第三話:煤と獣
どれくらい眠ったのか、レンには分からなかった。 霧の世界には朝も夜もない。目を開けても、そこにあるのは変わらず白く淀んだ闇だけだ。 スラムの寝床で感じた、朝の冷気や、昼の喧騒、夜の静けさ。そういった「時間」の目印がここには一切なかった。
「……」
体を起こすと、契約の代償である虚脱感が、重い泥のように全身にまとわりついていた。 眠っても疲労は取れていない。むしろ、体の芯が冷え切っている。 最後の黒パンは昨夜食べた。空腹が、冷えた体に鞭を打つ。
『起きたか、小娘』
胸元で抱いていたランタンから、フェンガーリの声が響いた。 ヒビの入ったガラスが、ぼんやりと蒼白い光を放っている。 この光だけが、この世界で唯一の色だった。
「ああ」
レンは短く答え、毛布を畳んで背負う。 金袋を確かめる。ナイフを確かめる。そして、フェンガーリを腰のベルトにしっかりと固定する。 スラムで身につけた、出発前の習慣。
『体調はどうだ。まだ動けるか』
「問題ない」
レンは嘘をついた。 足が鉛のように重い。だが、スラムでは「弱音」は「死」を意味した。 この口の悪い精霊が、弱った「運び手」をどう判断するか分からない。 動けると示さなければ、見捨てられるかもしれない。
『フン。威勢だけはいい。……まあ、契約したてだ、そんなものか』
フェンガーリはレンの嘘を見抜いているようだったが、それ以上は追及しなかった。
『行くぞ。オルドは東だ。この岩場から、まずは尾根に出る』
ランタンの光が、進むべき方向をわずかに強く照らし出す。 レンは無言で一歩を踏み出した。
ぬかるんだ土と、霧に濡れて滑る岩。 スラムの乾いた瓦礫や石畳とは、感触が全く違う。 レンは、スラムで培ったパルクールの技術――体重移動とバランス感覚を総動員して、不安定な足場を進んだ。 一歩一歩が、体力を奪っていく。
「……フェンガーリ」
しばらく無言で歩き続けた後、レンは口を開いた。
「オルドまで、どれくらいかかる」
『さあな。お前のその貧弱な足で歩いて、どれほどかかるか。霧の中では時間も距離もあてにならん』
「『霧の道』は使わないのか」
レンは尋ねた。スラムの噂では、オルドへ続く道があるはずだった。
『フン。お前たちの言う「霧の道」など、その程度のものよ』
フェンガーリは、馬鹿にしたように言った。
『霧には「濃淡」がある。何らかの理由で霧が薄い場所、魔物が出にくい場所。そういう場所を、命知らずの連中が繋ぎ合わせて、そう呼んでいるだけだ』
『だが、そんな道も、我が「灯」のような絶対的な導きがなければ意味をなさん。霧は常に動いている。昨日の道が、今日もあるとは限らん。お前の知る「帰ってこなかったヤツ」らは、その変動に巻きこまれて死んだだけよ』
「……」
レンは、スラムで霧の道に消えていった者たちの最期を想像した。
『だが、我らは違う。我がこの「灯」で霧の「流れ」を読み、魔物の気配を察知する。道があろうがなかろうが、我らが進む場所が「道」になる』
その時、フェンガーリの声が止まった。
『止まれ』
レンは即座に足を止め、周囲を警戒する。 また魔物か。
『いや……下だ』
フェンガーリの光が、足元を照らす。 レンが立っていたのは、岩場の端だった。 その先は、白い霧が渦巻く、底の見えない崖になっていた。
「……」
一歩間違えれば、落ちていた。 霧の中では、数メートル先が崖になっていても気づかない。
『フン。言ったそばからこれだ。我が「目」がなければ、お前はとうに死んでいるぞ、小娘』
「……どうする。迂回するのか」
『いや、それでは時間がかかりすぎる。お前のその虚脱感では、長く霧の中にいればいるほど不利になる』
フェンガーリの光が、崖の対岸を照らそうとする。 だが、光は霧に阻まれ、対岸がどれだけ離れているのか分からない。
『向こう側に渡る。……あれが見えるか』
光が、崖の少し下を指した。 そこには、古い石造りの「何か」が、霧の中から突き出ているのが見えた。 アーチ型の、橋の残骸のようだった。 はるか昔、霧に沈む前に作られた文明の跡。
『あれを渡る。お前の「運び屋」とやらの技術、見せてもらうぞ』
「……やってみる」
レンはナイフをしまい、両手をフリーにした。 崖を慎重に下り、崩れかけた石の橋の残骸に足をかける。 霧の湿気で、石の表面は滑りやすい苔で覆われていた。
「フェンガーリ、光を頼む」
『言われずとも。足元だけを照らす。余計な光は「何か」を呼ぶ』
ランタンの光が、レンの足元、半径一メートルだけを蒼白く照らし出す。 一歩、また一歩。 スラムで壁を登っていた時よりも、何倍も神経を使う。 風が霧を動かし、時折、真下の奈落が霧の切れ間から見えそうになり、眩暈がした。
(スラムと同じだ)
レンは自分に言い聞かせた。 落ちれば死ぬ。ただ、それだけだ。
『……待て。その先の石、脆いぞ』
フェンガーリが警告する。 レンは言われた通り、右足にかけようとしていた体重を戻し、左側のわずかな突起に足をかけ直した。 レンが避けた右側の石が、レンの動きの風圧だけで、音もなく崩れ落ち、霧の底へと消えていった。
「……助かる」
『フフ。言ったはずだ。私はお前の「目」だと』
レンは汗を拭う余裕もなく、ただひたすらに、フェンガーリの指示と自分の感覚を頼りに、崩れた橋を渡っていく。 それは、レンの「技術」とフェンガーリの「感知能力」が組み合わさって、初めて可能になる綱渡りだった。
