第一話:煤と契約
世界は、白く濃い「霧」に覆われている。 人を惑わせ、方向感覚を奪い、内に潜む魔物が人を喰らう、死の世界。 人々が安全に生きられるのは、霧を拒む高い壁を築き、その内側で暮らす「城壁都市」だけだった。
城壁都市『ガイア』。 そこは、分厚い壁で「内側」が守られた、霧の中の安全地帯。
だが、その強固な壁の外側にへばりつくように形成された場所があった。 壁が吐き出す煤煙とゴミ溜め。 都市の内側に入ることを許されなかった者たちが集う、無法地帯――スラム街。
ここは「壁の内側」ではない。 スラムの最果ては明確な境界もなく、そのまま危険な「霧の海」へと続いている。 都市の恩恵を受けられない、死と隣り合わせの場所。
レンの世界は、その「外側」のスラムがすべてだった。
夜明け前、湿った路地裏の悪臭でレンは目を覚ました。寝床は、雨風をかろうじて避けられる建物の窪み。薄い毛布一枚だけが、石畳の冷気から身を守るすべてだ。 十五、六に見えるその体は、少年とも少女ともつかない中性的な線を描いている。擦り切れたシャツと革のベスト、動きやすい細身のズボン。短く切りそろえられた髪は、街の煤でいつも少しごわついている。
腰には、スラムで拾った古いブリキのランタンを提げていた。ガラスにはヒビが入り、明かりとしての役目はとうに果たしていない。それでも、物心ついた時から持ち歩いている、唯一のお守りがわりだった。
「……仕事の時間」
誰に言うでもなく呟き、レンは立ち上がる。 今日の「仕事」は、スラムの顔役である「ギブス」から直々に指名されたものだった。 スラムの酒場を兼ねたギブスの事務所へ行くと、太った男は臭い息を吐きながら地図を広げた。
「今夜、内側だ。貴族街にある屋敷から、これを取ってこい」
ギブスが示したのは、黒檀でできた小さな箱のスケッチ。表面には奇妙な紋様が刻まれている。
「中身は知るな。知ろうとするな。ただ、持ってこい。報酬はこれまでの倍だ」
「……リスクも倍、か」
レンが短く応じると、ギブスは黄色い歯を見せて笑った。
「だからお前に頼むんだ、『運び屋』レン。お前の腕なら、心配することはない」
レンは無言でスケッチを受け取った。 貴族街への潜入。それは、スラムの住人にとっては死罪に等しい行為だ。だが、報酬は魅力的だった。この煤けた街では、こんなロクでもない仕事しか存在しない。
陽が落ち、ガイアが二つの世界に完全に分かたれる頃、レンは動き出した。 スラムと貴族街を隔てる巨大な城壁。レンは汚水排出溝の緩んだ格子から、獣のように狭い暗渠を這い進む。 暗渠を抜けた先は、貴族街の最下層、ゴミ捨て場に面した崖下だった。 指先に力を込め、石壁のわずかな突起を掴む。パルクールのように、壁の段差や窓枠を中継し、重力を感じさせない動きで屋敷の屋根へと到達した。
屋根裏の天窓から音もなく侵入し、梁の上を渡る。 目的の「箱」は、書斎の奥、鍵のかかったガラスケースの中に鎮座していた。 レンは細い針金で音もなく解錠する。 そっと小箱に手を伸ばし、掴んだ。
その瞬間。 空気が震え、甲高い警報音が屋敷中に鳴り響いた。 箱自体が「重さ」か「魔力」を感知するタイプの警報魔術だった。 「チッ……!」 レンは即座に箱を懐にねじ込み、来た道を引き返す。
「侵入者だ!書斎だぞ!」
廊下が騒がしくなる。 レンは梁から飛び降り、窓ガラスを突き破って外に出た。屋敷の塀を飛び越え、貴族街の暗い路地へと転がり込む。 角を曲がった先、月明かりに照らされた人影が立っていた。
「ネズミ、そこまでだ」
ゆったりとしたローブを着た、屋敷の「魔術師」だった。 魔術師が手をかざすと、レンの足元の石畳が粘つく「泥」のように変化し、足を取られた。
「くっ……!」
「おとなしく捕まれば、苦しまずに――」
魔術師が詠唱を続ける。 レンは躊躇しなかった。 ポーチから予備のナイフを抜き、魔術師に向かって投擲する。注意を逸らすための一手だ。 魔術師は鼻で笑い、風の障壁でナイフを弾く。 その一瞬。レンは足元の拘束を力ずくで引き剥がし、側面の壁を蹴って魔術師の死角へと跳んだ。
「小賢しい!」
魔術師が振り向きざまに、手のひらから蒼い炎を放つ。 避けきれない。レンは咄嗟に懐に手を入れ、盗んだばかりの黒檀の「箱」を引き出し、盾のように構えた。
蒼い炎が、箱を直撃した。 箱は炎を防いだが、魔術の強烈なエネルギーに耐えきれず、表面の紋様が激しく明滅したかと思うと、甲高い音を立てて砕け散った。 中から、眩いばかりの蒼い光の塊が飛び出す。
魔術師が驚愕の声を上げた。 光の塊――精霊は、逃げ場を探すように宙を舞い、そして、近くにあった唯一の「器」になりうる物体、レンが腰に提げていた古いブリキのランタンへと吸い込まれた。
「……っ!」
