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【短編】優しすぎるだけの男には、君は抱きしめられない

作者: 雷覇

乾いた風が吹き抜ける午後、麦畑のあぜ道に少女がひとり座っていた。


 エミナ。村育ちの素朴な少女。

 優しい恋人がいて、穏やかな未来を歩む……はずだった。


 けれど彼女は今、何もない空を見上げていた。

 胸の奥が、妙にざわついていた。


「ふーん。退屈してる顔だなあ」


 その声に、エミナはびくりと肩を震わせた。

振り返ると、見慣れない旅人が立っていた。


 薄汚れた外套。手ぶらの旅人。

 にもかかわらず、その男は妙に自信ありげに笑っていた。


「誰……ですか?」


「カラム。流れ者の商人だよ」


 冗談のように言って、男は勝手に隣へ腰を下ろした。距離が近い。汗の匂いと、なぜか香草のような甘い香りが混じって鼻をつく。


「エミナちゃん、だったよね? この村の子って、だいたい顔に書いてある。優等生、真面目、でも――少しだけ、飽きてる」


「……なに言ってるの?」


「当てずっぽう。でも、君の目が教えてくれたよ。“つまらない”って、叫んでる」


 カラムの声は、まるで水音のようにやわらかだった。


「恋人がいるだろう? 優しくて、誠実で、君のことだけを見てる。……うん、つまらない男だな」


「そんな……!」


「でも、悪いのは君さ。……いや、悪いって言葉も古いか。飽きるのは自然なことだろ?」


 エミナは言い返せなかった。彼の言葉が、図星すぎて。


「君の中には“欲”がある。見たくないふりをしてるけど、俺には見えるよ。“今を壊してみたい”って願いが。ほら……今、ゾクッとしただろ?」


 エミナは思わず後ずさった。


「……やめて」


「やめないよ。だって君、止めてほしくないって顔してる」


 カラムは笑った。

 その言葉に、エミナの身体が小さく震える。


「罪悪感も、優しさも、全部君が勝手に持ってるだけだろ? 俺はただ、そこに言葉を置いただけ」


 風が止まった。

麦畑の静寂が妙に生々しく感じられた。


「君の中にあるものを否定しなくていい。

 君はもっと自由に、もっと欲を持っていいんだよ」


 エミナは立ち上がれなかった。

 足がすくんでいた。

 男の声に、自分の中の“何か”が目を覚ましそうで――怖かった。


「また来るよ。エミナちゃん。喉が渇いてるのは、君の心さ。ゆっくり考えてみるゆっくり」


 そう言い残して、カラムは笑いながら立ち去った。

 夕暮れの陽が、少女の影を長く伸ばしていた。


 翌朝。


 村はいつも通りの朝を迎えていた。鳥が鳴き、井戸の水音が響く。だが、エミナの中には妙なざわつきが残っていた。


 (……喉が渇いてるのは、君の心さ)


 カラムの声が、頭のどこかでこだまする。


 「罪悪感も、優しさも、君が勝手に持ってるだけだろ?」


 それはまるで、自分の胸の奥を覗き見た誰かが、嗤うような声だった。


 「……やめてよ」


 つぶやいた声は、誰にも届かない。


 ――そのとき、裏庭から土を蹴る音がした。


 「エミナ、いたのか。探したよ」


 声の主はリュウだった。泥まみれの作業服に、無造作に結ばれたバンダナ。額に汗をにじませたその姿は、まさに好青年だった。


「おはよう。……ごめんね、朝からぼーっとしてた」


「ううん、大丈夫。少し話せるかな? 休憩がてら、さ」


 二人は畑の縁に腰を下ろした。

 草の匂い、風の匂い。

昔から変わらない、穏やかすぎる風景。


「なんかさ、最近……エミナが元気ないって思ってたんだ。なにかあった?」


「……ううん。何もないよ。ただ、ちょっと考え事してただけ」


「……俺、なんかした?」


「してないよ、リュウ。むしろ……何もしてないから、なのかも」


 その言葉に、リュウはきょとんと目を丸くする。


「ごめん。うまく言えないの。リュウが悪いわけじゃないの。……リュウは、ずっと優しいから」


「うん。でも、それが……嫌になった?」


 図星だった。

 その一言に、エミナの胸が痛んだ。


「違う。……違うんだと思いたい。でも、たぶん、そうなのかも」


 風が止まる。

 リュウの笑顔が、少しだけ引きつった。


「そっか……。俺の優しさって、時々……重いのかな」


 重い? そんな言葉、今まで考えたこともなかった。


 けれどエミナは、自分が“縛られている”と感じたのが

その優しさだったことを痛いほど理解していた。


 (あの男は……わかってた。私のこの気持ちを。出会って数分で)


