第二話:煤と霧
白い闇だった。 一歩踏み出した先は、壁の内側ともスラムとも違う、絶対的な静寂と濃密な湿気が支配する世界。 レンは霧の中へと駆け込んだ。
「はっ……はっ……!」
背後で、警備兵の怒声と松明の明かりが急速に遠ざかっていく。 霧が音も光もすべて飲み込み、分厚い壁のようにスラムとレンを隔てていく。 もう、戻れない。 いや、戻る場所など、最初からなかった。
(見えない……!)
数歩先どころか、自分の手さえも白く霞む。 方向感覚が狂っていく。スAmの入り組んだ迷路とは質の違う、天地さえ曖昧になるような絶対的な「無」。 これが、スラムの老人たちが「入れば二度と戻れない」と恐れていた「霧の海」。 足元は瓦礫から、ぬかるんだ土へと変わっていた。
『フン。うろたえるな、小娘』
腰のランタンから、フェンガーリの尊大で皮肉っぽい声が頭に響いた。 その声だけが、この白い虚無の中で唯一の現実感だった。 同時に、レンが握りしめていたブリキのランタンが、その役目を思い出したかのように熱を持った。 ヒビの入ったガラスの隙間から、蒼白い光が放たれる。
『我が「灯」が道だ。これさえ見失わねば、霧ごときに迷うことはない』
光はせいぜい半径数メートルしか届かない。 だが、その光が照らし出す、白く淀んだ霧の粒子だけが、今のレンが唯一頼れる「道」だった。 レンはランタンを腰から外し、前方に掲げるように握り直した。
「……追手は」
レンは息を整えながら、背後を振り返らずに尋ねた。 あの魔術師が霧の中まで追ってくる可能性も考えなければならない。
『とうに来ておらん。馬鹿どもめ、霧を恐れて引き返したわ。あの魔術師もだ』
フェンガーリは愉快そうに言った。
『あの箱――我が寝床を壊されたのは想定外だったようだが、霧の危険と天秤にかけて、お前というネズミ一匹を追うのを諦めたらしい。それよりも、あの街の「匂い」を早く断ち切らねばならん。お前が負った呪詛の残り香と、我が力の解放の残滓が、厄介なモノを呼び寄せる』
「厄介なモノ?」
『霧の中に潜む、本当の住人よ。……さあ、足を動かせ、運び手。東だ』
「東……」
レンはその方角を聞いて、わずかに反応した。
「東には『霧の道』があると、スラムの連中が噂していた。交易都市オルドへ続く道だって」
『ほう。ネズミの割には知っているか』
フェンガーリが感心したように、あるいは馬鹿にしたように言った。
『その通り。東にはガイア以外の「都市」、オルドがある。そこが最初の目的地だ』
スラムの人間にとって、他の都市は伝説に近いものだった。 霧の道を通ってガイアの外へ出た者はいたが、誰一人として戻ってきた者はいなかった。 だからレンも、その「道」を本気で信じたことはなかった。 だが、この精霊は、その幻の街へ行けと言う。
「……分かった」
レンは泥に足を取られながらも、歩き始めた。 スラムで鍛えた脚力には自信があった。 だが、体が鉛のように重い。 脇腹の傷は、フェンガーリの力で完全に塞がっている。火傷のような痛みも呪詛の冷たさも消えた。 だが、それと引き換えに、魂の芯をごっそりと抜き取られたような強烈な虚脱感が、全身にまとわりついていた。 これが契約の代償。 この疲労感は、スラムで三日三晩眠らずに「仕事」をした時よりも深い。
足元は、ぬかるんだ土から、滑りやすい岩場へと変わっていく。 スラムの瓦礫は、もうどこにも見当たらない。 時折、霧の向こうに、枯れた大木のような巨大な影が浮かび上がるが、それが何なのか、近づくまで分からなかった。
(本当に、外へ出たんだ……)
それが実感として湧いた時、フェンガーリの声が鋭くなった。
『……止まれ』
『……止まれ』
「!」
