第二話『黄金の道、あるいは名もなき絆の咆哮』
廃教会の戦いから三日。
かつて『時剥ぎ』と恐れられていた少年、リヒト・フェルンは、生まれて初めて「誰かの背中」を追いかけて歩いていた。
目の前を歩くのは、黒い外套をなびかせる少年、カイ・シュバルツ・クロノス。
彼はあの日、リヒトを守るために自らの寿命を削り、特務部隊を退けた。その肩の傷はリヒトの能力で活性化させた生命力によって驚異的な速度で塞がっていたが、リヒトの心には今も、彼が流した血の熱さがこびりついている。
「……なぁ、あとどれくらいで着くんだ?」
リヒトは、少しぶかぶかになった旅装の裾を気にしながら、前を行く背中に声をかけた。
「そんなに急ぐな。次の街、自由都市リベルタまでは馬車を使ってもあと二日はかかる。俺たちは目立つわけにいかないからな、このまま森沿いの街道を抜けるぞ」
カイは振り返りもせず答える。その足取りは軽く、数日前に死線を彷徨ったとは思えないほど堂々としていた。
「リベルタ……。転生者が集まるギルド、だったっけ?」
「ああ。『クロノス』。理不尽な神に抗い、この世界で居場所を失った連中が、互いの傷を舐め合い……いや、高め合うための場所だ。お前のような逸材なら、大歓迎されるさ」
「……ふん。歓迎なんて、されたことないよ」
リヒトは拗ねたように視線を逸らす。
五年間、化け物として石を投げられ、忌み嫌われてきた。そんな自分を受け入れる場所があるなんて、未だに信じられない。
「ところで、だ」
突如、カイが足を止めた。
リヒトは危うくその背中に衝突しそうになり、慌てて数センチ手前で踏みとどまる。リヒトの右手は「即死の呪い」だ。どれほど信頼の芽が芽生えようとも、不用意な接触は死を意味する。
「な、なんだよ。急に止まるなよ、アンタ」
その言葉を聞いた瞬間、カイの眉がピクリと跳ねた。
彼はゆっくりと振り返ると、彫刻のように整った顔に、どこか得体の知れない圧を湛えた笑みを浮かべた。
「……リヒト。お前、さっきから俺のことをなんて呼んでる?」
「え? ……アンタ、だけど」
「それだっ!」
カイは一歩、リヒトに詰め寄った。リヒトは反射的に一歩下がる。
「あのなぁ。俺たちはこれから同じギルドで、運命を共にする相棒になるんだぞ? それなのにいつまで経っても『アンタ』だの『キミ』だの……。俺は一応、リヒトの命の恩人なんだが?」
「そ、それは感謝してるけど……」
「なら、呼び方があるだろう。俺は三日前に、ハッキリと名乗ったはずだ。カイ・シュバルツ・クロノスとな」
カイは腕を組み、不満げに鼻を鳴らした。
「お前はあれか? 人の名前が三日で抜け落ちるほど、脳みそまで『クロノ・ドレイン』に吸い取られてるのか? それとも、鏡に向かって『僕は孤独な死神……』とかポエムを唱えすぎて、語彙力が死滅したのか?」
「なっ……! ポエムなんて言ってないだろ! バカにするな!」
顔を真っ赤にするリヒトに、カイはニヤリと追い打ちをかける。
「じゃあ呼んでみろ。ほら、カイ、だ。二文字だぞ。幼稚園児でも言える」
「……っ。…………か」
「『か』?」
「…………っ、……っ…………カ、カッ…………」
リヒトの喉が、引き攣ったように震え出した。
心臓が早鐘を打つ。脳内では「カイ」という文字列が完璧に構成されている。しかし、五年間「他者の名前を呼ぶ」という行為を放棄し、拒絶と孤独の中にいた彼にとって、特定の個人の名を呼ぶことは、己の魂の城壁を完全に崩し、相手を受け入れるという究極の儀式に等しかった。
「……カッ、カカッ、カカカカッ……!」
「おい、どうした。壊れた魔導人形みたいな音を出すな」
「カッ……カ、カ……カ、ガ……ガガッ……!」
リヒトの瞳が白目になりかけ、全身がガタガタと震える。
あまりの重圧に、リヒトの処理能力が限界を迎えていた。
「……あー、もういい、わかった。落ち着け。お前、このままだと名前を呼ぶ前に酸欠で死ぬぞ」
