『before:暗闘』
全ては虚しい零落に繋がっている。
仮に私に間違いがあったとすればそれは、この間違った世界に生まれたことだ。
今更時を戻すことはできない。視界が乱脈の闇に覆われる中、最後に私はその名前を呼ぶことしか出来なかった。
「………………ゼロ…………ッ!」
*
◇ 界機暦三〇二八年 ◇
■ 国家連合本部 世界経済理事会ビル ■
私の名は、シャフ・ザフマン。国家連合国際貿易事務局室室長にして、国際貿易事務局長秘書官筆頭。
主な任務としては、国際貿易事務局長の補佐として、そのサポートをすること。
だがしかし、私は局長であるその人物を、完全に信用してはいない。
私だけではない。彼と浅い関係を持った者ならば、まず全員が全員彼を奇異な目でみるはずだ。
一方で、納得はいかないが彼と深く関わった者の多くは、どういうわけか彼を信用するようになる。
そのことが私には不気味で仕方がない。彼を信用する根拠など、何一つ無いはずなのだ。
そう──何一つ。
「ミスター・ゼロ。先日の、アシュラ国の海運の件ですが……」
『彼』は、ただ手で制すだけで私の口を塞いでみせた。
右目を隠した長い白髪の男。男で人間。恐らく、完全なただの人間。
彼には、名前というものが存在しなかった。
出身も不明。幼い頃の記憶もなく、当然親類縁者は一人もいない。
何も無い自身を表すために、彼が自ら付けた名が──
────────『ゼロ』。
「解れたよ」
手で制してきたから何かと思えば、やはり何かは分からない。
私は仕方なく彼に問い返す。
「……どのようになったわけですか?」
「言葉通りの意味だ。ああ。『ほつれた』ではなく、『ほぐれた』と言うべきだったか」
「……ヒレズマは整理がついたのですか? 政府保証を可能にしたと?」
「その予定という地合いだそうだ。……いや、違うな……。ふむ、私はまだ上手く用語を使いこなせていない……。伝わっただろうか?」
この立場にいながら無知を装う意味は無い。この男は、本当につい最近経済界を知ったのだ。
あるいは、無知を装うことに、何らかの意味を彼だけが見出しているか。
「……よく伝わりました。その情報はどこで?」
「忘れていないか? 私は三週間前まで、ヒレズマ・インドラ国交貿易艦隊提督だった男だ。知人からの情報は入る」
「加えて、ヒレズマ共和国の外務大臣でもあった。その期間は僅か……一年ですが」
「……何か言いたそうだが?」
「……いいえ」
彼を信用できない理由はそこにある。
どう考えても、明らかに、この男の出世軌道は常軌を逸している。
国家連合職員自体は、有能な者ならば世界中のあらゆる『ヒト』が、就職することが出来る。
しかしこの男は、経歴があり得ない。
ヒレズマのとある貿易団体に拾われた記憶喪失状態の彼は、己のことを何も思い出さずとも、その能力の高さだけで組織の番頭に成り上がる。
ここまでで約一ヶ月。それから彼を知った政府の役人が、彼を外務省に誘う。
学歴もなく、資格もなく、名前すらない彼は、それでも筆記試験を首席で突破。
それから三年……たった三年で、外務大臣にまで上り詰めた。
しかしその地位もすぐに捨て、彼は特別待遇推薦という聞いたことがない形で、国家連合に籍を置く。
一体いつからなのかは定かでないが、既に彼は、国家連合総事務局長という事実上の連合のトップに、能力を認められているのだ。
*
■ 国際貿易事務局室 ■
