第1話:蝉時雨と、座敷牢の少女
脳が沸騰するような、酷い暑さだった。
視界の端がチカチカと点滅している。
それは降り注ぐ強烈な陽射しのせいなのか、それともバスを降りてから一時間以上も山道を歩き続けている疲労のせいなのか、僕には判断がつかなかった。
耳鳴りのようにまとわりつく、油蝉の絶叫。
アスファルトの照り返し――いや、違う。僕が今踏みしめているのは、ひび割れた乾いた土だ。
どうして僕は、ここがアスファルトだと錯覚したんだろう?
「……水分、取らなきゃな」
僕は額から滴る汗をぬぐい、スポーツドリンクのペットボトルを煽った。ぬるくなった液体が、喉を通り過ぎていく。
スマホを取り出してみるが、アンテナ表示は『圏外』のまま。画面の隅の日付は「8月1日」を示している。
高校二年の夏休み。
親戚の不幸か何かで、僕は両親に連れられ、父の故郷であるこの「竹神村」を訪れていた。
両親は先に村長の家へ挨拶に行っている。「お前は少し涼んでからおいで」と言われたものの、コンビニ一軒ないこの限界集落で、涼める場所などあるはずもなかった。
生い茂る木々のトンネルを抜けると、重苦しい空気を纏った屋敷が現れる。
村長――この村では「翁」と呼ばれている老人――の屋敷だ。
黒い瓦屋根に、高い塀。まるで城塞のような威圧感がある。
「ごめんください……」
開け放たれた門をくぐる。返事はない。
手入れの行き届いた日本庭園には、不自然なほどの静寂があった。先ほどまでうるさいほど鳴いていた蝉の声が、ここだけピタリと止んでいるような、そんな奇妙な感覚。
ふと、視線を感じた。
母屋の方ではない。庭の奥、鬱蒼とした竹林の手前に、ぽつんと建っている離れだ。
古びたお堂のようにも見えるその建物の格子窓から、何かが白く光って見えた。
吸い寄せられるように、僕は砂利を踏んで近づいた。
近づくにつれ、鼻をつく匂いが強くなる。線香の香りと、何か薬草を煮詰めたようなツンとする匂い。
格子の隙間から、暗い室内を覗き込む。
そこで僕は、息をするのも忘れた。
「――だれ?」
鈴を転がしたような、涼やかな声。
そこにいたのは、幽霊でも妖怪でもない。僕と同じくらいの年齢の、少女だった。
色素の薄い、透き通るような肌。
絹糸のような銀色の髪が、畳の上に広がっている。
彼女は純白のワンピースを着て、部屋の隅に膝を抱えて座っていた。その華奢な手首と足首には、場違いに無骨な、何かの計測器のような黒いバンドが巻かれている。
美しい、と思った。
汗と泥にまみれたこの現実の中で、彼女だけが切り取られた絵画のように、あまりにも清浄で、そして脆そうだったから。
「あ、えっと……今日から、お世話になる……」
僕がしどろもどろに答えると、少女は不思議そうに小首を傾げた。その瞳は、ガラス玉のように淡い色をしている。
「外の人? 珍しい」
「君は……この家の子?」
「ううん。私は、カゴの鳥」
彼女は悪戯っぽく、けれどどこか諦めたように微笑んだ。
立ち上がった彼女が、格子越しに僕を見上げる。
その距離、わずか数十センチ。漂ってくる薬の匂いが、彼女の体臭なのだと気づいて、僕は少し動揺した。
「ここから出してあげたい?」
僕の心を見透かすように、彼女が問う。
「……鍵、かかってるの?」
「物理的にはね。でも、本当の意味では出られないの。私はお月様のものだから」
意味がわからなかった。
けれど、彼女の儚げな表情が、冗談ではないと告げている。
この村には「かぐや姫」の伝承があるらしいと、来る車の中で父が言っていたのを思い出す。まさか、現代でそんな古い風習が生きて……?
ズキリ、とこめかみに鋭い痛みが走った。
熱中症だろうか。視界が一瞬、ノイズが走ったように歪む。
「君の名前、教えてよ」
痛みを堪えながら尋ねると、彼女は少し驚いた顔をして、それから恥ずかしそうに唇を動かした。
「……紗夜」
「僕は……」
「いいの。名前を聞くと、情が移るから」
紗夜はかぶりを振って、僕の言葉を遮った。そして、格子の隙間から細い指を伸ばし、僕の頬に触れる。
その指先は、夏の暑さを忘れさせるほど、氷のように冷たかった。
「逃げて」
彼女は囁く。
「ここは、泥の底よ。沈んでしまう前に、早く」
その時、母屋の方から怒声が響いた。
村長だ。
僕は弾かれたように振り返る。もう一度紗夜の方を見たときには、彼女はすでに部屋の奥の闇へと身を隠していた。
後に僕が知ることになる「8月15日」の地獄。
そのカウントダウンは、この時すでに始まっていたのだ。
僕の脳裏に、なぜか一度も聞いたことのないはずのわらべ歌が響いている。
――土塊になれ、泥になれ。
――赤き目は空から見てる。
それは警告だったのか、それとも僕の壊れかけた記憶が見せたノイズだったのか。
今の僕には、まだ知る由もなかった。
次回予告:第2話「空へ還る日」
村長の厳しい監視の目を盗み、再び紗夜の元へ通う主人公。
少しずつ心を通わせる二人だったが、紗夜は静かに、自らの「期限」を告げる。
「次の満月の夜、私は空へ還るの」
それは単なる比喩ではなく、村に伝わる恐ろしい儀式の予告だった――。