 それが、悔しかった。


 何も知らないはずの流れ者が、たった一言で“心の渇き”を突いてきたことが――悔しくて、忘れられなかった。


「エミナ。……もし、何か変えたいことがあるなら、俺、ちゃんと聞くよ」


 リュウの言葉は本物だ。

 だけど。


 エミナはうつむいたまま、小さく首を振った。


「ありがとう。ほんとに。……でも、今日は、少し一人になりたい」


「……わかった」


 リュウは立ち上がり、何も言わずに去っていった。背中が、痛いほどに優しかった。その優しさが、今はただ虚しく見えた。


 夜。


 村の酒場の裏手、小道に面した古びた納屋。

ひっそりとしたその場所に、また彼はいた。


 「……待ってたよ、エミナちゃん」


 背後からかけられたその声に、エミナは一歩だけ足を止めた。

驚きはなかった。

むしろ、そうであってほしいと願っていたのかもしれない。


 「……どうして、ここに?」


 「君が来ると思ったから。退屈な優しさに喉を渇かせた君は、きっと俺に会いに来る。そんな気がした」


 カラムは木の箱に腰かけ笑みを浮かべていた。

 それはまるで、誰かの弱さを見るが一番好きだと言っているような顔だった。


 「本当に……人の心が見えるの?」


 「いや、見えるわけじゃない。けど――嗅げるんだよ。抑えてる欲の匂いは、すぐにわかる」


 カラムはエミナに手を伸ばさない。

 ただ言葉で、彼女の心の鍵をひとつずつ外していく。


 「君はずっと“いい子”を演じてきた。村でも、恋人の前でも。何かを欲しがる前に、空気を読む。でもね、エミナちゃん――」


 彼は指を一本立てた。


 「“欲”は、ずっと黙ってなんてくれない。やがて暴れ出す。自分の形をした怪物になって、君を食いちぎる」


 「……そんなの、怖い」


 「でも、見たいだろ?」


 エミナの身体が、ピクリと反応した。


 「誰かに理解されたい。愛されたい。でも、それとは別に……試してみたい。“誰かのモノになる自分”を」


 「……っ」


 図星すぎて、苦しい。


 彼の言葉は、毒だ。

 それとわかっていても、逃げられない。


 「君の恋人は優しい。悪くない。だけど、そんな完璧さが時々、息苦しいんだろ? だって君は……欲が深い女なんだから」


 その言葉に、エミナの目から一筋、涙がこぼれた。

 カラムは笑うでも、慰めるでもなく、ただ言った。


 「それでいいんだよ。欲しくなって当然なんだ。刺激も、破滅も、許されない自由も――全部、人間の一部だ」


 エミナは震えていた。

 怒りでも、寒さでもない。

 自分の中にある許してはならない衝動が、いまにも手を伸ばしそうで怖かった。

 カラムはゆっくりと彼女に近づいた。


「不完全な君が、悪いわけじゃない。……むしろ、俺は好きだよ。そういう女」


 その声は低く、舌先で舐めるように甘い。


 「真面目に生きて、優しさに包まれて、それでも満たされない。……君はずっと、自分に嘘をついてきたんだ」


 言葉とともに、カラムの指が彼女の頬に触れた。

 熱い指先。震えた肌。エミナは抵抗できなかった。


 「ほら、君のこの涙……俺が流させたんだろ?」


 指先が、その雫をぬぐい取る。

 まるで戦利品を味わうように、カラムはその指を舐めた。


 「――ね、どうする?」


 彼は囁く。

 「このまま踏み出すか。それとも、また優しいだけの男の胸に戻るか?」


 「……ずるいよ、そんなの」


 絞り出すように言った声に、カラムは笑う。


 「ずるくていいじゃない。世界のどこに、綺麗な欲だけで生きてる奴がいる? 誰だって、自分勝手で、醜くて、手に入らないものに手を伸ばす」


 彼の言葉が、心の中で共鳴する。

 反論できなかった。

 なぜなら――本当に、そう思ってしまったからだ。


 「ねえ、エミナ。君がこのまま堕ちるのを、俺は止めないよ」


 カラムは彼女の耳元に口を寄せ、最後の一撃を放つ。


 「だってそれが、君の本当の望みなんだろ?」


 その瞬間。

 エミナの中で何かが決定的に崩れた。

 罪悪感は熱を帯び、純粋さはひび割れ、欲は声を上げて笑った。


 カラムの手が、彼女のあごをそっと持ち上げる。

 触れる寸前、目と目が交わる。


 だが――。


 「……ああ、いい顔になった。けど、今日はここまでにしておこう」


 ふっと手を離し、カラムはにやりと笑う。


 (焦らすのも、なかなか楽しいもんだ)


 エミナは、何も言えなかった。

 何もされていないのに、心だけがずぶ濡れのように感じた。


 彼が去ったあとも、空気は冷たいはずなのに、火照った顔は冷めなかった。


 (私……もう、戻れない)


 胸の奥で、誰かが静かに笑っていた。


 日が沈み、空が藍色に染まり始めたころ――エミナは、リュウの家を訪れた。

 戸口に立っただけで、心臓が嫌な音を立てていた。


 (ちゃんと話さなきゃ)


