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開けてはいけない

掲載日:2026/01/20

雨の音が、今夜は特に激しい。

古びた日本家屋の屋根を、無数の小石が叩いているようだ。


「いいかい、健太」


囲炉裏の向こうで、祖母が鉄瓶に湯を注ぎながら言った。

しわだらけの優しい顔だ。母子家庭で母親がいつも仕事に出かけていたので、僕が寂しくないように、一緒にいてくれる世界で一番大切な人。


「この村には、昔から『山彦やまびこ』が出る。そいつは夜になると、身内の声を真似て戸を叩くんだ」


「わかってるよ、ばあちゃん。もう百回も聞いた」


「油断してはいけないよ。山彦は賢い。お前の記憶を覗いて、二人だけの思い出話までしてくる。でもね、絶対に開けちゃいけない。開けたら最後、魂を取られるからね」


祖母は僕の手を握りしめた。枯れ木のように細いが、とても温かい手だった。


「お前がいなくなったら、ばあちゃんは生きていけない。約束しておくれ。何があっても、夜は決して戸を開けないと」


「......うん。約束する」


その日の夜。

時計の針が深夜二時を回った。

母さんが帰ってこない。

町へパートに出た母さんは、いつもならとっくに帰っている時間だ。

電話も繋がらない。

祖母に相談しようと思ったが、この時間に起こしに行くのもなんか悪いな、と思って待つこと30分。


不安で押しつぶされそうになった時だった。


ドンドンドンドンッ!!


玄関の引き戸が、壊れそうな勢いで叩かれた。


「健太! 開けて! 健太ッ!」


母さんの声だ。

僕は反射的に立ち上がった。

でも、足が止まる。

……祖母の言葉。


『身内の声を真似て戸を叩く』


「開けて! お願い! 怪我してるの! 血が止まらないの!」


悲鳴のような叫び声。雨音に混じって、何かがズルズルと崩れ落ちるような音が聞こえる。

僕は玄関まで走った。でも、鍵には手をかけられない。


「……嘘だ」


僕は震える声で言った。


「お前は母さんじゃない。山彦だ」


外の音が止まった。

ドアの向こうの声は必死に訴える。

「何を言ってるの! お母さんよ! 怪我をしてるの! 血が止まらないの! お願い、死んじゃう!」


声はあまりにもリアルで、悲痛だ。

僕は揺らぐ。

「でも、ばあちゃんが……」


外の声は、二人しか知らない思い出を語り始める。

「小さい頃、あなたが熱を出した時、ずっと背中をさすってたでしょう? あの歌を歌ったでしょう? 覚えてるわよね? 開けてよぉ!!」

 

僕は耳を塞ぎ、泣きながらドアを押さえる。

「嘘だ! 魔物は記憶を読むって聞いたぞ! 騙されないぞ!」


外からは、爪でドアを引っ掻くような音と、断末魔のような叫びが響く。

「お願い……痛い……寒い……開けて……健太……」


やがて、扉の向こうで何かがドサリと倒れる音がした。

それきり、聞こえるのは雨の音だけになった。


勝ったんだ。

僕は膝から崩れ落ちた。


翌朝。

台風一過のような晴天だった。

鳥のさえずりがうるさいくらいに響いている。


気絶していたのか、眠ってしまったのか。

目をこすりながら昨夜のことを思い出して目が覚めた。


僕は恐る恐る、玄関の鍵を外し、引き戸を開けた。


「…………あ」


そこに、化け物はいなかった。


泥まみれになり、全身から血を流した母さんが、冷たくなっていた。

右足は不自然な方向に曲がり、着ているブラウスは赤黒く染まっている。

首には、僕が母の誕生日にあげた青いマフラーが巻かれていた。


そして。

母さんの両手の爪は、すべて剥がれていた。

引き戸の下の方には、無数の引っ掻き傷が残っていた。


「あ……ああ……あぁぁぁぁッ!!」


僕は絶叫し、母さんの遺体にすがりついた。

冷たい。もう動かない。

本物だった。

崖から落ちたのか、事故に遭ったのか、這ってここまで帰ってきたんだ。

僕が。僕が殺した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ッ!」


背後で、足音がした。

祖母だ。


「ばあちゃん……! 母さんが……僕、なんてことを……!」


僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

祖母は、逆光の中に立っていた。

母さんの死体を見下ろしている。


祖母は、グチャリとその顔を歪ませた。


その笑顔はかつての祖母のものではない。

もっと、粘着質で、底知れない何かが張り付いたような顔。


「……あーあ」


祖母の口が動いた。

そこから出た声は、いつものしゃがれた声ではなかった。

地底から響くような、低く、太い声だった。


「昨日の夜、お前が鍵を開けていれば、『この女だけ』は助かったのにねぇ」


僕の思考が停止する。

祖母の影が、玄関の土間に長く伸びた。

その影は、人の形をしていなかった。


目の前の怪物は、僕の肩に、あの温かい手を置いた。


「ま、いいさ。これで邪魔者はいなくなった」


怪物は、優しく僕の髪を撫でた。


「さあ、家にお入り。今日からは、ずっと二人きりだよ」


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― 新着の感想 ―
短い文章でここまで怖くできるのはすごい!ゾワゾワして面白かった!
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