第4話:惨劇の夜
8月15日。
その夜、竹神村の空には、不吉なほど巨大な満月が浮かんでいた。
月明かりは青白く、村全体を海底のように沈めている。
不思議なことに、あれほど騒がしかった虫の声が一切しない。風も止まり、湿度を含んだ重い空気が、じっとりと肌に張り付く。世界そのものが息を潜めて、何かを待ち構えているようだった。
「……行くぞ」
僕は震える手で、離れの格子戸をこじ開けた。
古びた南京錠は、持ち出した金槌で叩くと呆気ないほど簡単に壊れた。その音が闇夜に響き渡り、心臓が口から飛び出しそうになる。
部屋の中には、純白の着物を着せられた紗夜が座っていた。
死装束を思わせる白無垢だ。綺麗に化粧を施され、人形のようにじっとしている。
「君を連れに来た。約束だろ」
僕が差し出した手を、紗夜はためらいがちに、けれどしっかりと握り返してきた。
冷たい。氷のような手だ。
この生温かい夏の夜に、彼女だけが生者の熱を奪われているみたいだった。
「ごめんね。……あなたを、巻き込んじゃう」
「いいから走ろう。国道まで出れば、警察だって何だって呼べる」
根拠のない自信だった。けれど、そう信じなければ足がすくんでしまいそうだった。
僕たちは履物を掴み、庭へと飛び出した。
竹林の中を走る。
枯葉を踏む音が、爆音のように耳に響く。
暗い。ライトをつければ見つかる。月明かりだけを頼りに、道なき道を進む。
――ガサッ。
背後で枝が折れる音がした。
振り返る余裕なんてない。僕たちはただ、手を繋いで泥だらけの斜面を駆け上がる。
紗夜の息が荒い。彼女の体力は限界に近い。それでも僕は、彼女の手を離せなかった。離したら最後、二度と掴めない気がしたからだ。
「はぁ、はぁ……っ、うそ、だろ……」
村外れの林道に出た瞬間、僕は絶望で足を止めた。
道が、塞がれていた。
丸太やバリケードではない。
人だ。
数十人の村人たちが、松明を手に、壁のように立ちふさがっていた。
誰一人、言葉を発しない。
怒号も、叫び声もない。ただ、揺らめく炎の向こうから、無数の瞳がじっと僕たちを見下ろしている。
「逃がしはせんぞ」
列の中から、低いしわがれた声が響いた。村長だ。
翁の面のような無表情な顔が、松明の灯りに照らされて浮かび上がる。
「その娘は、村の宝だ。穢れた外の世界へ渡すわけにはいかん」
「ふざけるな! 彼女は人間だ! あんたたちの道具じゃない!」
僕は叫んだ。喉が裂けそうなほどの大声で。
だが、村人たちはピクリとも動かない。まるで感情のない肉の壁だ。
彼らが一斉に、一歩を踏み出す。
ザッ。
乾いた足音が揃う。その異様な統制が、どんな暴力よりも恐ろしかった。
「……逃げて」
紗夜が僕の手を振りほどこうとする。
「捕まるのは私だけでいい。お願い、あなたは逃げて!」
「嫌だ! 絶対離さない!」
僕は彼女の手を強く握りしめ、後ずさる。
だが、背後は断崖絶壁だ。逃げ場はない。
その時だった。
ゴオオオオオオオオオオ……ッ!!
頭上から、鼓膜を圧迫するような重低音が響き渡った。
雷鳴? いや、違う。もっと継続的で、空気を切り裂くような轟音だ。
強烈な風が吹き荒れ、竹林が悲鳴を上げてしなる。
「な、なんだ……!?」
見上げると、夜空に「もう一つの月」が現れていた。
直視できないほどの、強烈な白い光。
それが天頂から僕たちを射抜く。
あまりの眩しさに、僕は目を焼かれたように視界を失った。
神様が降りてきたのか?
かぐや姫を迎えに、月の都から使いが来たのか?
そんな馬鹿げた思考が一瞬よぎるほど、その光景は圧倒的で、神々しく、そして暴力的だった。
「あぁ……見つかっちゃった」
光の中で、紗夜が虚ろに呟くのが聞こえた。
次の瞬間。
ドンッ、と鈍い衝撃が背中に走った。
「が、は……っ」
熱い。
背中が焼けるように熱い。
地面が近づいてくる。泥の味が口に広がる。
誰かに殴られたのか、斬られたのか。痛みよりも先に、体の力が急速に抜けていく感覚があった。
「――確保」
誰かの、事務的で冷たい声が聞こえた。
薄れゆく視界の端で、紗夜が村人たち――いや、黒い影のような男たちに取り押さえられているのが見えた。
彼女は暴れることもなく、ただ悲しげに、泥に沈んだ僕を見つめていた。
ごめんね
声にはならなかったけれど、彼女の唇がそう動いた気がした。
伸ばした僕の指先は、彼女の着物の裾にも届かない。
白い光が、世界を塗り潰していく。
意識が闇に溶ける寸前、僕は聞いた。
村長の声でも、紗夜の声でもない。もっと無機質な、電子のアナウンスのような響きを。
『――ターゲットの死亡を確認。』
それが、僕の「一度目の死」だった。
そして、終わらない悪夢の始まりだった。
次回予告:第5話「繰り返す8月1日」
激痛と共に目を覚ました僕。
そこは天国でも地獄でもなく、見覚えのあるバスの座席だった。
スマホの日付は「8月1日」。
夢か? それにしては、背中に走る幻痛があまりにも生々しい。
死の記憶を抱えたまま、僕は再びあの地獄の夏をやり直すことになる。




