1話 ラベンダーノヨテ聖域国
星歴862年、ラベンダーノヨテ聖域国。
広大な城壁に囲まれた国の中心には、小高い丘にそびえる巨大な城があった。城を囲むように広がる街並みは中世の趣を湛え、くすんだ肌色の壁と色褪せた赤い屋根瓦が整然と並んでいる。街全体を取り巻く正八角形の城壁は、高さ百メートルを超え、八つの塔がそびえ立ち、強力な魔法障壁によって魔獣の侵入を防いでいる――そのはずだった。
東北東、第十二区兵器武装庫。
燃え盛る四階建ての建物から逃げ惑う人々の波が押し寄せていた。悲鳴や怒号が飛び交い、誰もが我先にと避難を急ぐ。
しかしその混乱の中、一人の若い女性が恐怖に足を取られ、地面に倒れこんだ。
「いやっ! こんなところで死にたくない……! 私は女王陛下のもとに――!」
必死に叫ぶ彼女だったが、誰も足を止めなかった。住民たちはただ口々に「女王様の教えを守らなければ!」と叫びながら彼女の脇を通り過ぎていくだけだ。
炎は生き物のように激しくうねり、次々に建物を飲み込んでゆく。遅れて到着した衛兵たちが水樽を積んだ荷車を引き寄せ、次々と水をかけるが、炎はまるで嘲笑うように勢いを増してゆくだけだった。いくら水を浴びせても、火は衰えるどころか広がる一方だった。
若い女性は足がもつれ、炎の熱さと恐怖で立ち上がることができず、必死に地面を這いずり逃げようとする。しかし、その姿を住民たちも衛兵たちもただ遠巻きに見つめるばかりで、誰ひとり手を差し伸べようとしない。
その時、人々が一斉に振り返り、ざわめきが止んだ。群衆が道を開け、地面に膝をつき、頭を垂れる。
「女王陛下……」
誰かが畏敬の念を込めて呟いた。
静かに歩いてきたのは、腰まで届く美しい青髪を揺らし、白と水色のドレスをまとった一人の女性。顔には白い仮面があり、その奥にある瞳は表情を窺わせないほどに冷静だった。彼女こそが、このラベンダーノヨテ聖域国の女王その人だった。その背後には二人の騎士が控えている。
地に伏した若い女性は恐怖を忘れ、その圧倒的な美しさに息をのんだ。女王はそっと歩み寄り、優雅に手を差し伸べる。
「もう大丈夫です。ここは私に任せなさい」
その声は静かで冷たく、それでいて透明な響きを持ち、直接頭に囁きかけるかのようだった。
その言葉を聞いた衛兵たちはすぐに落ち着きを取り戻し、避難誘導を再開した。若い女性は震えながら女王に深く礼をすると、その場を急いで離れていった。
一つの建物から始まった火災は、すでに十四棟を飲み込み、炎はまるで意思を持つかのように女王へ向かって勢いよく伸びていった。 一瞬のうちに二十メートル近く燃え広がった炎は、女王の目前で不意に動きを止めた。空中に浮かぶ胞子のような青白い光の粒子が、女王を守るように炎を左右に散らしたのだ。
その神秘的な光景を目の当たりにした市民や衛兵たちは思わず足を止め、感嘆の声を漏らす。
だが炎は消えず、むしろ左右に散った火が女王を取り囲み、渦巻くように激しく回転しはじめた。その熱は瞬く間に高まり、女王の両脇に控える騎士ですら身構えるほどの勢いだった。
次の瞬間、渦巻いていた炎は爆発するように四散した。その中心から現れた女王は、表情一つ変えずに燃え盛る建物を見据え、静かに命じる。
「行きなさい」
女王の視線の先、燃えさかる四階建ての建物から巨大な影が現れた。銀白色の輝きを持つ巨大なドラゴンだった。その鱗は炎の中で煌めき、巨大な翼は空を切り裂きながら舞い上がる。
高さ五メートルを超え、翼を広げれば優に十メートルを超える巨躯のドラゴンは、人間の追随を許さない存在だったが、女王の背後に控える二人の騎士は違った。
二人は女王の命令と同時に地を蹴り、飛び去るドラゴンを猛然と追い始める。女王と同じ白と水色を基調とした鎧をまとった騎士と、銀色の鎧をまとったもう一人の騎士が、太陽の光を浴びて鮮烈な輝きを放ちながら弾丸のように駆け抜け、瞬く間にドラゴンの真下へと迫った。