レンは即座にその場にしゃがみ込み、気配を殺した。 スラムで幾度となく行ってきた、路地裏の「顔役」の手下から身を隠す時と同じ動き。 だが、今は相手が違う。 ポーチから、スラムで使い慣れたナイフを引き抜く。血糊と錆で黒ずんだ、ただの鉄の刃だ。
『光を消す。動くなよ』
フェンガーリの声が途切れ、ランタンの蒼い光がフッと消えた。 完全な暗闇。 スラムの夜は、どこかに街の明かりが漏れていた。月明かりもあった。 だが、ここは違う。 霧がすべてを覆い隠す、本当の「闇」。 そして、静寂。
その時、霧の向こうで「音」がした。 ガサリ、と草を踏む音ではない。 キィ、キィ、と、湿った岩同士を擦り合わせるような、耳障りで不快な音。
(何かが、いる)
レンはナイフを握る手に力を込めた。 音は一つではない。複数だ。 霧のせいで距離感が掴めない。近いのか、遠いのか。 だが、確実に、こちらへ近づいてきている。
『……霧を這う者か。嗅ぎつけおったわ』
フェンガーリが、ひそめた声で頭に響かせる。 その声に焦りはないが、不快感が滲んでいた。
『面倒な。視力は退化しているが、音と魔力の残滓に敏感な腐肉漁りだ』
『……小娘、息も殺せ。ヤツらは、お前が先ほどまでいた街の「匂い」に引かれているだけだ。我らが「契約」の匂いも混じっているか』
キィ、キキィ……。 音がすぐ側まで来ている。 腐った魚のような、強烈な悪臭が霧に乗って鼻をついた。スラムのゴミ溜めよりもひどい匂いだ。 レンは呼吸を限界まで浅くし、岩陰で石のように動かなかった。
白い霧の闇の中で、それよりもさらに濃い「影」が、二つ、三つと蠢いたのが見えた気がした。 それは四つん這いの獣のようでもあり、巨大な昆虫のようでもあった。 レンの数メートル先を、それらはゆっくりと通り過ぎていく。
(……スラムのルールが、通用するか)
スラムでは、強い者から隠れるのが鉄則だった。 見つかれば、奪われるか、殺されるか、あるいはその両方だ。 だからレンは、誰よりも気配を殺す術を磨いた。
その技術が、今、人間ではない「魔物」を相手に試されている。 心臓がうるさい。だが、体は冷静だった。 筋肉の強張りを意識的に解き、呼吸を霧に溶け込ませる。
「キィ?」
一体の影が、ふと足を止め、レンが隠れる岩陰の方向へ首を向けたように見えた。 (まずい) レンはナイフを握る手に、指が白くなるほど力を込めた。 戦うか。 だが、あの大きさ。ナイフ一本でどうにかなる相手ではない。
『……動くな。まだ気づかれてはいない。ヤツらは「音」を探している』
フェンガーリの声が冷静に響く。 レンは、フェンガーリの言葉を信じた。信じるしかなかった。 時間が、スラムの路地裏で凍死しかけたあの夜のように、長く、冷たく過ぎていく。
やがて、首を傾げていた影は興味を失ったように再び歩き出し、他の影と共に霧の奥へと消えていった。 街の方向――スラムがあった方へと向かったようだ。
『……行ったか』
フェンガーリが呟き、ランタンが再びぼんやりと蒼白い光を灯した。 光の中に浮かび上がったレンの額には、玉のような汗が浮かんでいた。 緊張で張り詰めていた筋肉が、疲労と共に緩む。
「……あれが、霧の魔物」
『ああ。下級の部類だがな。霧の「掃除屋」だ』
フェンガーリは相変わらずの口調だった。
『だが、今の体力のないお前では、三匹もいれば詰みだ。八つ裂きにされて喰われて終わりよ』
『分かったか、運び手。我が「灯」がなければ、お前はここで方角を見失い、ああいったモノの餌食になるだけだ。お前は私を運び、私はお前を生かす。それが契約だ』
「……分かってる」
レンはナイフをポーチに戻し、よろめきながら立ち上がった。 足が震えている。スラムでナイフを突きつけられた時とは違う、本能的な恐怖の残り香だ。
「どこへ行けばいい。さっき、東と言ったな」
『うむ。だが、少し休むぞ。この先にある岩場で夜を明かす』