カイが呆れたようにため息をつくと、リヒトは「ひゅっ」と短い呼吸をして、その場にへなへなと座り込んだ。
「……はぁ、はぁ……。む、無理だ……。名前なんて、気恥ずかしくて呼べるわけないだろ……」
「自意識過剰なんだよ、お前は。……まぁいい。リベルタに着くまでに呼べるようにならなければ、ギルドの連中の前で『僕はカイ様の忠実な下僕です』と三唱してもらうからな」
「それは絶対嫌だっ!」
俺は立ち上がり、泥を払った。
孤独だった頃にはあり得なかった、くだらないやり取り。それが、凍りついていたリヒトの胸の奥を、少しずつ、けれど確実に溶かしていく。
陽が傾き始め、街道の先に見事な黄金色の草原が広がり始めた。
風に揺れる穂先が、沈みゆく夕日に照らされて波打つ光景は、元の世界では決して見ることのできなかった幻想的な美しさだ。
「綺麗……」
思わず漏れたリヒトの言葉に、カイが足を止める。
「ああ。この『黄金の波』を越えれば、リベルタはすぐそこだ。……リヒト、お前はこの世界に来てから、ずっと一人で戦ってきたんだよな」
先ほどまでのふざけた空気が一変し、カイの声に静かな熱が宿った。
「……ああ。女神が言った通り、世界は敵だと思っていた。実際、そうだったしな。俺が触れれば人は枯れ、俺が守ろうとすれば人は俺を化け物と呼んだ。……救いなんて、どこにもなかった」
俺は、右手の黒い紋章を強く握りしめた。
この手で奪ってきた数多の時間。その重みが、時折、耐え難いほどの罪悪感となって彼を押し潰そうとする。
「俺も同じだ」
カイは、自分の右手の甲――『身代わりの秒針』が刻まれた場所を見つめた。
「俺の力は、誰かの傷を肩代わりする。……だが、それはただの慈愛じゃない。俺の『寿命』という有限の炎を薪にして、他人の未来を買い取る取引だ。女神は、俺が誰かを助ければ助けるほど、俺の死が早まるように仕組んだんだよ。
人を救うたびに、自分の墓穴を掘る。それが俺の呪いだ」
カイの言葉に、リヒトは息を呑んだ。
あの日、カイが自分を守るために使った力。それは単なる格好いい魔法などではなく、彼自身の命を削り取った「削身の術」だったのだ。
「どうして、そこまでして……」
「言っただろう。孤独な死神として恐れられるお前の苦しみを、分かち合いたかったんだ。
それに、お前のような強力な『奪う力』があれば、俺の『削れる寿命』を補填できるかもしれない。
……これは、俺が生き延びるための打算でもあるのさ」
カイは自嘲気味に笑ったが、リヒトにはそれが嘘だとわかった。
打算だけで、あんなにも温かい目はできない。
「……補填、できるのか?」
「理論上はな。お前が極悪人から奪った寿命を、俺に流し込む。その寿命を使って、俺が善良な転生者や人々を守る。
……どうだ? これなら、女神の思い通りにはならないだろ?」
リヒトの瞳に、初めて小さな希望の光が灯った。
自分の呪われた力が、誰かを生かすためのエネルギーになる。
他者の未来を食い潰すだけの化け物が、誰かの命の盾になる男を支える。
「……悪くない、かもな。……いや、最高だ」
リヒトは、少しだけ前向きな気持ちで空を見上げた。
その時。
草原の向こうから、地響きのような音が響いてきた。
「……ッ! 何だ、この魔力は……!」
リヒトの感覚が鋭敏に反応する。五年間、野生の獣のように生き抜いてきた直感。
黄金の波を割って現れたのは、巨大な黒い影だった。
それは、この付近の森を統べるSランク魔獣――
『破滅の双頭獅子』。
本来なら、一国の軍隊が総出で対処するレベルの災厄が、なぜか街道のすぐそばにまで現れていた。
「タイミングが悪いな……。特務部隊の騒ぎに当てられて、森の奥から出てきやがったか」
カイが黒い外套を脱ぎ捨て、右手の紋章を輝かせる。
「リヒト、下がってろ。こいつは今のお前が相手をするには、少しばかり『重い』」
