プロローグ『死神の産声、あるいは歪んだ福音』
数ある作品の中から目にとめていただき、ありがとうございます!
本作は、女神に呪いを押し付けられた少年が、過酷な世界で「奪う」ことで最強へと成り上がっていくダークファンタジーです。
孤独な主人公リヒトと、彼を救おうとする謎の少年カイ。
二人の出会いと、異世界の残酷な理を楽しんでいただければ幸いです。
まずはプロローグ、そして第一話から、彼らの物語をぜひご覧ください!
アスファルトにへばりつく自分の血が、こんなにも熱いものだとは知らなかった。
大学二年生、一ノ瀬時流。
講義を終えた、いつもの帰り道。夕食の献立でも考えながら歩いていた商店街の路地裏。
そこから飛び出してきたのは、スマホの画面に目を落とし、イヤホンで耳を塞いだまま暴走するマウンテンバイクだった。
「っ! ……」
回避する時間は、一秒にも満たなかった。
鈍い衝撃が脇腹を打ち抜き、時流の身体は紙屑のように宙を舞った。叩きつけられた先は、不適切に放置されていた工事現場の鉄筋。
鋭利な鉄の感触が背中を貫き、内臓を蹂躙した。
(なんで、俺が……。……まだ、何も……)
周囲の悲鳴が遠ざかっていく。スマホを落として狼狽える男の姿が霞む。色彩を失ったモノクロームの静寂が世界を塗り潰し、肺の奥に溜まった空気が、最後の一泡となって溢れ出した。
その時だった。
『あらあら、可哀想に。自業自得のバカな若者に巻き込まれて、短い生涯を閉じるのね。一ノ瀬時流くん?』
無音の世界に、鈴を転がすような、けれど吐き気がするほど甘く、残酷な響きを持つ声が降ってきた。
意識の底、底なしの虚無に浮かび上がったのは、この世のモノとは思えないほど美しい女神の姿だった。
彼女は、血反吐を吐いて死にゆく時流の魂を見下ろし、その唇をこの上ない愉悦に歪めていた。
『ねえ、今どんな気持ち? 必死に勉強して、これから楽しいことがたくさんあったはずなのに。
一瞬の不注意で、全部台無し。ゴミみたいに捨てられる気分は?
……ねえ、もっと聞かせてよ、その絶望に濡れた魂の叫びを!』
女神は身を乗り出し、時流の苦悶を、まるで極上の音楽を鑑賞するかのように楽しんでいる。彼女にとって、人間の死と苦しみは最高の娯楽なのだ。
「……たす、けて……。しに……たく、ない……」
『いいわよ、助けてあげる』
女神は、猫が弱った鼠の喉元を弄ぶような笑みを浮かべ、時流の頬に冷たい指先を這わせた。
『ただし、タダじゃないわ。新たな命と引き換えに、貴方には特別な力を授ける。……いえ、これは”呪い”と呼んだ方が、貴方にとっては相応しいかしら』
彼女の手から、禍々しい漆黒の魔力が注ぎ込まれる。魂が黒く染まり、形を変えていく激痛。
『授けるのはクロノ・ドレイン。触れた相手の時間を強制的に奪い、貴方の肉体を維持する糧とする力よ。
貴方はこれから、生きるために、他人の未来を奪い続けなければならない。飢えと渇きに苛まれ、誰にも触れられず、誰の温もりも知らず、ただ孤独に命を啜る化け物として生きるの』
女神は恍惚とした表情で、時流に呪いの烙印を刻んだ。そして、異世界へと消えゆく彼の耳元で、甘く、冷たく、最後の一撃を突き放すように囁いた。
『この世界に、あなたの味方なんて一人もいない。――そう、全員敵と思いなさい』
その瞬間、一ノ瀬時流としての時間は完全に停止し、魂は異世界の冷たい風にさらされていくのだった――。
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目が覚めた時、そこは鼻を突く腐敗臭と、湿った土の匂いが立ち込める薄暗い原生林の奥深くだった。
一ノ瀬時流という過去は、断絶された時間の彼方へ置き去りにされた。あの理不尽な衝撃によって、彼の人生という幕は無残に引き裂かれ、もはや修復の術を失っている。
新たな名は、リヒト・フェルン。
女神によって再構築されたその身体は、透き通るような白銀の髪と、底知れない闇を孕んだ紅い瞳を持つ、儚げな少年のものへと変貌していた。
右手の甲には、歪な時計の針が刻まれた黒い紋章。それが、彼に与えられた呪い――クロノ・ドレインの証だ。
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「はぁ……はぁっ……!」
