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第2話:空へ還る日

あれから三日。僕は憑かれたように、あの離れへと通い詰めていた。

 スマホの日付は8月4日を示している。

 村は相変わらず、茹だるような暑さと湿気に閉ざされていた。

 父たちは「本家の寄り合い」だとか「お盆の準備」だとかで忙しく、僕の行動には無関心だった。それが好都合だった。大人の目が届かない隙間を縫って、僕は庭の奥へと足を運ぶ。

「……来てくれたんだ」

 格子戸の向こうで、紗夜が花がほころぶように笑った。

 その笑顔を見るだけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。それは恋なのか、それとも、囚われた少女に対する同情なのか。今の僕には区別がつかなかった。

「これ、買ってきたんだ」

 僕はポケットから、商店で埃を被っていたラムネの瓶を取り出した。

 冷やす場所がなくて生温かくなってしまったけれど、彼女に見せたかった。

「わあ……きれい。ガラス玉が入ってるの?」

「うん。飲み終わったら取り出せるよ。……開け方、わかる?」

「ううん。教えて」

 紗夜が格子の隙間から、白く細い手を差し出す。

 瓶を受け渡すとき、指先が触れ合った。

 ひやり、とした感触。

 外気は三十度を超えているというのに、彼女の指先だけが、まるで冷蔵庫から出したばかりの果物のように冷たい。

 彼女の手首には、あの日と同じ黒いバンドが巻かれている。スマートウォッチにも似ているが、画面も何もない無骨な樹脂の塊だ。

「これ、邪魔じゃないの?」

「これ? ……うん。でも、外すと叱られちゃうから」

 彼女は寂しげにバンドを撫でた。

 僕は彼女の手を取り、玉押しでラムネの栓を押し込む。

 

 プシュッ!

 炭酸の抜ける音が静寂を裂いた。

 その瞬間、紗夜がビクリと体を強張らせ、小さな悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

「ご、ごめん! 大丈夫?」

「……ごめんなさい。大きな音が、少し怖くて」

 彼女は震えながら立ち上がる。その顔色は、透き通るほど蒼白だった。

 ただの音だ。それなのに、まるで爆発音でも聞いたかのような怯え方だった。彼女はずっとこの狭い部屋に閉じ込められていて、世界の「音」を知らないのだろうか。

 シュワシュワと泡立つ瓶を、彼女は恐る恐る口に運ぶ。

 一口飲んで、目を丸くし、それからふわりと笑った。

「パチパチする。……おいしい」

 その無邪気な笑顔を見て、僕は衝動的に口を開いていた。

「ねえ、紗夜。ここから出ようよ」

 勢いのままに僕は言葉を継いだ。

「こんな暗い部屋じゃなくて、もっと広い場所へ。海だってあるし、山だってある。君に見せたい景色がたくさんあるんだ」

 それは、若さゆえの無責任な提案だった。

 けれど、紗夜は嬉しそうにするどころか、困ったように眉を下げて首を横に振った。

「無理よ。私には時間がないもの」

「時間?」

「うん。……あと十日」

 紗夜は視線を、格子の向こうの青空へと向けた。

「八月十五日。次の満月の夜に、私はお空へ還るの」

 かぐや姫。

 まただ。この村の人たちは、本気でそんな御伽噺を信じているのか?

 けれど、紗夜の声には狂信的な熱っぽさは微塵もない。ただ淡々と、決められたスケジュールを確認するような静けさがあった。

「還るって……実家に?」

「ううん。ここがお家。でも、お爺ちゃんとの約束なの」

 彼女はラムネの瓶を愛おしそうに抱きしめながら言った。

「十五歳になったら、私はお役目を果たさなきゃいけない。そのために、お爺ちゃんはずっと私を隠して、きれいに育ててくれたんだもの」

 ――きれいに育てた。

 その言葉に、背筋が粟立つような悪寒が走った。

 愛情を持って育てた、ではない。「きれいに」?

 それはまるで、出荷を待つ果実や、工芸品に対する言葉じゃないか。

「……おかしいよ、それ」

 僕は格子を掴んだ。

 頭の奥が、キーンと鳴る。

 強い日差しのせいだろうか。視界がぐにゃりと歪み、強烈な吐き気が込み上げてきた。

 脳が警告している。これ以上深く考えるな、と。この村のルールに口を出すな、と。

 それでも、僕は痛みをこらえて言葉を絞り出した。

「死ぬみたいに言わないでくれよ。十五歳だぞ。これからなんだってできるじゃないか!」

「死ぬんじゃないわ」

 紗夜は静かに僕を見つめ返した。その瞳の奥には、すべてを受け入れた聖女のような、あるいは人形のような虚無があった。

「一つになって、永遠に生きるの。……だから、悲しまないで」

 彼女の言葉の意味はわからなかった。

 けれど、直感が告げている。

 「空へ還る」なんて美しい表現で誤魔化されているけれど、そこで待っているのは、二度と戻れない絶対的な消失だ。

 村の大人たちが準備しているのは、祭りなんかじゃない。

 葬式だ。

 生きたままの彼女を送る、おぞましい儀式だ。

「僕が、助ける」

 汗か涙かわからないものが、頬を伝った。

「十五日の夜、迎えなんて来させない。僕が君を連れて逃げる」

 紗夜が目を見開く。

 彼女は何かを言いかけ――その時、遠くでヒグラシが鳴いた。

 カナカナカナ……という物悲しい響きが、夕暮れを連れてくる。

 西日が差し込み、紗夜の影を長く伸ばした。

 その影が、僕には一瞬、泥のようにドロドロと崩れて見えた。

 目をこする。ただの影だ。

 暑さで頭がどうにかなっているのかもしれない。

「……お願い」

 紗夜が、格子の隙間から僕の手を握り返してきた。

 その力は弱々しく、けれど必死だった。

「私を、連れて行って。……泥人形のまま終わりたくない」

 それは初めて彼女が口にした、運命への抵抗だった。

 八月十五日まで、あと十日あまり。

 僕たちの短すぎる夏は、終わりの予感と共に加速していく。

次回予告:第3話「監視者の視線」

紗夜を連れ出す決意を固めた主人公。

しかし、村の様子がおかしい。

道端のカーブミラー、家の窓ガラス、水たまり。

いたるところにある「反射するもの」が、常に主人公を監視しているような錯覚に陥る。

そして、記憶の蓋が開きかけ、主人公は見てはいけない「ある物」を目撃する――。

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