レイシア・ゼルフィス。
丁寧に切り揃えられた透き通るような銀髪と、落ち着いた佇まい。リヒトたちより少し年上だろうか、このギルドのまとめ役だという。
月光を浴びた蜘蛛の糸のように細く、美しい銀糸の髪をハーフアップにまとめている。
しっかり者に見えるが、その淡い紫の瞳は時折、誰もいない虚空を見て怯えたように泳ぐ。その姿は、今にも消えてしまいそうなほど儚げだった。
そしてその隣、レイシアの服をぎゅっと握りしめている幼い少女。
ルミナ・フェリシア。
蜂蜜を薄めたような淡い亜麻色の髪を緩く三つ編みにし、色白で整った顔立ちはまるで精巧な作りの人形のようだ。
リヒトがこの世界に転生した時と同じくらい、まだ十にも満たない幼さに見える。しかし、その濁った琥珀色の瞳は感情が完全に欠落したように虚ろで、ただ静かにリヒトを見つめていた。
「ルミナ、おいで」
カイが膝をつき、ルミナに手を差し出す。ルミナはふらふらとカイの元へ歩み寄り、その胸に顔を埋めた。カイは慈しむようにその頭を撫でるが、その口角はリヒトにしか見えない角度で、わずかに吊り上がっていた。
「……あ、あの……カ、……」
リヒトは、カイの名前を呼ぼうとして言葉に詰まった。自分を救い、連れ出してくれた男。その名を呼ぶことに、言いようのない重圧を感じてしまう。すると、カイが意地悪な笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
「なんだ? またアレやるか? リベルタに来る途中の街道で披露してくれた、あの壊れた魔導人形みたいな音。『ガ、ガガガッ、カカッ』ってやつ。今ここで披露してやれば、みんな一発でお前の名前を覚えるぞ?」
「なっ……! や、やらない! 絶対やらないからな! ……っ、アンタ本当に性格悪いだろ!」
顔を真っ赤にして叫ぶリヒトに、シオンが「カイさんをアンタ呼ばわりするな!」と激昂する。
その光景を見て、ガルヴァンが腹を抱えて笑い出した。森での絶望が、カイの軽口ひとつで一気に「日常」の色に塗り替えられていく。
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その夜、リヒトの歓迎パーティーが開かれた。
円卓には山盛りの料理が並ぶ。だが、リヒトは椅子に浅く腰掛け、ナイフとフォークを持ったまま固まっていた。
「……おい、リヒト。肉が冷めるぞ。食わないのか?」
「……食い方が、わからないんだ。五年間、俺は人や魔獣の時間を啜るだけで生きてきた。……『食べる』感覚を、忘れた」
リヒトは消え入るような声で溢した。リヒトにとっての食事は、右手で触れて奪うことと同義だったからだ。
「おいおい、お前、前世の記憶まで喰っちまったのか?」
カイが呆れたように笑いながら、手本を見せる。リヒトは震える手で肉を切り、口へ運ぶ。
じゅわり、と広がる脂の旨味。温かい。喉を通る感覚。
自分がまだ「人間」であることを思い出させるその味に、リヒトの目から思わず涙が溢れそうになった。
「…………。……おいしい」
「だろ? シルヴェナの理論に基づいた栄養管理と、ガルヴァンの豪快な味付けだ」
シルヴェナは感情のない顔でスープを飲み、ガルヴァンは「もっと食え!」と肉をリヒトの皿に放り込む。シオンはリヒトがカイに構われているのが気に入らないらしく、黙々とパンを噛み締めていた。
だが、その穏やかな時間は、一瞬にして崩壊した。
「……いや……! …… いで……! 私が……じゃない……!!」
突如、最年少のルミナが頭を抱えて叫び声を上げた。彼女の周囲から、精神を掻き乱すような禍々しい黒い衝撃波が放たれる。
『『『『『『 !!!???』』』』』』
リヒトが我を忘れて駆け寄ろうとした瞬間、背後から伸びた手がその肩を強く掴んだ。