 嘘じゃない言葉で。

 誰かのせいじゃない言葉で。


 戸を叩くと、すぐにリュウが出てきた。


「……エミナ?」


「話がしたいの。少しだけ」


 リュウは戸を開け、いつものように柔らかくうなずいた。


 木の椅子に向かい合って座る。

 リュウの部屋は、埃ひとつなく整っていた。まるで彼そのものだった。


「……最近、ずっと考えてたの」


「うん」


「私、リュウのこと……嫌いになったわけじゃない。でも、すごく……苦しいの」


 リュウは何も言わずに聞いていた。

 その沈黙が、いつもと違っていた。


「私ね……リュウの優しさが、時々、怖いって思うようになったの」


「……怖い?」


「うん。何も責めない、疑わない、怒らない。全部を受け入れてくれる。それが……まるで、私が何をしてもいい存在みたいで……逆に、逃げられなくなるの」


 リュウは苦笑を浮かべた。


「……そうか。俺、そんなに君を縛ってたんだな」


「違うの。リュウが悪いんじゃない。私の問題。

 でも、わかってるのに、どんどん自分がずるくなっていくのが……怖い」


 言葉を止めたくなる瞬間が何度もあった。

 でも、それでも、言葉をつなぎたかった。


「リュウ……もし、私が……他の誰かに惹かれてたとしても――それでも、あなたは私を責めないの?」


 リュウの目が揺れた。

 その揺れを見て、初めてエミナは少しだけ心が軽くなった。


「……わからないよ。責めるかもしれない。泣くかもしれない。……それでも、君のことは嫌いになれないと思う」


「ねえ、それが怖いの。優しさって、時に逃げ道を塞ぐ檻になるの。……私はもう、どこにも逃げられない気がしてた」


 沈黙。

 息が詰まりそうなほどの。


 リュウはゆっくりと立ち上がり、棚の上の小さな箱を取った。

 中には、エミナへの誕生日に贈るはずだった手作りの髪飾りが入っていた。


「……これ、渡すつもりだったんだ。来月」


 彼は少し笑って見せた。


「でも、今渡すよ。俺が君にできるのは、もうそれくらいかもしれないから」


 手渡された髪飾りは、木の実と小さなリボンで飾られていた。素朴で、まっすぐで、優しすぎる贈り物。


 エミナは、涙をこらえることができなかった。


「ごめん……私……」


 「謝らなくていいよ」


 リュウの声は、優しいままだった。

 だからこそ、決定的だった。


 その夜、エミナは初めて、自分が“優しさでは救えない場所”に立っていることを悟った。


 恋人の優しさは、もう――

 彼女の居場所ではなかった。


夜の空気は冷たく澄んでいた。

 だけど、エミナの心には不思議な熱が灯っていた。


 迷いはあった。後悔も、不安も、ある。

 それでも彼女は、足を止めなかった。


 カラムのもとへ向かうその道は、何より静かだった。

 自分の足音だけが、確かな選択を刻んでいる。


 扉を開けると、彼はそこにいた。

 風に揺れるランプの灯りの中、エミナを見て彼は目を細める。


 「……決めたんだな?」


 問いに、彼女はただ頷いた。


 「もう、自分をごまかすのはやめたの。

 私は弱くて、ずるくて、でも……そのままで抱きしめてほしかった」


