第6話「黒い札、壬生狼の仕事」
壬生の屯所は、朝から落ち着きがなかった。
廊下を隊士が小走りに行き来し、庭では木刀の音が途切れず鳴る。
縁側で湯飲みを回していたリュシアンは、忙しない空気だけを受け取って、口の端を上げた。
「……今日は妙に騒がしいな」
そこへ土方歳三が来る。眉間の皺はいつも通り深い。
「白髪の。出るぞ」
「呼び方、それで定着したの?」
「覚えやすい」
「“覚える気がない”の間違えだよね」
土方は返さず、顎で奥を示した。
「近藤さんが待ってる。総司も来る」
座敷には近藤勇、沖田総司、そして斎藤一がいた。
斎藤は壁際に立ったまま、空気を薄くするようにそこにいる。
近藤が切り出す。
「今朝、町方から話が来た。昨夜から“行方不明”が増えている」
土方が続けた。
「壬生の外れ、炭問屋の裏手だ。夜に人が消える。戻ってきても記憶が抜けてる奴がいる」
リュシアンは湯飲みを置いた。
「……記憶が飛ぶ。戻る。暴走の前触れは?」
「ある」近藤が頷く。「怒鳴る、物に当たる、目が据わる。周囲が“別人みたいだ”と言う」
土方が短く吐き捨てる。
「前と同じだ」
リュシアンは小さく息を吐いた。
「同じなら、やることも同じ。原因を掴む」
近藤の目が細くなる。
「君は“変質”の対処を知っている。だから頼む。今日の動き方を、まず君の考えを聞かせてくれ」
「決めるのは俺だ」土方が割り込む。
沖田が軽く手を挙げた。
「副長。今回は“聞き役”が必要です。町の人は、新選組が出るだけで口が固くなります」
土方は舌打ちしかけて、飲み込んだ。
近藤がまとめる。
「よし。総司、斎藤、リュシアン。三人で現場へ。俺と土方は別口で話を取る」
土方の声が釘になる。
「勝手に斬るな。勝手に消えるな。勝手に町を荒らすな」
「三つも?」
「四つ目が欲しいか」
「いえ、十分です」
昼過ぎ。三人は壬生を出た。
沖田が先頭、斎藤が少し後ろ。リュシアンは町の空気を読むように歩いた。
人は多いのに、目が合わない。視線は逸れ、歩幅は縮み、子どもは母親の背に隠れる。
リュシアンが小声で言う。
「新選組って……嫌われてる?」
沖田は笑った。
「嫌われてるというより、怖がられてます。武装集団ですから」
「守ってるのに怖がられるって、損な役回りだな」
「京都では、嫌な役が多いです」
斎藤が淡々と挟む。
「喋るな。見ろ」
前方に小さな人だかりがあった。
炭問屋の裏手。細い路地。半開きの木戸の奥に、暗い通路が伸びている。
沖田が足を止めた。
「……ここです」
路地の入口に町方の役人が立っていた。沖田に気づくと、小さく頭を下げる。
「沖田さん。こちらです」
役人は声を落として言う。
「昨夜、荷運びの男がここで消えました。今朝、ふらりと戻ったんですが……記憶が抜けてます。熱もある」
「本人は?」
「奥の納屋に。怖がって動けません」
沖田がリュシアンを見る。
「観察から。暴れたら止める。殺さない」
「了解」
斎藤が一言で締めた。
「入る」
納屋は狭く、藁と湿った木の匂いがする。
奥に男が座り込んでいた。腕に擦り傷、頬が赤い。目の焦点が泳いでいる。
「……来るな……」
沖田は距離を保ったまましゃがんだ。
「大丈夫。話を聞きたいだけです。昨夜、何があった?」
男は首を振る。
「……分からねぇ。気づいたら……ここに……」
リュシアンは男の指先に目を止めた。黒い汚れ。炭の粉にしては粘りがある。
「手、何か触った?」
男の喉が鳴る。
「……札……黒い札……戸に……貼ってあった……」
沖田の瞳が一段鋭くなる。
「誰が貼った?」
「知らねぇ……でも……夜に……見た……」
男が言葉を継ごうとした瞬間、顔が硬直した。肩が震え、歯を食いしばる。
