4.計算
―――都乃鈴 4月4日 13時12分
「だかんさ……嫌だから、3乗でしょ?ここ。だからここ2じゃなくて3になるの。」
「じゃ、こうか。」
「違う、2乗はそのままなの、係数が3になるの。」
「ケイスウ……ってなんだっけ。」
開いた口が……
姉の偉いところは、答えを見て手を抜くようなことは絶対にしないことだ。私に教わるときも、答えは絶対に自力で出す。まぁ、トンチンカンな答えの方が多いが、要は誠実だということだ。
「(x+y)²だったらね、これ展開するとどうなる?」
「えっと……エックスジジョウプラス、ニエックスワイプラスワイジジョウ。」
「そう。x²+2xy+y²の真ん中の2xyの2が係数よ。」
「数字ってこと?」
「着目していない定数。例えば3ax²yでxに注目してたら係数は3ayになるしね?」
「なるほど……」
「……4a²cでcに着目してたら?」
「えっと……4a²?」
「great。」
「何の話してたっけ……」
「三次式の展開。この真ん中2つが……実際にやったほうがいっか。」
こっくりと頷く姉。可愛い。
私は適当に裏紙を取って、中学生の時に貰った愛用の万年筆で、『(x+y)³=』とだけ書く。
「これならできそうかも。」
『x²』とか『2xy』とか『x』とかをシャーペンの先が行き来して書いていく。やがて紙に少しずつ数式を書いていく。
やがて『x³+2x²y+xy²+x²y+2xy²+y³』と書いた。
「オッケナイス。でさ、こことここ足せるじゃん。あとこことここ。」
「……ホントだ!!」
大発見じゃないぞ、何百年も前に見つかってる、多分。
「はい、公式が分かったところで。ね?『(x+y)³=x³3x²y+3xy²+y³』。覚えたね?はい。問題どれだっけ?」
「かっこるーとさんぶんのにえっくすぷらすにわいかっことじるさんじょう。」
20分掛かった。
「あ”ぁ……疲れた……」
姉は大きく伸びをして、私が勉強の合間にと思って置いておいた小さなクッキーを一枚頬張る。
「ありがとー。教えてくれて。」
「疲れたっしょ?」
「疲れた。」
「私も相当エネルギー使った。」
「いっつもありがと。」
「どーいたしまして。」
姉の隣で、私もクッキーに手を伸ばした。
「鈴。」
「え?」
「……家の中でくらい、マスク外していんだよ?」
「……大丈夫。ちょっと寒かったとこだし。」
家でもマスクを付けて、食事の時かお風呂の時くらいにしかマスクを外さない、それも極力誰にも見られないように。そんな私を、姉は気遣ってくれる。その優しさすら今では鬱陶しい。
「……そ。」
短く返事をして、姉はコーラを口に含む。私は伸ばした手を引っ込めた。
本当は、羨ましい。
マスクなんて付けなくても平気で生きていける人たちが、姉が、心底。姉だけではない。世界中のみんな。ほとんどの人がマスクなんてしないで、自由に日本中、世界中を歩いてるじゃない。私にはそれができない。
悲劇のヒロインなら良かった。でも私はそこまでロマンチストではない。そこまでの自己肯定感は、すでにない。
一人だけだ。クラスでも。家でも。
稀に風邪を引いてマスクしてくる人もいる。だけど、風邪が治れば、また一人ぼっち。
別にいい。一人ぼっちでいるくらいの覚悟はある。私はそこまでか弱くない。
「鈴の部屋って綺麗だよね。ホコリ一つ落ちてない。」
「まぁ、暇さえあれば、掃除か、勉強か、楽器とかあれとかこれとか色々。」
「ずっと曲やってるよね。」
「うん。YouTubeでずっと曲聴いたりしてる。姉は?」
「りとる。」
「さっき新曲出てたよ?」
「聴く。」
