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第11話:泥だらけの傷跡

三度目のループは、時間と精神を削り取るタイムアタックだった。


 力ずくで運命を変えるなんて、もう微塵も思わない。

 このふざけた箱庭のルール――『五つの難題を自ら破壊する』という手順に、おとなしく従うしかないのだ。


 僕は走った。

 地蔵堂の『石の鉢』をハンマーで叩き割り、休む間もなく裏山の『玉の枝』をへし折った。


 あの青白い板を持った村長に見つかれば、またやり直しにされる。それだけは絶対に避けたかったからだ。


 強行突破の甲斐あって、スマホのリストには二つの打ち消し線が引かれた。

 だが、代償はあまりにも大きすぎた。


 8月3日の深夜。

 監視の目を盗んで座敷牢まで辿り着いた僕は、壁に背中を預けてうずくまっていた。

 二日連続で呪物を壊した脳のダメージは、完全に限界を超えている。


 チカチカと点滅する白い蛍光灯。こめかみに押し当てられる冷たい電極。ツンとした薬品の匂い。

 僕の過去には存在しないはずの「拷問の記憶」が、濁流のように頭に流れ込んでくる。


 おまけに腹部には、小刀でえぐられた強烈な幻痛がべったりと張り付いたままだ。


「……だれ?」


 格子の向こうから、鈴を転がしたような声がした。

 紗夜だ。薄暗い牢の中で、純白のワンピースを着た彼女が膝を抱えている。


「僕だよ……紗夜」


 震える声で答えると、彼女は小さく息を呑んだ。

 世界がリセットされた今、彼女にとっての僕は『数日前にラムネを教えてくれた余所者』でしかない。

「どうしたの? ひどい汗……すごく苦しそう」


 氷のように冷たい指先が格子の隙間から伸びてきて、僕の熱い額に触れた。

 そのひんやりとした感触に、張り詰めていた糸がふっと緩む。


「平気だ。君を、ここから連れ出す準備をしてるから」

「……連れ出す?」

「ああ。満月の夜に空へなんて還させない。村の結界は、僕が全部壊す」


 強がって笑ってみせたが、声はひどく掠れていた。

 だが紗夜は喜ぶどころか、悲しそうに眉を下げた。淡い瞳が、泥だらけで痛みに歪む僕の顔をじっと見つめている。


「だめよ。そんなことしたら、お爺ちゃんが怒るわ」


 村長。


 その単語を聞いた瞬間、腹の傷口がズキリと疼いた。

「あの老人は、君を化け物への生贄にしようとしてるんだぞ! あんな奴の言うことなんて……」

「違うの」


 紗夜は静かに、けれどきっぱりと首を横に振った。

「お爺ちゃんは、私を隠してくれたのよ。外の、悪い人たちから」

「……え?」

「外に出たら、私は怖い人たちに捕まっちゃう。だからお爺ちゃんは、私を守るためにここを安全な場所にしてくれたの。私がお空へ還るその日まで、ずっと」


 絶句した。

 彼女は、この座敷牢を「安全な場所」だと信じ込んでいるのか?

 僕が見たあの村長の目は、孫娘を愛する祖父の目なんかじゃなかった。感情のない、機械のような冷酷な瞳だ。


 ……この子は、完全に洗脳されている。

 何も知らされないまま、綺麗な籠の鳥として殺される日を待っているだけなんだ。


「……ねえ、もうやめて」

 紗夜が、僕の袖を弱々しく引いた。

「これ以上、村のものを壊しちゃだめ。あなたが壊れちゃう。それに……」


 彼女は言い淀み、ひどく苦しそうに視線を彷徨わせた。

「全部壊したら、一番大切なものが、なくなっちゃう気がするの」

 それは、ただの直感だったのかもしれない。

 でも僕には、彼女が村の呪いに怯えているようにしか見えなかった。


 自分の命が危ないのに、僕の体調を心配して理不尽なルールに従おうとする。それが、どうしようもなく痛ましかった。


(僕が、助け出すしかないんだ。目を覚まさせてやるんだ)

 格子の隙間から、彼女の細い指を強く握りしめる。

 どれだけ不可解でも、痛みに脳を焼かれようとも、これだけは譲れない。


「大丈夫だ。僕が君を守る。君が人間として生きられる場所へ、絶対に連れて行くから」

 僕の言葉に、紗夜は困ったように、けれど少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「変わってるね、あなた。……泥だらけで、ボロボロで、バカみたい」

 残る難題は、あと三つ。

 期限の8月15日まで、十二日。


 僕は腹の痛みを抱えたまま、暗い夜の底で、残りの呪物を壊す決意をさらに固くした。

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