第10話:抗う者への罰
「――こんな所で、何をしている」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
五メートル先の獣道。鬱蒼とした杉の影に、黒い着物姿の老人が立っていた。
村長だ。
落ち葉を踏む音など一切しなかった。いつからそこにいたのか。
老人の顔には怒りも驚きもない。ただ、光を反射しない黒曜石のような瞳が、僕の顔と、手に握られた金槌を機械的に見据えている。
喉が張り付き、言い訳すら出てこない。
逃げろ。本能が警鐘を鳴らす中、村長がゆっくりと懐に手を入れた。
取り出したのは、黒くて薄い板。スマートフォンより一回り大きく、表面がぼんやりと青白く発光している。
こんな山奥の因習村には似つかわしくない、ひどく不気味な異物。
(……こいつだ。こいつが、紗夜を閉じ込めている元凶だ)
危険な考えが頭をよぎった。
五つの呪物? そんなふざけたお使い、真面目にこなす必要なんてない。
ここでこの老人を殴り倒せば、あるいは人質に取れば。あの脳が焼き切れるような痛みに耐えずとも、鍵を奪って紗夜を救い出せる。
恐怖を、怒りと焦燥が塗り潰した。
僕は獣道を蹴り、一直線に村長へ突進した。
「紗夜を……返せッ!!」
老人の頭蓋めがけ、渾身の力で鉄の塊を振り下ろす。殺してしまうかもしれない。それでも構わなかった。
――ガシッ。
「……え?」
鈍い衝突音。僕の腕は空中でピタリと縫い止められていた。
村長が、振り下ろした金槌の柄を片手で掴んでいる。枯れ枝のように細い腕。なのに、万力のようにビクともしない。全体重を乗せた一撃が、まるで岩盤に吸い込まれたかのように無効化されていた。
人間じゃない。
理不尽な絶望が、冷水となって頭から浴びせられる。
「……手順が違う」
僕の一撃をあっさりと受け止めたまま、老人がポツリと呟いた。
青白く光る板へ視線を落とし、ただ感情のない声で告げる。
「穢れを持ったまま、定められた道を外れてはならん。やり直しだな」
背後の茂みがガサリと揺れた。
振り返る暇すらない。
――ドスッ。
「あ……が、はっ……」
腹部を、鋭利な熱が貫いた。
見下ろすと、黒い法被を着た村人の一人が、僕の腹に小刀を深々と突き立てている。
いつの間にか、生気のない目をした数人の村人たちが、音もなく僕を取り囲んでいた。
刃が引き抜かれると同時に、ごぼりと熱い液体が溢れ出す。
膝から崩れ落ち、金槌が手から滑り落ちた。
痛い。息ができない。傷口から急速に体温が奪われていく。
「土塊になれ。泥になれ」
村長が、わらべ歌の一節を口にした。
薄れゆく視界の中、青白く光る板を持った老人が、ひどく事務的な目つきで僕を見下ろしている。
泥の味がする。
急速に、意識が暗闇へと沈んでいった――。
「――ガハッ!?」
肺の空気をすべて吐き出す勢いで、僕は目を覚ました。
反射的に腹をかきむしる。熱い。痛い。小刀で臓器を切り裂かれた生々しい幻痛が残っている。
「はぁッ、はぁ……っ、ぁあ……!」
冷や汗が止まらない。
過呼吸になりながら周囲を見渡す。そこは適度に空調が効いた薄暗い空間だった。規則的なエンジン音。隣では母が寝息を立て、通路の向こうでは父が文庫本を読んでいる。
震える手でスマートフォンを取り出した。
画面の表示は、『8月1日 14:15』。
三度目の、最初の日。
僕はまた、死に戻ったのだ。
「……っ、う、ぅっ」
僕は膝に顔をうずめ、声を出さずに泣いた。
骨の髄まで理解してしまった。力ずくで運命を変えるなんて、絶対に不可能だ。
この箱庭は、ルールを破る者を決して許さない。
逃げ道はない。敵を倒すこともできない。
残された道は、たった一つ。
古文書の通り、脳が焼き切れるような痛みに耐えながら、五つの呪物を自らの手で壊すこと。
紗夜をあの檻から救い出すには、用意された正規の『手順』を踏むしか、絶対に道はないのだと。
バスがゆっくりと減速し、錆びた停留所に停まった。
むせ返るような真夏の熱気が、三度目の地獄の入り口として僕を待っていた。




