第7話「先に動いたのは、向こうだった」
壬生の屯所に戻ると、近藤勇と土方歳三がすでに座敷で待っていた。
沖田総司が、寺と倉で見つけたことを短く報告する。
「寺は入口でした。札を書かされていた住職も、使われていただけです。
倉では札を量産していました。しかも、一枚や二枚じゃない」
土方の眉間の皺が深くなる。
「やっぱり、寺一つ潰して終わる話じゃねぇか」
リュシアンが地図を広げた。
「札は水路沿いに流れてる。寺、倉、人の多い辻。
しかも――」
指先が壬生の近くで止まる。
「次は、ここだ」
近藤が地図を見た。
「屯所の近くか」
「近くで騒ぎを起こせば十分です」
沖田が言う。
「町人も隊士も巻き込める。しかも、新選組の面子も潰せる」
土方が低く吐き捨てた。
「上等じゃねぇか」
近藤はすぐに決めた。
「今夜を待たない。先に動くぞ」
リュシアンが顔を上げる。
「待たないんだ」
「敵が次を決めてるなら、こちらも先回りする」
土方が立ち上がった。
「総司、斎藤、白髪。現場を押さえろ。
俺と近藤さんは町方と道を止める」
「了解」
沖田が頷く。
リュシアンは軽く肩を回した。
「ようやく、追いかけるだけじゃなくなるね」
夕方。
三人は壬生の南にある辻へ向かった。
昼は人通りが多い場所だが、日が傾くと一気に影が長くなる。
水路が近い。裏道も多い。逃げるにはちょうどいい。
斎藤が周囲を見ながら言う。
「静かすぎる」
沖田も同意した。
「人はいる。でも、喋らない」
実際、妙だった。
店は開いている。だが、客は少ない。
道を歩く町人も、誰も長く立ち止まらない。
リュシアンは鼻の奥を押さえた。
「……濃いな」
「ええ。昨日よりずっと濃い」
沖田が答える。
その時だった。
通りの向こうで、女の悲鳴が上がった。
「きゃあっ!」
三人が同時に走る。
辻の真ん中で、男が一人、木箱を蹴り飛ばしていた。
目は血走り、口元から泡が飛ぶ。
町人が距離を取り、子どもを抱えた女が壁際で震えている。
沖田が前に出る。
「下がってください!」
男は返事をしない。
代わりに近くの店先から包丁を掴み、無茶苦茶に振り回した。
斎藤が低く言う。
「一人じゃない」
次の瞬間、反対側でも怒鳴り声が上がる。
別の男が、通行人に掴みかかっていた。
さらに奥では、荷車を押していた若者が急に地面を蹴り、周囲を殴り始める。
リュシアンが舌打ちした。
「同時かよ」
沖田の顔から笑みが消えた。
「先に仕込まれてたんだ」
「敵に先回りされたってことだね」
「ええ」
考える時間はなかった。
最初の男が包丁を振り上げ、女へ向かう。
リュシアンの姿が消えた。
次の瞬間、包丁は男の手から弾き飛ばされていた。
男の首筋に指が入る。膝が落ちる。
「一人」
その背後で、若者が木材を振り回す。
沖田が踏み込み、手首を打つ。木材が落ちる。
「二人目」
斎藤は掴みかかっていた男を壁に押しつけ、腕を極めた。
だが、男は痛みを感じていないように暴れる。
「浅い。止まりきらん」
リュシアンがそちらへ飛ぶ。
男の胸元に、紙が貼られていた。
服の内側。見えにくい場所に、小さな黒い札。
「これか」
リュシアンは札を剥がした。
紙が破れ、黒い靄が一瞬だけ散る。
男の動きが鈍る。
そこへ斎藤が肘を落とし、完全に押さえ込んだ。
沖田が周囲を見た。
「服の内側です! 胸元か背中!」
暴れていた若者の襟元にも、同じ札があった。
沖田が迷わず剥がす。若者はその場に崩れた。
リュシアンが息を吐く。
「貼る場所、変えてきたな」
「見つかりにくくしたんでしょうね」
沖田が答えた。
その時、屋根の上で瓦が鳴った。
誰かがいる。
三人が同時に上を見る。
黒い着物の男が立っていた。
