第8話:石の鉢
8月4日。
じっとりと湿った風が吹く、曇天の朝だった。
僕は納屋から持ち出した大型のハンマーを手に、地蔵堂の前で立ち尽くしていた。
柄を握る掌は汗で滑り、心臓は早鐘を打っている。
目の前には、あの「石の鉢」がある。
煤と苔に覆われた、ただの汚れた石の器だ。雨水が溜まり、ボウフラが湧いている。どこにでもありそうな、取るに足らない物体。
けれど、僕の本能は全力で警鐘を鳴らしていた。
(……触れるな)
脳の奥底から、そんな命令が響いてくる。
一歩近づくだけで、視界が歪む。平衡感覚が狂い、地面が泥沼になったかのような錯覚に襲われる。
キーン、という不快な耳鳴りが、蝉の声よりも大きく頭蓋骨の中で反響する。
「はぁ……はぁ……っ」
僕は脂汗を拭い、ハンマーを構えた。
重い。物理的な重量以上に、空気が鉛のように重くのしかかってくる。
『仏の御石の鉢』。
竹取物語において、かぐや姫が求婚者に求めた宝の一つ。
古文書によれば、これが結界の杭の一つだという。
「壊さなきゃ……終わらないんだ」
僕は自分に言い聞かせる。
あの閉ざされたトンネル。出口のない山道。そして、囚われの紗夜。
このふざけた箱庭をぶち壊すには、この生理的な嫌悪感を乗り越えるしかない。
「う、おおおおおおっ!」
裂帛の気合いと共に、僕はハンマーを振り上げた。
狙いは石鉢の中心。
筋肉が悲鳴を上げ、脳が「やめろ」と叫ぶのを無視して、僕は重力を味方に振り下ろした。
ガツッ!!
鈍い音が響き、衝撃が手首に走る。
石は硬かった。表面が少し欠けただけで、割れる気配がない。
それと同時に、強烈な頭痛が僕を襲った。
「あぐっ……!?」
視界が真っ白に染まる。
地蔵堂の風景が消え、一瞬だけ、全く別の光景が脳裏にフラッシュバックした。
――暗くて、寒い部屋。
――目の前には、冷たい光を放つレンズ。
――『言え。場所はどこだ』
――誰かの、威圧的な声。
(言わない……言ったら、奪われる)
僕は必死に首を振っている。
何かを守るために。とても大切な、何かを隠し通すために。
それは恐怖と、意地と、そして深い絶望がないまぜになった、ドロドロとした感情だった。
「はっ、ぁ……!?」
我に返ると、僕は地面に膝をついていた。
肩で息をする。
今のは、なんだ?
昔の記憶? いや、僕はあんな場所を知らない。あんな怖い思いをした記憶なんてない。
だとしたら、これはこの石鉢に込められた「呪い」が見せた幻覚なのか?
「……ふざけるな」
恐怖よりも先に、怒りが湧いてきた。
僕の頭の中に勝手に入ってくるな。僕の心を勝手にいじるな。
僕は再び立ち上がり、ハンマーを握り直した。
今度は迷わなかった。
あの幻覚への恐怖を、力に変えて叩きつける。
ガガンッ!!
バキンッ!!
二度、三度。
硬質な音が響き渡り、ついに石鉢に亀裂が走った。
真っ二つに割れた石が、左右に転がる。
その瞬間。
ふわり、と風が抜けた。
「……え?」
嘘のように、頭痛が消えていた。
あれほどまとわりついていた湿気が退き、空気が澄んだように感じる。
耳鳴りも止んでいた。ただ、遠くでヒグラシが鳴いているだけだ。
壊せた。
僕は割れた石の断面を見下ろした。中から出てきたのは、何かの宝石でも、お札でもない。ただの黒い砂利だけだった。
「……あと、四つ」
僕は荒い息を吐きながら、ハンマーを杖にして立ち上がった。
確信した。
この村には、確実に「何か」がある。
そして僕がこうして「杭」を一本抜くたびに、村を縛り付けているルールが揺らいでいくのだ。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、昨日メモしたリストの『仏の御石の鉢』の文字に、勝手に打ち消し線が引かれていた。
(……ご丁寧にどうも)
背筋が寒くなるのを押し殺し、僕はスマホをポケットに突っ込んだ。
誰が見ているのかは知らない。神様か、悪魔か。
でも、道を示してくれるなら利用してやる。
僕はハンマーを担ぎ直し、次なる場所へと歩き出した。
目指すは、村長屋敷の裏山にあるご神木。
そこに隠されているはずの『蓬莱の玉の枝』だ。
だが、僕はまだ気づいていなかった。
僕が石を割った瞬間、村中のカーブミラーが一斉に、微かに角度を変えて僕の方を向いたことを。