 カラムは何も言わず、エミナをそっと引き寄せた。

 その手のひらの温度は、思っていたよりもあたたかく――

 まるで、どこかに落としてきた自分を、静かに拾い上げてくれるようだった。


 「私、ずっと誰かの理想でいようとしてた。

 でも、本当はそんなふうに強くなんてなれなかった」


 カラムは頬に触れ、優しく言った。


 「だからこそ、君は美しい。壊れることを恐れながら、それでも前に進もうとする人間は誰よりも強い」


 エミナはそのまま、彼に身体を預けた。

 戸惑いも恥じらいもあったが、それ以上に――安心があった。


 誰かに許されるためじゃない。

 誰かに愛されるためでもない。

 今の自分を、自分自身で認めてあげたくて――その腕に包まれた。


 唇が重なった瞬間、エミナの中で張りつめていた何かがふっと緩んだ。

 冷たかった胸の奥に、じんわりとした熱が流れ込んでくる。

 それは激情でも衝動でもない、どこまでも静かで優しい。

けれど確かな、ぬくもり。


 カラムの指先が、頬をなぞり、首筋を包む。

 肌に触れるたび、過去の後悔や罪悪感が、少しずつ薄れていくようだった。

 まるで、ひび割れた心の隙間を埋めていくような感覚。


 息遣いが混ざり合い、胸の鼓動が近づいていく。

 彼の存在が自分の輪郭を溶かしていくように、身体と心が同時に緩んでいく。

 泣くわけでもなく、叫ぶわけでもなく、ただ静かに、深く沈み込んでいく。

 

 触れられることが、こんなにも優しいものだったなんて、知らなかった。

 奪われるのではなく、許されるような感覚。

 そのすべてに包まれながら、エミナは心の中で、はっきりと思った。


 「私は、ここにいていい」


 誰かの理想でも、幻想でもなく。

 ありのままの、弱くて、間違えて、でもそれでも愛されたかった“私”のままで。


 すべてが終わったあと。

 彼の胸に額を預けながら、エミナは小さく笑った。


 「……不思議。罪なのに救われたような気がする」


 「罪と救いは紙一重だ。

 人はよく間違ったことをして、自分を取り戻す。君もそうだっただけ」


 カラムのその言葉に、エミナは涙ぐみながら、静かに笑った。


 弱さを抱かれたのではない。

 弱さごと、“今の私”を受け入れられた。

 それは――思っていたより、ずっと静かな幸福だった。


エミナはカラムの腕の中にいた。


 その胸に顔を預け規則正しい鼓動に耳を澄ませていると

 不思議と世界が遠くなったように感じた。

 何かを得たという実感でもない。

 ただ――ずっと探していた“温度”が、ここにあった。


 「……心は晴れたかい?」


 カラムの低い声が髪を撫でながら降ってきた。

 エミナは目を閉じたまま、かすかに笑った。


「うん……何だか、心が――軽い」


 「それは良かった」


 やわらかな会話。

 言葉を重ねることすら、心地よかった。

 それは“恋”でも“依存”でもない。ただ――彼女にとって“初めての自由”だった。


 夜の静けさがすべてを包み込み、ランプの火が小さく揺れている。

 エミナはその微かな明かりを見つめながら、目を閉じた。


 (ああ、こんな夜が……あったんだ)