喉が焼けるように熱い。魂の芯が干上がっていくような、耐え難い空腹感。
ふらつく足取りで森を彷徨い、彼は一つのキャンプ場を見つけた。焚き火を囲む数人の男たち。
略奪品を奪い合い、汚い笑い声を上げている野盗の群れだ。
「おい、見ろよ。ガキだ。えらく上等な面をしてやがる」
男の大きな手が、リヒトの細い肩を掴もうと無遠慮に伸びてくる。
リヒトは拒絶するように、恐怖に顔を歪めて叫んだ。
「触ら……ないで……!」
リヒトの右手が、反射的に男の腕に触れた。
その瞬間。
「あ――がっ、あ、あああぁぁぁぁぁぁ!!」
男の腕から水分が消え、皮膚が茶褐色に乾いていく。瞬く間に肉は削げ落ち、髪は白濁して抜け落ちる。数十年という長い月日が、わずか数秒の間にその男の肉体を駆け抜けていったのだ。
男の絶叫は掠れた呻きに変わり、最後には乾いた音を立ててその場に崩れ落ちた。
「な、なんだ……!? 貴様、何をした!」
男から奪った三十七年の時間が、血管を焼き切らんばかりの勢いで体内へと流れ込んできた。
それがリヒトの動力源となり、枯れ果てていた生命の泉を満たしていく。
飢えが消え、視界が鮮明になり、力がみなぎる。他者の命を食事に変える背徳感が、彼の倫理観を内側から食い破っていく。
「化け物めッ!」
斬りかかってきた男の刃を、リヒトは神速の動きで避けた。
「……こないで。死にたくないなら、僕に触れるな……っ!」
夜が明ける頃、キャンプに残されていたのは、枯れ木のように転がる数多の死体と、血の通わない白い肌を持つ少年だけだった。
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それから、どれほどの月日が流れただろうか。
リヒトはこの世界を、ただ彷徨い続けた。
誰とも関わらず、誰にも触れさせず。
生きるために、彼は自らに課した唯一のルールに従い、獲物を選んだ。街を襲う賊、命を弄ぶ悪党。その未来を啜り、命を繋ぐ。
いつしか、人々は彼を恐れ、憎しみを込めてこう呼んだ。
“時剥ぎ”。
リヒトは、街の喧騒から離れた廃教会に身を寄せていた。
ステンドグラスから差し込む月光を浴びながら、彼は自分の右手を見つめる。
「いつまで続ければいいんだろうな……」
その時、教会の重い扉が、音もなく開いた。
リヒトは瞬時に警戒し、右手に漆黒の魔力を込める。
「……誰だ。死にたくなければ、今すぐここから立ち去れ」
「死ぬ、か。……久しく忘れていた言葉だな」
現れたのは、一人の男だった。
夜を切り取ったような黒い外套を纏い、足音一つ立てずに歩み寄ってくる。
リヒトは、男が怯える様子を微塵も見せないことに、底知れない違和感を覚えた。この世界で、自分の姿を見て立ち止まらない人間など、今まで一人もいなかったからだ。
リヒトは舌打ちし、牽制のために地を這うようなスピードで肉薄した。
「警告はしたぞ」
必殺の右手が、男の胸元へ伸びる。触れれば終わりだ。
だが――。
「……っ!? なぜだ、なぜ流れてこない……!」
奪えない。
いつもなら濁流のように流れ込んでくるはずの時間が、微塵も動かない。それどころか、右手を伝わって返ってくるのは、底の知れない虚無の感覚。
「お前の力、面白いな。……だが、俺から奪うには、お前の器が少し足りないようだ」
男は、不敵な笑みを浮かべた。その瞳には、リヒトと同じ――あるいはそれ以上の、深い闇と年月が宿っていた。
「アンタ、何者だ……。何をしたっ!」
「落ち着け。俺もお前と同じさ。……あの理不尽な女神に、望まぬ力を押し付けられた『被害者』の一人だよ」
男はゆっくりと手を離し、リヒトの紋章を見つめた。
「お前の苦しみはわかる。一人で、ずっと『空腹』と戦ってきたんだろう?」
その言葉は、五年間、誰からもかけられることのなかった理解の言葉だった。
リヒトの警戒心が、ほんの微かに揺らぐ。
男はゆっくりと黒い手袋を脱ぎ、その素顔を月光の下に晒した。
「俺の名は、カイ・シュバルツ・クロノス。……どうやら、あの女神の娯楽も、ようやく少しばかり面白くなってきたらしい」
止まっていたリヒトの運命が、異音を立てて狂い出す。
奪うことでしか繋ぎ止められなかった孤独な命が、初めて奪えない存在と対峙した瞬間。
これは、奪うことでしか生きられない少年リヒトが、永遠を歩む男カイと共に、呪われた運命の根源へと手を伸ばす物語だ――。