「……っ、離せ!」
リヒトが振り払おうとした時、掴んだ主であるシオンの顔が苦痛に歪む。リヒトに触れることは、その者の寿命を吸い取られることを意味していた。
それでもシオンは指が白くなるほど力を込め、リヒトを止めようとする。
「近寄るな! 精神を焼かれたいのか!」
「何なんだよ、これは!? ……っ! お前、手が……!」
「構うな、それより彼女を見ろ! 」
シオンの鋭い声に弾かれ、リヒトは視線を前方へ戻した。
つい先程までギルドの仲間たちが笑い合い、湯気を立てた料理が並んでいたはずの食堂。その中央で、一人の幼い少女が炎に包まれて立ち尽くしていた。
団欒の象徴だった木製のテーブルや椅子は、彼女から溢れ出すどす黒い魔力に触れた瞬間、炭化して弾け飛ぶ。
煤で汚れ、絶望に顔を歪めたその少女の手からは、理不尽なまでの熱量が奔流となって周囲を焼き払っていた。
「これはルミナさんの呪いだ。彼女は前世、日本で暮らす普通の少女だった。だが、転生した後に目覚めた理不尽な魔力で、……自分の両親を焼き殺したんだ」
「待って……! あと十秒で、衝撃が……っ!」
彼女……レイシアのスキル『|フラジャイル・ビジョン《砕け散る予見》』が、ルミナの暴走による被害を察知し、彼女の脳に激痛を与えていた。
「ルミナさん! 落ち着いてください!」
シオンが姿を消し、影の中からルミナを抑えようとしたが、衝撃波に弾き飛ばされてしまった。
ルミナの瞳に宿るのは、前世で刻まれたトラウマ――それが呪いとして歪んだものだ。
「あ……が……あぁぁぁ!!」
衝撃波に触れたガルヴァンが膝を砕かれたように崩れ落ちる。彼のスキル『アイアン・ケージ』は物理攻撃には無敵だが、精神への攻撃は防げない。むしろ、痛覚を十倍にする呪いのせいで、ルミナの絶望が十倍の激痛となって彼の脳を焼いていた。
「全員下がっていろッ!」
カイだった。
彼は青ざめた顔をしながらも、迷うことなく黒い波動の中へと踏み出した。
「――|サクリファイス・クロック《身代わりの秒針》。……俺が、肩代わりする……っ!!」
カイはルミナを強く抱きしめた。
ルミナから溢れ出す絶望の奔流。それをカイは自らの身ひとつで受け止め、自身の『寿命』を代償に強引に鎮めようとする。
カイの全身から血が噴き出し、彼の生命の火がみるみる細くなっていく。
リヒトの目には、カイの寿命が砂時計のように零れ落ちていくのが見えた。
「……ルミナ。大丈夫だ。俺がいる。お前は悪くない」
カイの囁きとともに、衝撃波が霧散していく。ルミナは力尽きたようにカイの腕の中で眠りにつき、カイもまた、崩れ落ちるように膝をついた。
「カイさん!!」
シオンとリヒトが同時に駆け寄る。
カイは荒い息を吐きながら、血に濡れた手でリヒトを制した。
「……シオン、ルミナを休ませてやれ。……リヒト、お前の出番だ」
「……あ、ああ」
リヒトは黒い手袋を脱ぎ捨てた。右手の甲の鎖が脈動し、黒い光を放つ。
リヒトはカイの肩に手を置いた。
「『クロノ・ドレイン』――トランスファー」
リヒトがこれまでに蓄えてきた、魔獣たちの「時間」が、リヒトの身体を経由してカイの中へと流れ込んでいく。
真っ青だったカイの顔に赤みが戻り、傷口が塞がっていく。リヒトはギルドの「心臓」として、その命を繋ぎ止めたのだ――。
騒動が収まった深夜、時計塔の屋上。
リヒトは夜風に吹かれながら一人で立っていた。
「……あんなの、不公平だ」
自分は他者の時間を奪い、ルミナは絶望を振りまく。
そんな仲間たちのために、自分だけが削れていくカイ。
「……何している。風邪を引くぞ」
背後から声をかけたのは、シオンだった。
彼の顔には、まだカイを心配する色が残っていた。