事務局室の机は、常に書類で埋もれている。
この部屋の責任者は私だが、普段使用している者は誰もいない。
基本的に多忙な職員は、皆世界中を飛び回っているか、あるいは会議に出ずっぱり。
たまにこうして訪れる時は、煩雑とした机の中から欲しい書類を探す時だけ。
もっとも、なくても困らない書類だからこそ適当に置かれているので、そんな時すらなかなか来ない。
私と彼は、ただ人目につかないという理由だけでこの部屋にやって来た。
「……さて」
私は背に冷たいものを流していた。
実は以前から、私はこの男のことを調べている。もしかしたら彼は、自分の身辺の調査をしている者がいることに気付いたのかもしれない。
彼は適当な椅子に座り、楽な姿勢で私の方に視線を向けてきた。
「……国家連合を抜けたノイド帝国は、ますます世界から孤立し始めている。一方の我々国家連合は、ノイド帝国を共通敵にすることで、世界の国々を結束させようとしている。……ザフマンくん。君はこの世界の流れに……違和感を持っていないかい?」
「……!? それは……」
確かに私は違和感を抱いている。六年前に一度、帝国は連合の理事国であるオールレンジ民主国との戦争に勝利し、その権限を増やした。
その後もまだ戦力を増し続け、今ではもう世界征服を目論んでいるとまで噂されている。そして恐らくだが、その噂は紛うことない事実だ。
「帝国だけではない。軍備拡大を続ける帝国に対して、慎重な姿勢を崩さない国家連合も妙だ。経済制裁を怠る道理はない。まるで戦争が起こることを……許容しているかのようだ」
「ミスター・ゼロ。貴方は……」
「だが、ここまではいい」
「?」
よもやこの男が世界の情勢を憂いでいるとは思わなかった。
……だが私が彼の正体に対して立てた仮説が正しければ、今彼が見せている鬱屈とした表情は、演技であるに違いな──
「双方に、戦争を引き起こそうとしている者がいる」
それはまさに、私が考慮していた可能性だ。
「……そしてザフマンくん。君は……この私を疑っている。戦争屋として……ね」
「……ッ!」
やはりそうだ。この男は、私が不信感を持っていることを理解していた。
そしてこの反応。まさか……。
「……その発想は、かなり正鵠を得ていると言って良い」
「な、何ですって……?」
「私は確かに疑われるに足る行動を続けている。戦闘用ギア、鉄紛……武器製造のためには多くの資源を要し、その運輸には能率的な手段が確保されなければならない。貿易艦隊提督を務めていた私ならば……秘匿された海運ルートを使用させることが可能。実際私はこの一年、帝国とオールレンジ民主国の両方を度々行き来している」
「……しかしそれでは疑問が生まれます。ミスター・ゼロ。私は……」
「皆まで言う必要はない。単純に、私の活動期間が短すぎるという話だろう? 帝国の不穏な動きは、間違いなく六年前の大国間戦争よりも以前からあった。……だが、私を戦争屋として考えるのならば、この可能性にも至ったはずだ」
何だ。
この男は何を言っている。
いや、言っている意味が分からないというのではなく、今それを言う意味がない。
何故自ら認めるようなことを……。
「……真の黒幕は、私の背後にいる」
どこか周囲を気にした様子で、彼は小さくそう言った。
だが……何故だ? 何故それを私に言った? それによる利点とは何だ? まさか、私を引き入れるつもりか?