ほぼ同時。箱を貫通した魔術の余波がレンの脇腹を抉り、レンは壁に叩きつけられた。 焼けるような激痛。レンは深手を負った体を引きずり、最後の力を振り絞ってスラムへと続く暗い路地へと転がり込んだ。
スラムの裏路地、いつもの寝床近くのゴミ山に背を預け、レンは荒く息を吐いた。 脇腹からの出血が止まらない。魔術の呪詛が冷気のように全身に広がっていく。
「……ここまで、か」
依頼は失敗だ。ブツは壊れた。そして自分もここで死ぬ。 まだ、見ていないものがたくさんあった。壁の外、あの白く淀んだ霧の向こう側に何があるのか、確かめることもできずに。
意識が遠のいていく。 レンは壁に寄りかかったまま、震える手で、蒼い光が宿った腰のランタンを無意識に握りしめた。 ヒビの入ったガラクタ。 だが今、そこだけが確かな熱を持っていた。
その時、頭の中に直接、声が響いた。
『――おい。死ぬのか、小娘』
年寄りのようでもあり、若者のようでもある、妙に尊大で皮肉っぽい男の声。
「……誰だ」
『今しがたお前のガラクタに引っ越した者だ。まったく、何千年ぶりにあの窮屈な箱から出たと思えば、次はヒビ入りのボロ宿とはな!』
声は、手の中のランタンから発せられていた。 ガラスのヒビの隙間から、澄んだ蒼い光が漏れている。
『フン。それ、呪詛だぞ。放っておけば確実に死ぬ。追手もそこまで来ている。死にたくないか?』
「……!」
『死にたくないのなら、契約しろ』
「契約……?」
『そうだ。我が貴様のその呪詛を浄化してやる。その代わり、貴様は我が失った力を取り戻すのを手伝え。我が「灯」となり、我が「目」となり、世界に散らばる「源泉」を巡るのだ。どうだ、悪い話ではあるまい?』
警備兵たちの怒声が、もう二本先の通りまで迫っている。 選択の余地はなかった。
「……好きにしろ」
レンは、最後の力を振り絞って呟いた。
「ただし……私は、まだ死なない」
『フン。威勢だけはいい』
ランタンの蒼白い光が、一瞬、路地裏全体を照らすほど強く輝いた。
『契約成立だ。――我が名は「フェンガーリ」。お前が死ぬまで付きまとう、おしゃべりな「灯」だ。よろしく頼むぞ、我が「運び手」』
次の瞬間、脇腹の灼熱感が、冷たい水に浸されたように和らいでいく。焦げた皮膚が再生していくような、むず痒い感覚。 傷が塞がっていく。 だが同時に、失った体力とは別の、魂の芯をごっそりと抜き取られるような、強烈な虚脱感がレンを襲った。これが……契約の、代償か
「――さあ、立て!小娘!」
フェンガーリの焦った声が響く。
「うかうかしていると、二人まとめて串刺しだぞ! あの魔術師、血相を変えてお前を追ってくるぞ!」
路地の角から、松明を持った警備兵が姿を現した。
「いたぞ!血の跡だ!スラムのドブネズミだ!」
「……うるさい」
レンは、まだふらつく足でゆっくりと立ち上がった。 懐の小箱はもうない。砕け散った。
『どうする小娘!?』
フェンガーリが尋ねる。
「……依頼は失敗だ。ブツは壊れた」
レンは、追手とは逆の方向へと走り出した。
「街にはもういられない」
警備兵と魔術師、両方から追われる身となった。スラムにもう居場所はない。
「リュミナ、何かできないのか」
『契約したてで無茶を言うな!……だが、目眩しくらいなら!』
レンが腰のランタンを後ろに向けると、フェンガーリが蓄えた蒼い光を一気に放出した。
「ぐあっ!」
「目が、目がぁ!」
真夜中の闇に慣れた警備兵たちが、強烈な光に怯む。 その隙に、レンは最後の力を振り絞って路地を駆け抜け、スラムの最果てへと向かった。
夜が明けようとしていた。 煤けた空が、ほんの少しだけ白み始めている。 スラムの最果て。 そこには門もなければ、壁すらない。ただ、街のゴミや瓦礫が積み上がり、その向こうに、世界を覆い尽くす白く濃い「霧」が、海のように広がっているだけだ。 あの霧の中に入れば、二度と戻れない。それがスラムの常識だった。霧の中には、方向感覚を狂わせ、人を喰らう魔物が潜んでいると。
『フン。やっとあの街から出られるか』
腰のランタンが、楽しそうに蒼白い光を微かに灯した。
『さあ、行け。運び手よ』
「どこへ行けばいい」
レンは、眼前に広がる白く不気味な霧の壁を見つめて尋ねた。
『まずは追手から逃げねば。心配するな。我が「灯」があれば、霧ごときに迷わん』
レンは、スラムでの稼ぎがわずかに入った金袋を握りしめ、腰のランタンに触れた。 スラムで追われて死ぬか、霧の中で死ぬか。 大差ないのかもしれない。 だが、まだ死なない。
レンは、まだ見ぬ世界へと一歩を踏み出した。 その姿は、まるで自ら進んで海に飛び込むかのように、あっけなく白い霧の中へと吸い込まれ、消えていった。
煤まみれの少女と、おしゃべりな「灯」の、終わりの見えない旅が、今この瞬間、始まった。




