4話 炎の魔女
ドォ——ン‼
東南東、約五百メートル先。青い空を突き破るように巨大な砂煙が立ち上った。先ほど響いた爆音がその地点から発生したことは明らかだった。
「行く」
「ええ!」
ブルーの簡潔な一言に、アデリーナは頷きながら即座に戦闘態勢を整える。薄いピンクのレースワンピースの上に白銀の鎧が魔力によって瞬時に生成され、その美しい鎧が太陽の光を受けてきらめく。ピンクの髪が風になびき、その直後、兜が彼女の顔を覆い隠した。
互いに視線を交わすと、二人は躊躇うことなくバルコニーから跳躍した。魔力で強化された脚力により、五十メートル先の城壁を軽々と飛び越え、城門の外に軽やかに着地。そのまま流れるように地を蹴り、爆発地点へ疾走した。
常人では追いつけないほどの速度で進みながら、二人は状況を確認する。
「暁の騎士、目撃されたのは一人。二百メートル先、左側」
逃げ惑う市民とは逆方向に突き進む二人は、同時に左に曲がり込むと足を止めた。そこには赤いマントを羽織った『炎の暁』の赤騎士が立っていた。しかし、その姿はこれまで目にしたどの赤騎士とも異なっていた。
アデリーナは鞘に手をかけ、唾を飲み込んだ。
「いつもと違う」
隣のブルーが小さく呟く。
「ええ……マントが細い。鎧を着けていない? それにあの黒い仮面は何でしょう?」
目の前の敵が防御の要である鎧を生成しない理由が理解できなかった。その時、マントの奥から白い腕がゆっくりと現れ、二人に向かって無造作に手を向ける。
警戒心を露わにした二人が同時に剣を抜くのと同時に、敵の掌から炎の塊が無動作に放たれた。ノーモーションの魔法にアデリーナは息を呑む。
剣を握る右手に力を込めた瞬間、強烈な頭痛がアデリーナを襲った。支えを失った彼女は地面に崩れ落ち、怒りと焦りが胸を焼いた。
——こんな時に……!
炎の攻撃は凄まじい熱風と共に二人へと迫る。アデリーナが地面に伏す中、ブルーは水色に輝く剣を水平に振り抜き、地面から鋭い氷を立ち上らせて炎を防いだ。氷と炎が激しく反発し、大きな爆発を引き起こす。
ブルーは咄嗟にアデリーナを庇うように立ちはだかり、その衝撃を全身で受け止める。
爆風が収まった後、砂煙が消えた時には既に敵の姿は消えていた。ブルーは理由を掴めないままアデリーナに向き直った。
「アデリーナ!」
アデリーナはゆっくりと身体を起こし、深呼吸を繰り返して立ち上がる。
「ありがとう……もう大丈夫です。先ほどの攻撃、硬直が全くありませんでしたね」
「間違いなく強敵。でも私たち二人なら問題ない。それにシルビア様には及ばない」
ブルーの言葉にアデリーナは微かに笑みを浮かべ、頷いた。
二人は再び敵を追って跳躍し、赤いタイルの屋根の上を駆ける。
「監視機が敵を捉えている。最短で行く」
「了解!」
再びブルーが状況を告げる。
「そこの路地に四秒後」
その言葉にアデリーナは一気に速度を上げる。ブルーを追い抜き、走りながら赤く輝く剣を鞘から抜き放つ。
――四秒。アデリーナは瓦を蹴って加速した。――三秒。屋根の端に滑るように近づいていく。――二秒。彼女は得意な技を放つため、身を低く構えた。――一秒。赤いマントと黒仮面の敵が姿を現す。ちょうどブルーの宣言通りだった。
「烈火!」
鋭い声が夜を裂き、アデリーナは屋根の端を蹴り抜けるように駆け抜ける。赤く燃え上がる剣が空気を引き裂き、次の瞬間、敵の背後で炎が爆ぜた。黒仮面の敵は一瞬で崩れ落ち、戦いは終わった。
兜を消したアデリーナの横に、静かに着地したブルーが並ぶ。二人は軽く手を合わせ、短いながらも確かな勝利を祝った。