「………………と。ここまでが、三週間前までの話」
「…………は?」
彼は少し息を吐くと、どこか緊張を解いた様子で背もたれに寄り掛かる。
「私は『あの男』を裏切った」
「? …………ッ!? な、何を……な、ど、どういう……?」
「私が何故『ゼロ』と名乗り、この地位についたと思う? 全てはあの男を……本物の『ゼロ』を、討つためだ」
「ほ、本物……? 何を……あ、貴方が……貴方が『ゼロ』ではありませんかッ。まるで意味が……」
「独自に調査を進めた君の手腕を、私は買った。……協力して欲しい。本物の『ゼロ』は…………いる」
「わ、私には貴方が何を仰っているのか理解できていない。そ、それではまるで、貴方が偽物のゼロであるかのようで……」
「……この顏は、私があの男の影武者として立ち振る舞えるよう、整形したものだ。本物の『ゼロ』は、既に顔を変えて……今もどこかで、世界が混沌へと向かうことを悦び、笑いながら過ごしていることだろう」
眉間に皺を寄せ、彼はその男の顔を思い浮かべたのか、歯をギリギリと噛み締めた。
だが、影武者だと? この優秀な男が影武者? そんな馬鹿な……。
「……私が何故出自やらなにやらを隠して生きているか。それは、誰もあの男に決して近づけないようにする為だった。仮に『ゼロ』の正体を探っても、辿り着くのは私の正体だ」
「……ッ! そ、それを真実だとする根拠は?」
「……これから一年後、帝国はオールレンジに宣戦布告をする。いや……計画では、『人間』への宣戦布告だったか……」
「ば、馬鹿な……。それはまさか、秘密の暴露のつもりですか……?」
「……仮に誰かが開戦を止めてくれたなら、根拠として主張できなくなるがね……。出来れば私も、それを望んでいる」
「……!」
これが仮に嘘ならば、何の意味も無い嘘だ。
戦争を起こそうとしている者が、その計画の一端を語るなど論外。
…………この男の目は、嘘を吐いているようには見えない。
「……貴方と同じ姿をしていた、本物の『ゼロ』がいる。この世界のどこかに……ですか?」
「ああそうだ。それと……あと一つ、根拠として提示は出来ないが……『証人』になり得る人物はいる」
「人物……」
「人間だ。人間の女性。顔を変える前の、本物の『ゼロ』を知る者……」
「そ、それはつまり、今の貴方の顔を……本物の『ゼロ』として認識している女性……ですか?」
「そうだ。そして本物の『ゼロ』がどういう存在か、私以上によく理解している。話すだけで私の言葉に嘘が無いと判明出来るだろうが……残念なことに、今は行方が知れていない」
「そう……ですか」
「私もゼロの加担者。彼女は私のことも恨んでいることだろう。いずれにしろ味方には……決してならないはずだ」
「……」
悲しげな目をしているが、罪悪感も見受けられる。
一体その人物と、彼やゼロの間に何があったのかは分からないが、捜索する必要はあるように見える。
仮に、戦争を止めるべきだと考えているのなら──
「…………ミスター。貴方の……貴方の本名は何というのですか?」
「……『アブセンス』。それが、私の……私を表す、唯一の名だ」
「……そうですか。ミスター・アブセンス。私は……申し訳ありませんが、貴方の正体を知り、それで…………満足してしまった。私という人間は、戦争を止める気になれるほどの正義漢では……ありません」
そう言うと、彼は確かに少しだけ絶望を感じさせる黒い瞳を見せ、それから立ち上がった。
「……そうか。構わない。戦争によって得をする国は多い。加えてそもそも、我々の故郷であるヒレズマは永世中立国。巻き込まれる可能性は低い。首を突っ込む必要はない」
「……初めに疑ったのは私です。一体……どうして貴方は、『ゼロ』のフリをし続けるのですか?」
「……誘き寄せるためだ。今も世界のどこかで、あの男は狂う世界を肴に血酒を浴びている。そして奴に伝えるのだ。いずれ必ず、私が貴様を殺し、貴様の信念の全てを崩すと……!」
彼が何故ゼロに従っていたのかは分からないが、その憎しみの度合いは見て取れる。
……果たして、私は本当にこのまま空惚けていてよいのだろうか。
「……ザフマンくん。今日ここで話したことは……すべて忘れてくれ」
「は、はい」
「……ただ」
「?」
「……もし、先に述べた女性の情報が少しでも入ったら、その時は教えてくれないだろうか? 彼女には私からも……謝罪しなければならない。いや……仮にこの命を彼女に与えても、許してくれることはないだろうが……」
「ま、待って下さい。あ、いや…………わ、分かりました。では、その、それではまずその……その人物の、姿かたちだけでも教えて頂かないと、探しようが……」
すると初めて、強張った彼の表情が崩れ、笑みがこぼれた。
「……ああ、そうだったな。済まない。その人物は……きっと今も宝石のヘアアクセサリーと、左腕に……紐の付いた機械の腕輪を、付けているはずだ……」