水色の鞘を背負った騎士は、疾走しながら右手で暗青色の剣を引き抜き、勢いよく空に向かって振り上げた。瞬間、地面から鋭い氷の柱が伸び上がり、空中にいるドラゴンの尻尾を絡め取り、一気にその動きを封じる。騎士は氷の柱を駆け上がり、ドラゴンに迫っていく。
「ブルー!」
地上で状況を見守る銀色の騎士が、相棒の名を呼んだ。
ドラゴンは咆哮を上げ、強引に体をねじり氷を砕いた。尻尾からは血が滴り落ちるが、まだ逃げる力は残っている。
氷柱を登り切った騎士は頂上から高く飛び上がり、ドラゴンに向けて左手を差し出した。手のひらに現れた水色の魔法紋章が五つの水滴を生み、それらは瞬時に成長して鋭い氷の槍へと変貌した。
「ライア」
中性的で柔らかな声が兜の奥から静かに響くと、五本の氷槍がドラゴンへ一直線に放たれた。槍は正確にドラゴンの後脚と翼を貫き、その冷気が巨体を麻痺させ、動きを完全に止めた。ドラゴンの体が地面へと落下し始める。
共に地上へと降りてくる白と水色の鎧の騎士が銀色の騎士へ合図するように声を掛けた。
「アデリーナ」
「ええ」
短く答えたアデリーナは、落下するドラゴンに向かって疾走しながら白い鞘から銀色の剣を引き抜いた。
加速は一瞬で限界に達し、墜落したドラゴンとの距離はすでに五メートルを切った。アデリーナはその間合いで一瞬だけ動きを緩めると、腰を低く落として構える。地を這うような姿勢で銀色の剣が深く引き絞られ、鮮烈な紅い輝きを帯びる。
「烈火!」
凛とした声が響いた瞬間、アデリーナは地面を蹴り、一閃と共にドラゴンを通り抜けた。その直後、彼女の背後で巨大な炎が爆発的に巻き起こり、ドラゴンの巨体を飲み込んだ。轟音が響き渡り、衝撃波が辺りの空気を震わせる。
アデリーナが剣を鞘に納めると、その背後からブルーの静かな声が届いた。
「やりすぎ」
ブルーは淡々と言い放ち、焦げて黒くなったドラゴンの死骸に向かって手のひらを掲げる。たちまちドラゴンの身体は氷に覆われ、漂っていた焦げ臭さが次第に薄れていった。
「相手がドラゴンでも、油断は禁物です」
アデリーナの鋭い反論にブルーは沈黙を返すだけだった。ブルーは近くの衛兵にドラゴンの処理を任せ、『炎の暁』に関する目撃情報を収集するよう指示した。
『炎の暁』――それはこの世界を脅かす邪悪な存在。歴史上もっとも禍々しい魔女、『炎の魔女』が残した災厄の名残である。アデリーナがこの世界に召喚された直後、女王シルビアとブルーは壮絶な死闘の末、その魔女を倒したが、その爪痕は計り知れなかった。
それから二百年が経ち、街並みはすっかり美しく再建され、かつての惨状を知る者はもう誰もいない。それでも炎の魔女の遺産としてドラゴンや『炎の暁』が今もなお世界を脅かしているのだ。
ブルーの隣に並んだアデリーナが静かに口を開く。
「最近、『炎の暁』の動きが活発ですね。ドラゴンの出現も増えているし、暁の騎士団の姿も頻繁に見られます――明日はシルビア様が仰っていた『約束の日』。建国祭だというのに……」
言い終えたアデリーナは、魔法で兜だけを消し去った。長く美しい薄桃色の髪が風に揺れ、大きな銀色の瞳が静かにブルーを見つめる。
「……約束の日」
ブルーは静かな声で繰り返しただけで、兜を外す気配は一切見せない。その態度にアデリーナはすっかり慣れていた。この国の女王シルビアに召喚されて以来、ブルーとの付き合いは二百九十一年にも及ぶ。
兜の向こうを一度も見たことはなかったが、戦場での呼吸は完璧に合っていた。そして何より、アデリーナは密かにブルーへ恋心を抱いていた。
「ブルーにも知らないことがあるのですね」
「毎年建国祭はある。ただ、今年は三百二十四年目の特別な節目だと聞いている」
柔らかな声音で淡々と告げるブルーの言葉に頷きながら、アデリーナは城の前に立つ女神の白い石像に目をやった。その姿はまるでシルビア女王その人を映したかのように繊細で美しく、いつまでも色褪せることがなかった。
「明日ですね、建国祭。何事もなければいいのですが」
「はい」