斎藤が半歩前へ出る。
「来る」
男の瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。
次の瞬間、男が跳ねた。距離を詰める速さが常人ではない。
沖田が身を引き、斎藤が腕を掴みにいく。だが、男の力が異様に強い。
「……っ!」
振りほどかれた斎藤の腕が弾かれ、男は沖田へ突っ込む。
リュシアンは迷わなかった。背後へ回り、首の付け根を指で叩く。
「止まれ」
男から力が抜け、膝が落ちる。倒れる前に沖田が支えた。
沖田は男の顔を確かめ、短く息を吐く。
「……まだ浅い。完全には“変わってない”」
床に紙片が落ちていた。リュシアンが拾い上げる。黒い札の欠片。
見た目は和紙だが、繊維が硬い。墨が染みているのに、どこか“染み方”が不自然だった。
「これ、普通の札じゃない」
斎藤が鼻先だけ動かす。
「匂う」
沖田も頷く。
「薄いけど、嫌な匂い」
リュシアンが札を指で擦ると、指先がじわりと熱を持った。肌が拒む感覚。
「……札の形を借りてるだけ。中身は別物だ」
役人から炭問屋の主人を呼んでもらう。
主人は五十すぎの男で、目の下が落ち、手が小刻みに震えていた。
沖田が落ち着いた声で尋ねる。
「札は、いつから。どこに貼られていました?」
「裏の木戸だ……二日前から。剥がしても翌朝また貼ってある……」
「貼ってるところを見ましたか」
主人が頷く。
「影みてぇな奴だ。背が高くて、顔が見えねぇ。袖が……長い」
リュシアンが訊く。
「どこから来た。路地? 屋根? 井戸?」
「……川だ。炭を運ぶ水路がある。そこから……」
沖田が間を詰める。
「札を書くための墨や紙を、最近“寺”へ流しませんでしたか」
主人の顔色が変わった。
「し、知らねぇ!」
沖田は声を荒げない。
「質問を変えます。最近、墨を買いに来た坊主はいませんか。黒い墨、変な匂いのするもの」
主人は目を泳がせ、やっと吐き出した。
「……近くの小さい寺だ。坊主が……“札を書く”って……黒い墨を買いに……」
リュシアンと沖田が視線を交わす。
斎藤が低く言った。
「寺は“入口”になりやすい」
「使われてる可能性もある」リュシアンが頷く。「だから確認する。斬らずにね」
寺は小さい。門は古く、境内は不自然に静かだった。鐘の音も、人の気配も薄い。
沖田が門を叩く。
「新選組です。住職に会いたい」
やがて若い僧が出てきた。顔色が悪い。
沖田が札の欠片を見せる。
「これを知っていますか」
僧の目が揺れた。知っている。だが言えない。
リュシアンが一歩前に出る。
「隠すと死人が出る」
僧は喉を鳴らし、震える声で答えた。
「……書きました。住職の命で。“病除け”だと……」
「墨はどこから」
「……夜に男が来ました。顔が白くて……目が変で……『これで書け』と置いていった」
沖田が確認する。
「住職は?」
「昨夜から奥に籠って……誰にも会いません……」
斎藤が境内を見回し、言う。
「匂いが濃い。奥だ」
呼吸が乾く。耳の奥が鈍く痛む。
リュシアンも確信する。
「……いるな」
本堂の奥。住職の部屋。戸の内側から紙を擦る音が続いていた。
沖田が声をかける。
「住職。新選組です。戸を開けてください」
返事はない。紙を裂く音だけが増える。
斎藤が足を構えた。
「破る」
沖田が頷く。
斎藤の蹴りで戸が割れた。
瞬間、墨の臭いが押し寄せる。
部屋の中。床に札が散り、住職の手は真っ黒だった。
目は開いているが焦点が合っていない。
「……足りぬ……札が……もっと……」
沖田が低く言う。
「やめてください。あなた、操られてる」
住職が笑った。喉の奥から漏れる、乾いた笑い。
次の瞬間、住職が跳ねた。沖田へ突っ込む。速い。