ふと、アデリーナは周囲の光に違和感を覚える。どこか、少しずつ暗くなってきている。顔を上げると、そこには静かに欠けていく太陽があった。
「太陽が……」
呟きは風に溶け、アデリーナの視線は空に釘付けになる。黒い影がゆっくりと太陽を覆っていく。まるで世界の終わりを告げるかのような光景。かすかな呟きと共に、アデリーナはその異常な現象をただ見つめ続けた。
「まだ終わってない」
その言葉に反応したアデリーナが振り向くと同時に、ブルーの魔法が発動した。
「グラスメリジューヌ!」
地面から無数の氷の蔦が生え、蛇のように赤騎士に絡みつく。何重にも巻き付いたそれは、黒い仮面の動きを完全に封じたかに見えた。
しかし次の瞬間、赤いフードの奥からとてつもない魔力が解き放たれた。大気が震え、空気そのものが軋む音を立てながら、ブルーの氷は一瞬で消滅した。
圧倒的な魔力と風圧にアデリーナとブルーは無意識のうちに一歩、また一歩と後退する。息をするのも困難なほどの威圧が二人を襲った。
アデリーナの耳にビリビリとしたノイズが走る。耳鳴りのような、不快で異質な音。何が起きているのか理解できず、隣を見ると、ブルーは何も感じていないように敵を見据えていた。
風に翻る赤いマントの下から現れたのは、血のように濃い真紅のドレス。そして――その姿に宿る異様な気配。
次の瞬間、黒い仮面の内側から噴き出した魔力が監視装置の魔法抵抗を貫き、街中に設置された機器を次々と破壊していく。青白い火花とともに、魔力に耐え切れなかった監視機が炸裂した。
そして、突き刺すような轟音。
ラベンダーノヨテを守る八本の防衛塔。そのうちの一本の頂上が爆発し、巨大な炎と瓦礫を天に撒き散らした。
「……まさか……!」
アデリーナの呟きが終わる前に、次の塔が爆発する。そのまた次も。そして……。
――ドォン! ドォン! ドォン! ドォンッ!
瞬く間に全ての防衛塔が炎に包まれ、城を守っていた結界が崩壊する。
その瞬間、空が割れた。
まるで裂けた空の隙間から無限に湧き出すかのように、数えきれないドラゴンが雲を切り裂いて降下してくる。空は黒と赤に染まり、空気は灼熱の風に変わった。
地響きとともに地上の混乱が始まる。市民の叫び声が四方八方から響き渡り、狂ったように逃げ惑う人々。空からは咆哮が降り注ぎ、地上では絶望の悲鳴が広がる。
そのさなか、仮面の女はマントを脱ぎ捨て、ゆっくりと宙に浮かび上がった。
真紅の髪が風に踊り、建物を超える高さで停止したその姿の両脇に、二匹のドラゴンが舞い降りて並び立つ。その威圧感は、神をも屈服させるような絶対的な存在感だった。
彼女が顔に手を添えた瞬間、仮面は炎に包まれて消え、その素顔が露わになる。
そして――アデリーナは息を飲み、身体が凍りついた。
あの顔は、城門前に立つ女神の石像そのもの。
頭痛が再びアデリーナを襲い、膝をつく。意識がかき乱される中、それでも立ち上がる彼女。痛みを押し殺し、怒りをこめて敵を睨み上げた。
そして、上空の存在は彼女たちを見下ろし、静かに、しかし全世界に響くような声で告げた。
「我が名はアリーチェ・ディ・レオーネ。炎狂の魔女にして『炎の暁』の頭首。『終焉の審判』はいま開かれた。ここに炎の魔女の帰還を宣言する」
その瞬間、アリーチェの身体から放たれた真紅の魔力が爆発的に膨れ上がり、空へと伸びる巨大な光の柱を作り出した。
空を裂くように立ち上るその赤い光は、まるで天地を断ち切る業火。世界そのものが燃え上がるような錯覚に、誰もが足を止め、ただその光を見つめた。
それは生命に刻まれた最古の恐怖——『終焉』そのものだった。