「……カイさんは、あんな風に、僕たちの呪いを全部背負おうとするんだ。レイシアさんの痛みも、ガルヴァンさんの苦痛も、ルミナさんの絶望も……。
みんなカイさんに救われた。だから、僕はカイさんを守る影になりたい。
でも、僕の力じゃ、カイさんの寿命が削れるのを止めることはできない」
シオンは拳を強く握りしめ、リヒトを睨みつけた。
「時剥ぎ……。お前が来たことで、カイさんの寿命は『補填』できるようになった。認めたくはないが、お前は僕たちの『心臓』だ。カイさんが、あんな風に血を吐かなくて済むように……僕は、お前をサポートしてやる。カイさんのための、『道具』としてな」
「ふん。勝手に言ってろ。俺だって、あんなお人好しのバカを死なせるつもりはない」
二人の少年の間に、奇妙な共犯関係のような空気が流れた。
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階下の暗い自室で、カイは一人、鏡の前に立っている。
「……っ、ぐ……ぅ……!」
突如として、カイは胸を掻きむしるようにして膝をついた。
心臓を熱い杭で貫かれたような、凄絶な激痛。肺の奥からせり上がる血の味。
リヒトから補填されたはずの「新しい寿命」ですら、浸食を続ける能力の代償を完全には打ち消せていない。
カイは荒い呼吸を繰り返しながら、震える手で机の上の水差しを掴もうとして、そのまま床へ崩れ落ちた。
冷たい石畳に頬をつけ、自分の心臓の、不規則で重苦しい鼓動を聞く。
(まだだ……まだ、壊れるわけにはいかない。リヒトという『心臓』を手に入れたんだ。これしきの摩耗、計算の範囲内……だろうが……!)
カイの瞳は、激痛に耐えながらも、驚くほど冷静に自分の「壊れゆく肉体」を観察していた。
彼にとって、この痛みすらも女神から与えられた「シナリオの重み」に過ぎない。
ようやく痛みが引き、カイは壁に手をついて立ち上がった。鏡に映る自分を見る。
顔色は死人のように青白い。だが、彼は迷うことなく右手の指先を宙に滑らせた。
(リヒトを繋ぎ止めるための『コスト』としては、妥当なラインか……)
カイの瞳の奥には、熱狂も、哀れみも、怒りすらも存在しない。
ただ、淡々と「最適解」を導き出し、周囲の感情をコントロールしようとする、計算機のような静謐さが横たわっている。
カイにとって、リヒトの『クロノ・ドレイン』は救いの力などではない。
それは、自分がより大きな目的のために「命を削る」というリスクを、ノーリスクに書き換えるための最高効率の予備バッテリーに過ぎなかった。
(削られた寿命は、リヒトが奪ってくればいい。ルミナの絶望は、俺が管理すればいい。……すべては、あの日に女神から示された結末に向かうための、不可欠な過程だ)
カイは、自らの内にあった「人間らしい感情」が、スキルを使うたびに一滴ずつ摩耗し、零れ落ちていく感覚を自覚していた。
だが、彼はそれを止めるつもりも、惜しむつもりもなかった。
彼は、自分の顔を両手で覆い、一度だけ深く息を吐いた。
次に顔を上げた時、そこにはリヒトの知る、不敵で、少し意地悪で、誰よりも頼りがいのある「相棒」の笑みが、一切の狂いもなく貼り付けられていた。
翌朝。
時計塔の扉が開く。
差し込む朝日は、かつてリヒトが絶望の中で見た夕日とは違い、眩しいほどに希望を孕んでいた――そう、リヒトには見えていた。
「行くぞ。……リヒト!」
昨夜、死に体の苦痛に悶えていたことなど、微塵も感じさせない涼しい顔で、カイはリヒトを促す。
「……ああ。行こう」
奪うことでしか生きられなかった死神は、今、自らの居場所を守るために、その呪われた一歩を踏み出した。
時を刻む揺り籠の中で育まれる、歪で、けれど偽らざる安息。
その温もりが、瀕死の男によって計算された「演出」であることなど、リヒトはまだ知る由もなかった。