 それだけで、少しだけ生きていく自信が湧いてきた。


 ――そして、朝。

 鳥のさえずりが、少し遠くから聞こえてくる。

 窓辺から差し込むやわらかな陽が、エミナの頬をあたためていた。

 目を覚ました彼女は、しばらく天井を見つめたまま

 昨夜の余韻に身を沈めていた。


 カラムの姿は、もうなかった。

 彼の気配すら残らない部屋の空気。

 机の上には折りたたまれた一枚の紙切れが置かれていた。


「俺が欲しかったのは“堕ちていく瞬間”だけさ。

 もう君に興味はないよ。――そろそろ、日常に戻る頃だろ。

 俺はここを出る。

 でも……また心が渇いたなら、会いにおいで。

 今度はもっと、深く堕としてあげるから」


 読み終えたあと、エミナはそっと紙を胸にしまった。

 捨てるには惜しく、持ち続けるには少しだけ苦い。

 けれど彼の言葉は確かに、夜のぬくもりをひとつだけ残していた。


 リュウは、静かに麦畑を見つめていた。

 季節は変わり、風も少しだけやわらかくなっている。


 エミナは、彼の背中に声をかけた。


「……リュウ。少し、時間もらえる?」


 彼は振り返り、いつものように――あの、何も責めない目で頷いた。

 二人はあぜ道に座り、しばらく何も言わずに風の音を聞いた。

 エミナが口を開いたのは、風が一度静まったその時だった。


「私……あの夜、あの人のところに行ったの」


 リュウの肩が、ほんのわずかに動いた。


「わかってたと思う。でも、ちゃんと伝えたかった。……もう嘘はやめたくて」


 言葉を選びながら、それでも包み隠すことはしなかった。


「全部、自分で選んだの。誰かのせいじゃない。

 優しさから逃げたのも、あの人に堕ちたのも――私自身の選択だった」


 リュウはしばらく目を伏せたまま、何も言わなかった。

 それが、いちばん苦しかった。

 けれど次に彼が口にしたのは、やっぱりリュウらしい言葉だった。


「……そうなんだ。

 エミナが選んだなら、俺が口を出すことは、何もない」


「……怒らないの?」


「怒ってるよ。……でも、君にじゃない。

 “君を守れると思ってた自分”に……かな」


 その言葉は、エミナの胸に深く刺さった。


「私は、あの夜で何かが変わった。……壊れたのかもしれない。でも、少しだけ自由になれた」


 リュウは小さく頷いた。


「なら、よかった」


 「……よくないよ」


 エミナの声は、風のように弱く揺れていた。


「だって、今でもリュウの優しさが……一番、苦しいんだ」


 そのとき、リュウの微笑みが少しだけ崩れた。

 でも、彼はただ頷いた。


「それでも、エミナが前に進めるなら、それでいい」


 エミナは、涙をこらえながらも笑った。

 リュウの優しさは、やっぱり変わらなかった。


 けれど、それがもう――彼女にとって、戻る場所ではないことも、わかってしまっていた。


 リュウとの会話を終えたあと、エミナはしばらく麦畑に立ち尽くしていた。

 風はゆっくりと穂を揺らし、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。

 それは、あまりにもいつも通りの、優しい日常だった。


 でも、もうここにはいられない。

 いられる理由も、戻れる顔も、もう……どこにも残っていなかった。


 その夜、彼女はリュウの家の扉一枚の紙を差し込んだ。

 名前は書かれていない。

 ただ、簡素な文字で、こう綴られていた。


「私は旅に出ます。探したいものがあるからです。

 それが自分なのか、何か別のものなのかも、まだわかりません。

 どうか、元気で。」


 見てくれるかどうかは、どうでもよかった。

 ただ、残すべき言葉を残した。それだけでよかった。


 翌朝、夜明けとともに村を出た。

 荷物は少ない。

 歩幅は小さくても、迷いのない足取りだった。


 (この世界に、私の居場所なんてきっとまだない。

 でも、探す自由だけは、もう手に入れた)


 ふと、あの夜のことを思い出す。

 カラムの背中。

 揺れる火の灯り。

 そして、紙切れに残された言葉。


 「堕ちていく瞬間だけが欲しかった」


 そう言い残した男が、今どこで何をしているのかはわからない。

 もう堕ちたくない。

 でも、あのとき――心が確かに軽くなったのも、事実だった。


 ――会ったら、どうなるかわからない。

 でも、会わなければ、この痛みもこの夜も、本当に過去になってしまう気がする。

 そんな曖昧な想いを抱えながら、エミナは今日も歩き続けている。


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