沖田が半身で外し、斎藤が足を払う。しかし倒れない。
リュシアンが踏み込み、手刀で手首を打つ。紙束が落ち、札が舞う。
住職が叫ぶ。
「……影が……来る……! 角が……!」
リュシアンは首筋の要点を探る。だが浅い相手と違い、“芯”がしぶとい。
沖田が問う。
「止められますか」
「止める。……少し時間が要る」
斎藤が即答した。
「時間は作る」
斎藤は最短の動きだけで住職の突進線を潰し、沖田は転倒を防ぐように回して距離を奪う。
リュシアンは二度、狙いを変えて叩き、最後に胸元を掌で押し込んだ。
住職の体が一瞬硬直し、次に力が抜ける。膝が落ちた。
「……私は……何を……」
沖田が水を渡す。
「誰が来た。どこから」
住職は震える声で言った。
「……夜……川……水路……黒い墨……断ったら……耳元で……『京を変えろ』と……」
リュシアンは床に散った札を拾い、裏を見る。
薄い線が、文字とは別の形で走っている。書いた本人の意思ではない“印”。
「……書かされてる。札に見せかけた“印”だ。人を引っ張る仕掛け」
沖田の声が落ちる。
「“病除け”じゃない」
「うん。寄せて、落とす」
斎藤が窓の外を見た。
「川の方。動いた」
寺を出ると、境内の外に人影が走った。黒い衣。顔は見えない。水路へ消える。
「追います」沖田が言う。
「斎藤さん、回り込める?」リュシアンが問う。
斎藤は返事をせず、もう走っていた。
水路は細い。板橋がかかり、両脇は民家の裏。
人影は角を曲がり、倉の前で止まった。
倉の戸には黒い札が何枚も貼られている。中央に墨が溜まり、まだ乾いていない。
人影が振り返った。薄い笑い声。
「……剣が来たか」
声は男。だが喉の鳴りが、人間のそれではない。
人影が札に手を当てる。空気が変わった。
「それ、触るな」
間に合わない。
札から黒い靄が噴き、男の腕に絡みついて筋肉を吊り上げる。
沖田が言う。
「来る」
男が飛びかかる。角度が読めない。技ではない、暴力の速さだけ。
リュシアンは刀を抜かず、鞘で受けた。衝撃が腕に走る。重い。
沖田が脇から入り、足を狙う。男は跳ねて戻り、札へ手を伸ばそうとする。
そこへ斎藤が背後から入った。関節を極め、動きを止める。
「……離せ……!」
リュシアンが首元を叩く。止まらない。靄が“支え”になっている。
(本体はこっちじゃない。札だ)
リュシアンは狙いを変え、鞘で札の中心を強く叩いた。
紙が裂け、黒い靄が散る。
男の体が揺らぎ、動きが鈍る。
「今です」沖田が低く言う。
斎藤が押さえ込み、リュシアンが胸元を掌で落とす。呼吸が沈み、男から力が抜けた。
男は口元だけ歪めて笑った。
「……遅い……もう、京は――」
言葉が途切れる。黒い液が口元に滲み、男は気を失った。
沖田が札の残骸を拾う。
「倉全体に貼ってあります」
斎藤が戸を調べた。
「中に、人がいる」
リュシアンが戸を開ける。
中には縛られた男が二人。口に布、目は赤く、息が荒い。
沖田が布を外し、縄を切る。
「……助かった……」
男の一人が震える声で言う。
「黒い札を……見たら……頭の中で……誰かが笑った……それで……足が……勝手に……」
リュシアンは札の破片を握り、視線を水路の暗がりへ向けた。
「……“札”は入口。笑い声は、もっと奥だ」
沖田が小さく頷く。
「この規模、個人じゃない。京全体を“下地”にしてる」
斎藤が静かに告げる。
「次が来る」
その言葉を裏づけるように、遠くで犬が吠え、町のざわめきが一段低くなった。
風が冷たく、喉が乾く。
リュシアンは笑うでもなく、淡々と言った。
「……ようやく“仕事”らしくなってきたね。壬生狼さん」
黒い札は破れた。だが――
京のどこかで、同じ“印”が、今も貼られている。