「姉もそこそこ聴くよね色々。」
「うん。プレイリストに入ってる曲はひたすらループ。」
「ずっと?」
「うん。音楽に生き甲斐を感じる生涯。」
幸せ者。
「……カラオケ行きたい。」
「行く?今度。」
「外出たくない。」
「流石にわがまま。」
「姉もそうでしょ?」
「まぁ……」
姉は口をすぼめる。割と、似た者同士なのかも知れない。
課題が終わると、姉は隣の自室に戻っていった。
終わったばかりの冬を懐かしむのが春という季節だろう。溶けたばかりの雪を楽しそうに思い出しては、進学進級テストといった現実から逃避するのが、学生というものだろう。ベランダに昨日の夜ちょっとだけ降り積もった雪も、午前7時の日差しに溶けていった。
◇◇◇
あれはもう、何年前だったのだろうか。確か、小6の冬。それも雪がたくさん降った1月だった。その日秋田県には、なだれ注意報だか大雪注意報だかが出ていて、外はひたすら銀世界だった。
両親がたまたま出かけていて、私たちは地元の食堂でお昼を食べる気でいた。実際そうしてと言われていたし、お金ももらっていた。12時前くらいに家を出たがかなり雪が降っていて、姉と道の端を並んで歩いた。
「雪すごいね。」
「いつ止むのかな。」
と二人、なんやかんや話していた。
突然、何かを踏み抜いたらしい感覚があった。ズボッと。
どうやら雪を踏み抜いたらしく、私の体はそこから、道端の小さな崖を10m弱転げ落ちた。ひゃあっと間抜けた悲鳴を上げたせいで、姉は私の失態にすぐに気がついた。
「大丈夫!?」
地面に伸びた私を慌てたように、心配そうに見下ろす。右足が軽く痛んだが、一応立てた。
「怪我はしてない。」
下から声を張り上げると、姉は安心したのか、崖下でしょぼんとしている私を見てけらけら笑い出した。
「笑わないで!引き上げて!」
「分か、分かったから……ッフハッハハハ。」
まぁなんとも……惨めだ。
一人崖下で。上向いて立ち尽くして。人生稀の恥ずかしさだったそれを小6で味わった。
「ちょっと人探してくるから、待っててよ、フハハ。」
「笑わないで!」
下からちょっとムッとして言った。姉はお構い無しにけらけら笑いながら走って行った。近所からロープでも借りに行ったのだろうと思った。
姉の帰りを待って、崖の周りを見回す。雪。雪。雪。
雪まみれ。
あー淋しいなぁ白いなぁと考えていた。突然、首を引っ張られ、体が宙に浮いた。
その後のことは、よく覚えていない。
◇◇◇
『都乃鈴様
しばらく返事書けてなくてごめん。検査とかいろいろ重なって、ちょっと大変だったんだ。ごめん。
送ってもらった写真、見たよ。俺も一回、東北行ってみたい。夕陽の写真めっちゃ綺麗だった!雪とかまだ残ってるの東北は?福岡は滅多に雪降んないからさ、写真でしか見たことないんだ。ちょっと羨ましい。
いいなー。雪。また写真送ってよ。
こっちはね、桜がもう散っちゃった。外25℃超えてるし、ちょっと暑いかも。
実は一個、報告があるんよ。
一昨日退院しました!!!!!!
やっとね病気、治ったって言われて。病院の中と外じゃ全然空気違うの!まだ車椅子は必須なんだけど、これからリハビリも始まるし。でも歩く体力つけられたら、雪見に行くよ。東北に。
「シャバの空気はうめー!」って行ったら姉ちゃんにぶっ叩かれた(笑)。
明日の入学式はなんとか出れそうだよ。その後しばらくはオンラインとかになりそうだけど。
鈴さん、入学式とか行けた?元気してる?
学校行けるようになると良いなって、思ってる。頑張ろうね、お互い。
じゃあ、また手紙書くね。また! 鈴嶌一起』




