第5話「京に沈む影、剣を抜かぬ理由」
京の町は、今日も平然と息をしていた。
商人は声を張り上げ、子どもは走り、旅人は道を尋ねる。
だが――リュシアンの目には、それらすべてが薄い靄の向こう側にあるように見えていた。
「……やっぱり、あちこちにあるな」
壬生を離れ、沖田と並んで歩く昼下がり。
人の往来が多い通りほど、空気が“重い”。
沖田は静かに頷いた。
「ええ。人が集まる場所ほど、澱みやすい。 感情も、恐れも、怒りも……全部」
「魔王の残滓ってやつは、感情を喰う」
リュシアンの言葉に、沖田は一瞬だけ視線を伏せた。
「……やっぱり、君の世界でも同じなんですね」
肯定も否定もしない沈黙。
だが、二人の間にはもう“共有された前提”があった。
通りの角で、老婆が座り込んでいた。
「最近、夜になると……」 「息子が、知らない声で喋るんです」
話を聞く沖田の表情は、いつもの柔らかさのまま変わらない。
だが、その瞳は剣士のものだった。
「暴れたりは?」
「いいえ……ただ、夢の中で、何かと話しているようで……」
沖田は小さく息を吐く。
「……初期段階ですね」
「斬る必要は?」
リュシアンが低く問う。
「まだ、ありません」
即答だった。
「今は“侵食”してるだけ。 ここで刺激すると、逆に噴き出します」
リュシアンは感心したように口笛を吹いた。
「冷静だね。剣士ってより……医者みたいだ」
「斬るのは簡単ですから」
沖田は淡く笑う。
「難しいのは、“斬らない判断”ですよ」
夕刻、屯所へ戻る。
土方が腕を組んで待っていた。
「……どうだった」
「斬る案件じゃありません」
沖田が答える。
「今は、数を減らすより、流れを読むべきです」
土方は舌打ちしそうになり、それを堪えた。
「俺たちは狼だ。噛む時を逃すな」
「だからこそ、今は牙を隠すんです」
近藤が静かに口を挟んだ。
「二人の判断を信じる。 京を守るのは、斬ることだけじゃない」
土方は何も言わなかった。
だが、反対もしなかった。
夜。
縁側に並び、月を見る。
風が、どこか冷たい。
「……聞かないんだね」
沖田がぽつりと言った。
「何を?」
「僕が、どうして“魔素の匂い”を知っているか」
リュシアンは少し考え、肩をすくめた。
「今は、聞かない方がいい気がする」
沖田はくすっと笑った。
「正解です。 知ると、戻れなくなる」
沈黙。
だが、不思議と重くはなかった。
「俺はさ」
リュシアンが空を見上げたまま言う。
「剣聖だった。前の世界で」
沖田は驚かない。
「はい」
「で、君は……」
そこで言葉を止める。
沖田は月明かりの中で、ただ微笑んだ。
「まだ、沖田総司ですよ」
その夜。
京の外れで、ひとつの“結び目”が静かに解けた。
誰も気づかない。
血も流れない。
だが確実に――
何かが、次の段階へ進み始めていた。
異世界の剣は、まだ抜かれない。
だが、抜かぬ理由は、すでに決まっていた。