どれほどの時間が経ったか。 ようやく対岸の岩場に足をかけた時、レンは崩れるようにその場に座り込んだ。 虚脱感と、極度の緊張。 体中の水分が、汗として出た気がした。
『フン。まあ、及第点か。小娘にしては、上出来だ』
「……うるさい」
レンは荒い息を整えながら、懐を探った。 空腹が、限界に近かった。 だが、黒パンはもうない。
「フェンガーリ」
『何だ』
「腹が、減った」
レンは、スラムの子供がギブスに食べ物をねだる時のような、自分でも嫌になる声が出たのを感じた。 だが、これは生理的な限界だった。 この虚脱感に空腹が加われば、本当に動けなくなる。
『……フン。だから脆弱な肉体は面倒なのだ』
フェンガーリはうんざりしたように言った。
『私は食事など不要だがな。お前が動かねば、我が「足」が止まる。それは困る。この霧の中では、まともな食い物はない。霧は生命を蝕む。お前たちが「作物」と呼ぶものは、ここでは育たん』
「……」
絶望的な言葉だった。 金袋の銀貨は、ここでは石ころ以下の価値しかない。
『だが、霧に適応したモノもある。……そこを動くな』
フェンガーリの光が、レンが座っている岩場の周囲を照らし始めた。 蒼い光が、岩の隙間、湿った苔を舐めるように動く。
『……あったぞ。あれだ』
光が、岩の裂け目に生えている、白く濁ったキノコのようなものを照らした。 それは、レンがスラムで見たどのキノコとも違っていた。半透明で、ゼリーのように震えている。
「……これ、か」
レンはナイフでそれを切り取り、恐る恐る鼻に近づけた。 匂いはない。ただ、霧の湿った匂いがするだけだ。
『霧キノコだ。毒はない。魔力もほとんど含んでおらん。……ただし』
「ただし?」
『不味いぞ。泥を食う方がマシだ』
「……」
レンは、その白いゼリー状の物体を、意を決して口に放り込んだ。 ブニ、とした食感。 味は、なかった。 フェンガーリの言う通り、湿った泥を噛んでいるようだった。 だが、レンはそれを必死に飲み込んだ。 胃が、わずかながら満たされる感覚。
「……まだ、あるか」
『その周辺にいくつか生えている。食えるだけ食っておけ。次の食料がいつ見つかるか分からんぞ』
レンは夢中で、泥の味しかしないキノコを口に詰め込んだ。 生きるためだ。スラムで腐りかけの残飯を漁った時に比べれば、ずっとマシだった。
「……フェンガーリ」
少しだけ空腹が満たされ、人心地がついたレンは、ランタンに問いかけた。
「お前は、何だ。なぜ、あの箱にいた」
『……小娘が、知る必要のないことだ』
フェンガーリの声が、急に冷たくなった。 地雷を踏んだ、とレンは感じた。
「そうか」
レンはそれ以上、追及しなかった。 スラムのルールだ。他人の過去に、深入りしない。
『……』
しばらく沈黙が続いた。 レンが立ち上がろうとした時、フェンガーリが、吐き捨てるように言った。
『古い話だ。……私は、戦いに敗れた』
「戦い?」
『そうだ。お前たち人間が「神話」と呼ぶような、はるか昔の戦だ。私は敗れ、勝者どもによって、あの忌々しい箱に「力」と「意識」を分割して封印された』
『あのガイアの魔術師どもは、恐らく、私を封印した連中の、出来損ないの末裔だろうよ』
フェンガーリの声には、煮え滾るような憎悪が込められていた。
『連中は、私を「力」として利用しようと、あの屋敷に「ブツ」として保管していた。だが、お前が、あの魔術師の魔術ごと箱を破壊した』
『おかげで私は、不完全ながらも解放された。このボロ宿に引っ越す羽目にはなったがな』
「……」
レンは、自分がとんでもないモノを「運んで」いるのだと、改めて実感した。 これは、ただの精霊ではない。 古代の戦争の敗残者であり、復讐者だ。
「……私に、何をさせる気だ」
『お前は「運び手」だ。ただ、私を運べばいい。お前の望みは何だ。あの煤けた街に戻りたいか?』
「……いや」
レンは即答した。
「戻る場所は、もうない」
『ならば、行け。オルドには、ガイアとは違う「モノ」がある。情報も、食料も、あるいは金になる仕事もな。お前にも利はあるはずだ』
レンは立ち上がった。 虚脱感はまだある。だが、泥キノコのおかげで、足に力が戻っていた。
「行こう」
どちらにせよ、進むしかなかった。 スラムから霧へ。 泥から、さらに濃い泥へ。 だが、今は、この蒼白い「灯」がある。
レンが再び一歩を踏み出した、その時だった。
霧の奥深くから、音が聞こえた。 「キィ、キィ」という、昨夜の「霧の這う者」の音ではない。
――ウォォォォン……
低く、腹に響くような、遠吠え。
「!」
レンがナイフに手をかける。 フェンガーリの蒼い光が、一瞬、強く明滅した。
『……面倒な』
フェンガーリの声から、いつもの皮肉が消え、純粋な警戒が滲んでいた。
『あれは「霧の這う者」ではない。……「霧の猟犬」だ』 『まずいぞ、小娘。あれは「音」や「残滓」ではない。「匂い」で狩りをする。……そして、お前の「生命」の匂いを、嗅ぎつけた』
ウォォォォン!
遠吠えが、さっきよりも近くなった。 霧の向こうで、複数の巨大な影が、こちらへ向かってくる気配がした。
『走れ、運び手!』
フェンガーリが叫んだ。
『今すぐ走れ!喰われるぞ!』