「夜?」
レンは白く濁った空を見上げた。太陽などどこにも見えない。朝なのか夜なのか、全く分からない。
『フン、空が見えなくとも時は経つわ。お前のその脆弱な肉体は、休息を必要とする。この虚脱感も、眠れば少しはマシになろう』
フェンガーリに導かれ、数分歩くと、風雨をしのげそうな岩の窪みがあった。 スラムの寝床よりは、少しだけマシかもしれない。
レンはそこに座り込み、懐を探った。 スラムでの稼ぎがわずかに入った金袋。霧の世界では何の役にも立たないかもしれない。 そして、昨日ギブスから報酬の前金代わりにもらった、カチカチに硬くなった黒パンが一つ。 これが最後の食料だった。
レンは黒パンを音を立ててかじった。 味などしない。ただ、生きるために胃に詰め込む作業だ。
『フン。そんなモノを食うのか。……まあ、今の私には、お前が食うモノは何でもいいがな。お前の生命力そのものが私の糧だ』
「……」
レンはパンを飲み込むと、蒼く光るランタンを見つめた。
「なぜ、私だった?」
それは、契約の時から疑問に思っていたことだった。
『なぜ、だと?』
「あの時、魔術師もいた。なぜ、あいつではなく、私と契約した」
フェンガーリは、少し間を置いてから、馬鹿にしたように言った。
『勘違いするな、小娘。お前を選んだわけではない』
「……どういうことだ」
『お前があのガラクタ――このランタンを持っていたからだ。あの箱が壊れ、封印が解けた私は、一番近くにあった「器」に飛び込んだだけよ。それがたまたま、お前が持っていたこのボロ宿だったというだけだ』
フェンガーリは続ける。
『もっと上等な、それこそあの魔術師が持っていた杖などに宿ることができていれば、こんなみすぼらしい光ではなかったわ。力がほとんど抑え込まれている』
「……そうか」
レンは、少しだけ安堵した。 自分が特別だから選ばれたわけではない。ただの偶然。それならいい。 スラムでは、「特別な理由」は常に面倒事を運んできた。
『だが、妙な縁ではある』
フェンガーリが、ふと口調を変えた。
『お前、ただの小娘ではないな。あの魔術師の攻撃を受け、呪詛に焼かれながら、よくぞスラムまで逃げ切った。並の人間ならショックと痛みでとうに死んでいる』
「……スラムでは日常だ」
レンは残りのパンを口に放り込みながら、ぶっきらぼうに答えた。
「生きるために、痛いのには慣れてる。それだけだ」
スラムでは、痛みは「まだ生きている」証拠だった。 痛むなら、まだ動ける。動けるなら、逃げられる。逃げられれば、明日も息ができるかもしれない。
『フフ……フハハ。痛みに慣れている、か。面白い。気に入ったぞ、小娘』
フェンガーリが初めて、本心から楽しそうに笑った気がした。
『いいだろう、運び手。お前がその根性で私を運ぶ限り、私もお前を生かし続けてやる』
『まずは、我が力を取り戻す「力の源泉」……その手がかりが、東にある「交易都市オルド」にあるはずだ。まずはそこを目指す』
「オルド……」
聞いたこともない名前だった。 ガイア以外の「街」が、この霧の海にあること自体、レンにとっては驚きだった。
『今は休め。……ああ、忌々しい。我が力さえ万全ならば、こんな下級の魔物に隠れる必要も、休息も不要だというのに』
フェンガーリがいつもの愚痴をこぼす。 レンはそれに答えず、ランタンの蒼い光が岩壁に落とす自分の影を、ぼんやりと見つめていた。 岩陰に毛布を敷き、スラムの寝床と同じように体を丸める。
スラムのルールは、ここではもう通用しない。 ここは、スラムよりもずっと広く、ずっと危険な、「外」の世界。 そして相棒は、この口の悪い、蒼白い「灯」だけ。
(……まだ死なない)
レンはランタンを胸元に抱きしめるようにして、重い意識を霧の中へと沈めていった。




