『機密重要被検体失踪事件』②
■ エデニア州 セントラルストリート ■
反戦軍の買い出し組は、なるべく顔が割れていないメンバーで選出された。
その中にユーリとカインも含まれている。ただ、ユーリは志願だ。彼女はどのような状況でも、狙われていると分かっていても、自分から動きたくなる性分なのだ。
「いて……」
心ここにあらずの状態にあったカインは、歩いていた町の人間にぶつかってしまった。
「ああ済まな……チッ。何だノイドか」
「…………?」
その人間は、悪態をつきながらその場を去っていく。
一緒に歩いていたユーリは、すぐにカインの傍に寄る。ぶつかりはしたが、別に怪我は負ったわけではない様子だった。
「何今の……」
不快な表情を見せたユーリに説明するのは、後ろを歩いていたグレンと、老婆ノイドのキクだった。
「あたしらノイドは、ここじゃ嫌われもんさね。そうだろグレン」
「……ああ。オールレンジはノイド帝国と隣同士で、ずっと仲が悪い。国は人間とノイドが両方仲良く共存している体を出しちゃいるが、都市部でのノイドの扱いは……最悪だってんよ」
「そう……なんだ」
言われて注視すると、町を歩いているノイドはほとんどいない。
歩いている数少ないノイドも、ほとんどが道の端を隠れるようにして歩いている。
「けど、地下の裏社会は割とそうでもないってんよ。向こうは金だけがものを言うからな。皮肉な話だってんよ、まったく」
「……」
「……戦争が終われば、少しはこの国も変わる。帝国だってそうだってんよ。俺は……そう思い続けてる」
「グレンはもしかして……この国出身なの?」
「……故郷は帝国との国境付近にあった。今はもう……無いけどな」
「……グレン……」
「アカネと俺は、九年前の帝国とオールレンジの戦争で故郷を失って、都市部で暮らし始めた。けどここでのノイドに対する差別は酷くてな。俺はずっと……アカネに対して酷ェことを言う奴が許せなかったってんよ。でも、アカネは気にしなくていいって言い続けて……だから俺は気付いたんだ。悪いのは、差別しちまう弱い心を持つヒトじゃなくて、弱い心に差別意識を植え付けた環境だって。そんでノイドの国である帝国がもっと世界に受け入れられるようになれば、きっと差別はなくせる。俺は……そう思ったんだってんよ」
「あたしやツツジ、それにザクロもグレンに同調して……そこからかいね。『反戦軍』を立ち上げようってなったのは」
「……そっか」
話に夢中になっていたユーリは、そこでカインが近くにいないことに気付く。
「あれ……? カイン……カイン!?」
「どうしたってんよ」
「カインがいない!」
「「何!?」」
買い出し組はここでいくつかに別れ、カインを捜索し始めることになる。
そして当の本人はというと、自分がどこに向かっているのか、自分自身も分かっていなかった。
*
■ 無限研究所 機密特殊実験室 ■
その少女は、四肢を拘束された状態でベッドに寝かされていた。
偶然か、奇跡か、運命か。この日の拘束は、完全ではなかった。
右手首に巻き付いた鉄の鎖は、錠に鍵が掛けられていなかった。
「……ん……」
右手首が自由に動く。
しかも、すぐ横の机の上に、鍵が置いてある。
少女は拘束を抜け、実験室を飛び出した。
しかしこの研究所の構造上、部屋から出てもすぐに何者かに見つかってしまう。
逃げ場はない。三十階建てのビルの二十四階から、脱出する手段は存在しない。
一階の出口付近には警備員がいる。エレベーターは使えない。彼女は階段を上がり、屋上へと向かっていった。
唯一の逃げ道は、『そこ』にあったのだ。
*
■ エデニア州 セントラルストリート ■
「あれ何?」
「ん? 何かいたか?」
「……いや。気のせいかしら……」
気のせいではない。民衆の目には確かに、空を駆けるかのような人影が見えていた。
その人影の正体は、ハンチング帽を被った小さなノイドの少年──カイン・サーキュラスだ。
「ハァ……ハァ……ハァ……。うぅぅ……ぐぅッ!」
この時、カイン・サーキュラスは無意識のうちに高い場所に向かっていた。
理由は自分でも分かっていない。ただ、何となく、世界を俯瞰で見たかったのかもしれない。
より高い場所を目指していた彼は、国家連合本部の巨大なビルへ向かう方法を探していた。
だから建物の壁を蹴って、屋根を上って、ジャンプして、高く、高く、高くを目指す。
そして偶然か、奇跡か、運命か。
カインは無限研究所の屋上に一度、着地することになる──
*
その少女に家族はいなかった。それは、何かしらの原因によって『失われた』という意味ではない。
生まれた時からいなかった。いや、もっと言えば、彼女は親を持たずして生まれてきた。
彼女の人生の全ては、何者かによる実験でしかない。
朝起きて食事をとったのち、実験室に移動して拘束され、薬を投与されたり、体を弄くられたり、苦痛を浴びせられたりする。
ストレス耐性が強い所為で、どのような目に遭わされても彼女は病むことがまずない。
