開けてはいけない
雨の音が、今夜は特に激しい。
古びた日本家屋の屋根を、無数の小石が叩いているようだ。
「いいかい、健太」
囲炉裏の向こうで、祖母が鉄瓶に湯を注ぎながら言った。
しわだらけの優しい顔だ。母子家庭で母親がいつも仕事に出かけていたので、僕が寂しくないように、一緒にいてくれる世界で一番大切な人。
「この村には、昔から『山彦』が出る。そいつは夜になると、身内の声を真似て戸を叩くんだ」
「わかってるよ、ばあちゃん。もう百回も聞いた」
「油断してはいけないよ。山彦は賢い。お前の記憶を覗いて、二人だけの思い出話までしてくる。でもね、絶対に開けちゃいけない。開けたら最後、魂を取られるからね」
祖母は僕の手を握りしめた。枯れ木のように細いが、とても温かい手だった。
「お前がいなくなったら、ばあちゃんは生きていけない。約束しておくれ。何があっても、夜は決して戸を開けないと」
「......うん。約束する」
その日の夜。
時計の針が深夜二時を回った。
母さんが帰ってこない。
町へパートに出た母さんは、いつもならとっくに帰っている時間だ。
電話も繋がらない。
祖母に相談しようと思ったが、この時間に起こしに行くのもなんか悪いな、と思って待つこと30分。
不安で押しつぶされそうになった時だった。
ドンドンドンドンッ!!
玄関の引き戸が、壊れそうな勢いで叩かれた。
「健太! 開けて! 健太ッ!」
母さんの声だ。
僕は反射的に立ち上がった。
でも、足が止まる。
……祖母の言葉。
『身内の声を真似て戸を叩く』
「開けて! お願い! 怪我してるの! 血が止まらないの!」
悲鳴のような叫び声。雨音に混じって、何かがズルズルと崩れ落ちるような音が聞こえる。
僕は玄関まで走った。でも、鍵には手をかけられない。
「……嘘だ」
僕は震える声で言った。
「お前は母さんじゃない。山彦だ」
外の音が止まった。
ドアの向こうの声は必死に訴える。
「何を言ってるの! お母さんよ! 怪我をしてるの! 血が止まらないの! お願い、死んじゃう!」
声はあまりにもリアルで、悲痛だ。
僕は揺らぐ。
「でも、ばあちゃんが……」
外の声は、二人しか知らない思い出を語り始める。
「小さい頃、あなたが熱を出した時、ずっと背中をさすってたでしょう? あの歌を歌ったでしょう? 覚えてるわよね? 開けてよぉ!!」
僕は耳を塞ぎ、泣きながらドアを押さえる。
「嘘だ! 魔物は記憶を読むって聞いたぞ! 騙されないぞ!」
外からは、爪でドアを引っ掻くような音と、断末魔のような叫びが響く。
「お願い……痛い……寒い……開けて……健太……」
やがて、扉の向こうで何かがドサリと倒れる音がした。
それきり、聞こえるのは雨の音だけになった。
勝ったんだ。
僕は膝から崩れ落ちた。
翌朝。
台風一過のような晴天だった。
鳥のさえずりがうるさいくらいに響いている。
気絶していたのか、眠ってしまったのか。
目をこすりながら昨夜のことを思い出して目が覚めた。
僕は恐る恐る、玄関の鍵を外し、引き戸を開けた。
「…………あ」
そこに、化け物はいなかった。
泥まみれになり、全身から血を流した母さんが、冷たくなっていた。
右足は不自然な方向に曲がり、着ているブラウスは赤黒く染まっている。
首には、僕が母の誕生日にあげた青いマフラーが巻かれていた。
そして。
母さんの両手の爪は、すべて剥がれていた。
引き戸の下の方には、無数の引っ掻き傷が残っていた。
「あ……ああ……あぁぁぁぁッ!!」
僕は絶叫し、母さんの遺体にすがりついた。
冷たい。もう動かない。
本物だった。
崖から落ちたのか、事故に遭ったのか、這ってここまで帰ってきたんだ。
僕が。僕が殺した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」
背後で、足音がした。
祖母だ。
「ばあちゃん……! 母さんが……僕、なんてことを……!」
僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
祖母は、逆光の中に立っていた。
母さんの死体を見下ろしている。
祖母は、グチャリとその顔を歪ませた。
その笑顔はかつての祖母のものではない。
もっと、粘着質で、底知れない何かが張り付いたような顔。
「……あーあ」
祖母の口が動いた。
そこから出た声は、いつものしゃがれた声ではなかった。
地底から響くような、低く、太い声だった。
「昨日の夜、お前が鍵を開けていれば、『この女だけ』は助かったのにねぇ」
僕の思考が停止する。
祖母の影が、玄関の土間に長く伸びた。
その影は、人の形をしていなかった。
目の前の怪物は、僕の肩に、あの温かい手を置いた。
「ま、いいさ。これで邪魔者はいなくなった」
怪物は、優しく僕の髪を撫でた。
「さあ、家にお入り。今日からは、ずっと二人きりだよ」