顔の下半分を布で隠し、こちらを見下ろしている。
男は笑った。
「間に合ったか。思ったより早いな、剣聖」
リュシアンの目が細くなる。
「お前か」
男は答えない。
代わりに袖の中から札を三枚取り出し、空へ放った。
札が風に乗る。
落ちた先は、辻の端にいた町人たちの足元だ。
「まずい!」
沖田が叫ぶ。
だが、男の狙いはそれだけじゃなかった。
屋根の上の男は、さらに言った。
「今日は挨拶だ。
次は壬生で会おう」
言い終わる前に、男は屋根の向こうへ消えた。
リュシアンが追おうとした瞬間、地上で札が弾けた。
黒い靄が、地面すれすれを這う。
近くにいた町人二人が喉を押さえて膝をつく。
一人は目を見開き、もう一人は歯を食いしばる。
「リュシアン!」
沖田の声で、リュシアンは追跡を切った。
「分かってる!」
男を追うより、まずここだ。
リュシアンは札を踏み潰す。
沖田が倒れた町人の肩を押さえ、呼吸を整える。
斎藤は残る一人を壁際へ引きずり、発作の動きを封じた。
数十秒。
だが、体感ではもっと長い。
ようやく二人の呼吸が落ち着いた頃には、屋根の上の男は完全に消えていた。
沖田が低く言う。
「やられましたね」
リュシアンは札の残骸を拾った。
「うん。
作業場を見つけた時点で、向こうは次の手を打ってた」
斎藤が周囲を見回す。
「顔を見られても平気な動きだ。末端ではない」
沖田が頷く。
「しかも、壬生を名指しした」
「次はもっと大きく来る」
リュシアンが言った。
辻の騒ぎは、ようやく収まりつつあった。
だが、人々の顔から色は消えている。
女が震える声で言った。
「今の……何だったんです……」
沖田は答えない。
答えられない。
代わりに、新選組の隊士が遅れて駆けつけ、人垣を下げ始める。
リュシアンは屋根の上を見た。
もう誰もいない。
「“次は壬生で会おう”か」
沖田が隣に並ぶ。
「宣戦布告ですね」
「嫌なタイプのね」
斎藤が短く言った。
「戻るぞ。近藤さんたちに報告だ」
屯所に戻ると、土方が最初に立ち上がった。
「どうなった」
沖田が簡潔に告げる。
「複数同時発症です。札は服の内側に貼られていました。
しかも、屋根の上から指示を出す男がいた」
近藤の表情が変わる。
「指示を?」
リュシアンが答えた。
「いた。少なくとも、札を配るだけの雑魚じゃない。
こっちを見てたし、壬生を狙うって言って消えた」
土方が拳を握る。
「舐めやがって」
斎藤が続ける。
「末端ではない。次はもっと大きい」
近藤はしばらく黙り、やがて言った。
「分かった。
明日から壬生周辺の見回りを倍にする。
表も裏も固める」
土方がすぐに引き継ぐ。
「隊士を分ける。門、辻、水路、寺。全部押さえる。
札を見つけたら、その場で剥がせ。触るな。布ごと持ち帰れ」
リュシアンが小さく笑う。
「ようやく戦争っぽくなってきた」
「これは治安維持だ」
土方が睨む。
「戦争にしたいなら、お前だけ外でやれ」
「はいはい」
沖田がその間に入る。
「でも、副長。
向こうが壬生を口にした以上、受けるだけじゃ足りません」
近藤が頷いた。
「明日、こちらも仕掛ける」
リュシアンが目を上げた。
「待ち伏せ?」
「そうだ」
近藤の声は静かだったが、迷いはなかった。
「来るなら、壬生で終わらせる」
その夜。
壬生から少し離れた水路の脇で、黒い墨を指につけた男が、戸口に札を貼っていた。
その横に、昼に屋根の上にいた男が立つ。
「剣が予想より早かった」
札を貼る男が答える。
「だが、壬生は揺れる」
「揺らすだけでは足りん」
屋根の上の男は、暗い水面を見た。
「次は中を割る」
札が夜風に揺れた。
黒い線が、ゆっくり紙の中で広がっていく。