だがしかし、彼女は虚しくただ純粋に、生きる意味を見失っていた。
実験の意味を、以前研究者から耳にしたことがあった。それは、世界の戦争を止める為だという話だ。
彼女は冷静に、その言葉の真意を汲み取っていた。
それはただの方便だ。正義などという言葉を盾にして、恐ろしい力を手にしようとしているだけ。それが研究者の真意だと、彼女は理解していた。
故に、真に世界の為を想うのならば、彼女は自分が生きているべきではないと考えていた。
だからこそ彼女は、拘束を抜けて実験室を飛び出し、研究所の屋上へと向かっていったのだ。これが彼女にとって唯一の、逃げ道だったのだ。
「……冷たいなァ。外の世界って……こんなに冷たいんだ……」
屋上へと上がった彼女は、その赤褐色の長髪を風になびかせる。
オールレンジの七月は秋。風も冷たくなり始める季節だ。
(……生きる意味は無い。ここからは逃げられない。なら、私は……)
「ハァ……ハァ……ハァ……」
少女が覚悟を決めたその時。カイン・サーキュラスがこの屋上に現れる。
少女はカインの姿に気付いていないが、カインもまた、彼女の存在に気付けていない。
(……どうしてこんなところに上ってきたんだろう。高い所に行けば……兄貴やハルカに会えるとでも思ったのか……? 馬鹿だな……俺は……)
何もかもに絶望しているが、それでもまだ、カインは死ぬ気などない。
進むべき道は見えないが、それよりもまず、彼はシンプルに『死にたくない』と感じていた。
──「良いかカイン。お前には病気の母親がいる。会いたいだろ? だがな、重い病気なんだ。治すには金が足りない。母親に会いたいか? なら……フフ。金を集めてこい。母親の病気を治すために……親孝行って奴だ」
かつてリーベル自治区でスリを働く前のカインは、そんな犯罪組織の男の言葉を、素直に信じてしまった。
しかし母親がいるなどというのは方便だった。社会のクズの真意はただ、子どもを利用して金稼ぎの足しにしたいだけ。
ハルカに助けられ、オリジナルギアを貰ったカインは、そのギアの練度を上げて男たちを吹っ飛ばす。
一度は裏社会との関わりを絶ったが、リーベル進撃ののち、彼はまた同じ犯罪組織の下で働かされることになってしまった。
どうしようもない自分を変えるため、誰でもいいからとユウキを頼った。
それでも快く受け入れてくれた彼のことを、本気で慕い、ありがたく感じていた。
仮にもう会えないとしても、カインはまだ彼の後を追うつもりはない。何故なら彼の行動原理はいつだって、『家族が欲しい』という願望だけ。
死にたくはない。『一人』のままではまだ、死にたくない。
「……え?」
カインは顔を上げ、その少女に気付いた。
この屋上から今にも落ちようとしている彼女のもとに、彼は思考停止で走り出す。
(寂しかったなァ……私の物語……)
そして、全てを諦めて身を投げる彼女に──
「危ないッ!」
「え……」
カインは自分と同じくらいの背丈の彼女を抱き寄せて、そのままこちら側に倒れ込んだ。
そして、押し倒す形になってしまう。
「だ……誰……?」
そしてカインは、自分でも何故か分からぬまま涙を流していた。
今まさに一人で死のうとした彼女を想って、涙を流したのだ。
「何……してるんだよ……」
「貴方は……」
「死んだら一人なんだぞッ!?」
「…………ッ!」
その時。少女を追ってきていた所内の警備員と研究員が、階段を上ってこの屋上に現れる。
「もう逃がさんぞマリアッ!」
「早く戻れ! 頼むから戻れクソガキッ!」
戻るつもりはさらさらない。『マリア』という名のこの少女はもう、この場で自分を終わらせようとしていたのだ。
だが、絶望していたマリアはここで、カインに希望を見てしまう。
「……助けて……!」
「……ッ!」
そして、絶望していたカインはここで、マリアに希望を託される。
カインがここに訪れたのは、彼の意志によるところではない。全ては定められた運命であり、奇跡のようなもの。
彼の人生の全ては、『奇跡』によって成り立っていた。
*
その気になればカインは、追っ手から逃げるのも容易いほどの速力を持っていた。
しかも、マリアを抱きかかえながら移動する器用さも筋力も、備わっている。
誰も見ていないところで、ずっとカインはオリジナルギアの練度を高め、自身の身体能力を上げ続けていたのだ。
「凄い……」
マリアは自分を抱えながら屋根の上を走って移動するカインを見て、言葉を飲んでいた。
必死に走り続ける彼の姿は、特別輝いているような気がする。
そして追っていた研究員の人間は途中で、これ以上は無理だと諦めざるを得なくなった。
「クソ……何だあの速さは!? この身体能力……普通のノイドじゃない! おい誰か! スカム氏に報告を!」
彼らは冷たい汗が背中に流れるのを感じていた。
あの少女の逃亡を許したという事実がどれだけのことか、もう理解していたのだ。




