2話 氷の魔女
「冷悲の魔女」、通称名は「氷の魔女」。名乗りを上げる時のみ「冷悲の魔女」といいます。
ラベンダーノヨテ聖域国、ラヴァンダ城内、王室前。
報告を行うためにブルーとアデリーナが重厚な扉の前に立つと、高さ二メートルを超える扉は音もなく静かに開いていった。
慣れた様子で中へ入る二人を待ち受けていたのは、いつもの白と水色のドレスをまとい、白い仮面をつけた女王シルビアだった。彼女は部屋の大きな窓の前に佇んでいた。
「座って」
小さく唇を動かすと、その静かな囁きが二人の耳に直接響いた。
その言葉と同時に、青白い粒子が集まり、部屋の中央に美しい円卓を瞬時に形作る。気がつけばシルビアは円卓の前に移動し、優雅な動きで空中にラベンダーの模様が施された三脚の椅子を生み出し、ゆったりと腰掛けた。
その動きはまるで花びらが風に舞うかのように繊細で流麗だった。
二人がそれぞれの席につくと、再び粒子が現れて紅茶の入ったティーカップを二人の前に差し出す。いつの間にか、シルビアの手にもティーカップがあり、仮面の下から覗く口元が優雅に微笑んでいた。
シルビアの美しさはまるで女神の石像そのものだとアデリーナは内心感嘆する。この部屋には衛兵が一人もいないが、女王が自在に操る強力な魔法がある限り、護衛など必要ないのだろう。
炎の魔女が滅んだ今、シルビアに敵う存在など誰一人としていない。ブルーとアデリーナが力を合わせたとしても、この女王の圧倒的な存在感と魔力には遠く及ばないことを二人は肌で感じていた。
「女王陛下、報告させていただく」
兜の奥から響くブルーの静かな声に、シルビアは優雅にティーカップを置き、静かに頷いた。
「東北東、第十二区。現場付近の目撃情報を、近隣区域の監視機七万六千台で現在確認中です。ただし、まだ有効な情報は得られていません」
「そう……ブルー、いつも言っているけれど、ここでは『シルビア』でいいのよ。兜もアデリーナのようにしまったらどうかしら?」
「いえ、私はこのままで結構です」
「そう……。『約束の日』がついに来たのね。ずっとこの時を待っていたわ……」
感傷的な表情を覗かせるシルビアに、アデリーナが静かに質問を投げかけた。
「その『約束の日』とは一体何なのでしょうか?」
「メリア神話は知っているでしょう?」
「はい。ドラゴンと魔亜人による、この世界の誕生にまつわる神話のことです」
「そう。その二人の間に生まれた神が、あの城前に立つ女神の石像よ。ドラゴンと魔亜人が争った『終焉の審判』の日は三百二十四年周期で訪れる。だから私たちは、その世界の歪みが生まれた日を『約束の日』と呼んでいるの」
アデリーナは『私たち』という言葉にわずかな疑問を感じたが、それを問い返す間もなくシルビアは続ける。
「『約束の日』が近づくにつれて世界の魔力は強まっていく。今が最も魔法が強くなる時期。今日の戦いで、ドラゴンの魔法やブルーの氷魔法、あなたの剣技がいつもより強力になっていたことに気づかなかった?」
ブルーは即座に小さく音を立てて頷いたが、アデリーナはやや眉をひそめ、シルビアに問い返した。
「つまり、建国祭は最も強力な魔法を使える一方、最も危険な日にもなるということでしょうか?」
「少し違うわ。確かに明日はさらに魔力が強まるけれど、それは『太陽が消える』までの話」
アデリーナは『太陽が消える』という言葉に戸惑いを隠せなかったが、シルビアは気にせず言葉を続ける。
「明日、空に輝く太陽は一時的にその姿を消す。その瞬間、世界中に満ちていた魔力はほぼ完全に消滅するわ。その時こそ、私は長い年月をかけて蓄積した魔力を解放し、『神域魔法』を発動させる。ただ、その時は私は完全に無防備になる――だから必ずドラゴンや、今まで沈黙していた『炎の暁』が襲撃を仕掛けてくるでしょう。その時は二人に私を守ってもらいたいの」
「「はい」」
二人の返事が見事に重なる。だが、アデリーナはまだ疑問が残っているのか、口を開きかける。シルビアはそれを察して静かに答えを与えた。
「魔力が消えるとは言ったけれど、魔力への抵抗も同時に弱まるわ。だから魔法を使える回数は限られるけれど、ブルーもあなたも完全に魔法が使えなくなるわけではないから安心しなさい」
続けてシルビアは声に力を込め、空気が一瞬で引き締まる。アデリーナはその迫力に思わず息をのんだ。
「私が三百二十四年に一度だけ許された神域魔法で行うのはただ一つ。たとえこの命を犠牲にしたとしても、この世界に残された諸悪の根源を断ち切ること――」
ピリピリと張り詰めた空気の中、シルビアは静かに席を立った。
「来なさい」
その言葉と共に、魔法で作られたテーブルや椅子、ティーカップは瞬時に消え去り、仮面も口元を覆う元の姿に戻った。
ブルーとアデリーナは揃ってシルビアの後ろに従い、隣接する大広間へ進む。シルビアがその大座に腰掛けると、眼前には何万人にも及ぶ重装備の騎士団が一斉に頭を垂れていた。
それはまさに壮観な光景だった。数万の騎士たちが、重厚な鎧をまとい、静かに女王の命令を待っている。彼らの纏う張り詰めた空気と、静かな闘志が満ち溢れた広間はまるで戦いの前触れのように震えている。
これほどまでの軍勢が動くということは、まさに世界の命運を賭けた戦いが迫っているという証だった。
仮面の奥に輝く青い瞳が鋭く光り、シルビアの冷徹で凛とした声が響き渡った。
「冷悲の魔女の名において命ずる――己の身に刻んだ役割を遵守せよ!」
その声が響き渡った瞬間、騎士団のすべてが一斉に剣を掲げ、轟くような雄叫びをあげた。その声は大地を揺るがし、空を切り裂くほどの迫力をもって、これから訪れるであろう壮絶な戦いを予感させた。