「……バカ言うな! アンタ、さっき寿命を使いすぎたって言ってたじゃないか!」
リヒトはカイの前に飛び出した。
右手のクロノ・ドレインが、獲物を前にして激しく脈動する。
「……俺がやる。魔獣だって、命を持っているなら『時間』はあるはずだ。……こいつの数百年分、全部俺が食らい尽くしてやる!」
「よせ! 破滅の双頭獅子の魔力密度は異常だ。まともに触れれば、お前の魂の器が割れるぞ!」
カイの制止も聞かず、リヒトは弾かれたように大地を蹴った。
銀髪が夕日に舞い、紅い瞳が鋭く獲物を捉える。
キマイラの二つの首が、同時にリヒトへ向かって咆哮を上げた。放たれるのは、空間を歪めるほどの衝撃波と、すべてを腐らせる毒の息吹。
「……っ……あああああぁぁぁぁ!!」
リヒトは衝撃波を紙一重でかわし、毒霧の中を突っ切る。
女神に作り替えられたその強靭な肉体と、命を削り続ける飢餓感が、彼を人を超えた速度へと押し上げていた。
懐に飛び込み、呪われた右手をキマイラの巨大な前足へ叩きつける。
『――クロノ・ドレインッ!!』
漆黒の閃光が草原を走った。
キマイラの巨体が、目に見えて萎縮していく。数百年を生きる魔獣の時間が、リヒトという小さな「器」へと猛然となだれ込む。
「ぐ、あああああぁぁっ……!? 熱い……魂が、焼ける……ッ!!」
カイの警告通りだった。魔獣の膨大な時間は、人間のそれとは密度が違う。
血管が破裂しそうなほどの圧力がリヒトを襲い、鼻から鮮血が滴り落ちる。
「リヒトッ!!!」
カイが叫び、リヒトの背中に手を添えようとする――寸前で止めた。
リヒトに触れれば、今この瞬間、キマイラから奪っている「破壊的な時間」がカイにも流れ込んでしまう。
「……くそっ! 俺の力を使え、リヒト!
――『事象の否定・苦痛の転換!』」
カイが呪文を唱えると、リヒトを襲っていた激痛が、カイの身体へと転移した。
カイが膝をつき、激しく血を吐く。
「な、何してるんだよ! アンタまで死ぬぞ!!」
「うるさい……! お前一人に、化け物の役を押し付けるつもりはないと言っただろう……!」
二人の少年の、呪われた力が共鳴する。
一方が奪い、一方がその負荷を肩代わりする。
歪で、残酷で、けれど完璧な循環。
ついに、Sランク魔獣のキマイラは、最期の一息を吐き出すこともできず、灰となって風に消えた。
静寂が戻った草原で、リヒトは荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。
体内には、今まで感じたことのないほど膨大な「生命のストック」が渦巻いている。
「……はぁ、はぁ……。やった、のか……?」
振り返ると、カイが草の上に大の字になって倒れていた。
顔面は蒼白だが、その唇には満足げな笑みが浮かんでいる。
「……ふっ……ハハハ……。死ぬかと思った……。お前、無茶苦茶だな……」
「アンタこそ……。死にたいのかよ……」
リヒトは、ふらふらとした足取りでカイに歩み寄った。
そして、まだ手の震えが止まらない中、彼は勇気を振り絞って、その「二文字」を口にしようと試みた。
「……あ……。……か……」
「ん?」
「……か……カイ」
蚊の鳴くような、小さな声だった。
けれど、それはリヒトが五年間閉ざしていた世界の扉を、自ら開いた瞬間だった。
「……今、なんて言った? 風の音で聞こえなかったな。もう一回言ってくれ、リヒトくん?」
「……うるさい! もう言わない! 一生『アンタ』って呼んでやるからな!」
顔を真っ赤にして叫ぶリヒトに、カイは声を上げて笑った。
その笑い声は、かつて女神に「この世界に味方はいない」と呪われた少年にとって、どんな福音よりも美しく響いた。
黄金の波を渡り、夕闇の向こうに、自由都市リベルタの灯りが見え始める。
奪う少年と、護る少年。
二人の「死神」の物語は、まだ始まったばかりだ。




