ペンダント
【バス】
水中から陽射しをながめているようだ。初夏だがなぜか暑さは感じない。
現実感のない、映画をみているような感覚でバスの中程の席に座っている。
首もとのペンダントの表面を右手の人差し指でなぞりながら、移り行く景色をぼんやりながめている。
中世のコインのような刻印が浮かんでいるが、表面の磨耗が激しくはっきりとはわからない。
【海辺の町】
潮風に触れたくなって、バスに乗った。○○海岸行きと書いてあったが、行った事はない。もうかれこれ1時間は乗っているだろうか。
他の乗客がいなくなって、乗ってくる人もないところを見ると海水浴場ではないようだ。バス停で止まる様子もないので、日常的に使われない路線らしい。
そんな事を考えていると終点のアナウンスが聞こえた。
降りたとたんに身体を包んだ空気で、海辺の近くであることを感じるが期待した景色は見えない。
どこまでも続く路と緑の草原の向こうに林のようなものが見える。その向こうが海らしい。
初めて来たはずだが懐かしい感じがする。
舗装されていない道路に無造作に打ち付けられた朽ちかけた木製の看板の示す方向に歩きだした。
足下には海辺特有の生命力の強そうな白や黄色の花が一面に咲いている。
しばらく歩くと潮の香りが強くなり突然視界が開けた。
ゆるやかな入り江になっている海岸に向かって草原の翠が砂浜の白に溶け込み海水に吸い込まれているように感じる。
すぐに深い藍色になっているのは海底が落ち込んでいるのだろう。
海水浴場になりにくい地形のようだ。
なんとなく記憶のどこかにあるような気がする。
砂浜づたいに入り江を回り込む草原の小路を上がって行くと、人の声が聞こえた。
近付いていくとどこからともなく生活感のある音が沸き立ち突然海辺の町が現れた。
裏口から集落に入ってきたらしい。
意外だがそこそこ人が暮らしている集落のようだ。話し声は聞こえるけども、方言が強いのか、はっきりとは聞き取れない。
画集に描かれた古いヨーロッパの田舎の街並みにも似ている。
町中に入ると住人とすれ違うが、よそ者が入って来る事に慣れているのだろうか。
こちらを見ても関心を示すことなく通りすぎてゆく。
過疎化が進んでいるのか子供は見当たらない。
そういえば潮風と強い陽射しが刻まれ彫りの深い顔立ちがアングロサクソン系に見えなくもない。
【乗り合い周遊船】
歩き疲れた頃、小さな港の桟橋に出た。何度も修復しペンキを塗り直したような古いが頑丈そうな船が数隻、静かに波に揺れている。
「乗るかね?」振り向くとどこから現れたのか日に焼けた無表情な老人がこちらを見つめている。「間もなく出るよ」周遊船のようだ。
「ええ」案内されるまま老人に代金を払い、木造だがしっかりした造りの船に乗り込んだ。
40フィートほどの中型の漁船のようだがちゃんと客室があり、部屋のまわりを囲むように席が配置されている。
ゆったりと10人乗りくらいだろうか。
客室は薄暗く、外から入る陽射しがほんのりと辺りを照らしている。
先客の男性が1人。
入り口に近い左舷のコーナーの席で居眠りをしている。
身なりはきちっとしているがシックな洋装でこの船室には似合わない。
旅行者だろうか。
外からかすかに子供の声がしているので家族旅行かもしれない。
右舷の中程の席に腰を下ろしたとたん、歩き疲れたのか薄暗く静かな船室のせいか目蓋が重くなった。
軽く目を閉じると、エンジンが静かに動き始める振動が伝わってきた。
【嵐】
ドンッという軽い衝撃を感じた。
いつの間にか外海に出たらしく波が高くなっているようだ。
そこそこのスピードが出ているらしく船体が一定のリズムで海面に叩きつけられ跳ね返る振動が伝わってくる。
男の姿はない。
どこかで下船したのだろうか。
外から射し込んでいた陽射しは無くなり船室のランプが辺りをゆらゆらと照らしている。
ランプの油か船のオイルの匂いが船室を満たし潮の香りと混ざり独特の空気を作っている。
外の空気が吸いたくなり肩越しに窓の方へ首を捻ると青白い閃光が映った。
潮がこびりつき長年潮と陽射しに晒されたオレンジ色がかった窓に大きな雨粒が叩きつけ左から右に流れている。
窓が厚いのだろう、音は聴こえない。
時折大きな波が雨粒を洗い流す。
暗い窓に男の顔が重なった。
「嵐になったね」どこから現れたのか、先ほど居眠りをしていた洋装の男性だ。
皺の刻まれた表情から60代前半くらいか、それなりに苦労を乗り越えた穏やかな雰囲気を漂わせている。
「君は何故乗ったのだね」
「?」質問の意図がわからず困惑しているとそれに気付いたように、まあいいという表情をして目線を落とした。
外の嵐を感じない不思議な静けさに包まれた。
【手品】
「そのペンダントを見せてくれないか」男性にペンダントを渡すと、厚みのある指先でかざして興味深そうに見入った。
一瞬、ランプの灯りに照らされコインの刻印がハッキリと見えた。
やはり中世のものだろうか王冠をつけた女性の横顔やコインを縁取る植物が浮かび出しているのを不思議な気持ちで見つめていた。
コイン自体が発光しているようだ。
「珍しいコインだね」
「昔海辺で拾ってペンダントに加工したんです」
なぜか落ち着く気がして長年御守りのように身に付けているが、こんなにハッキリ刻印が見えた事はなかった。
「ありがとう」男性からコインを受け取り顔を近付けた。
いつものコインだ。
磨耗が激しく刻印は見えない。
拾った時と同じ長年海中を漂い削り取られた様子だ。まるで手品を見ているようだった。
いつの間にか嵐が治まったのかシンとした静寂の中にいた。窓を振り返ると深い濃紺の水中が見える。沈没?
が‥不思議と慌てる気持にはならない。なぜか特に大きな問題にも思えなかった。事実、浸水もしていないし、ランプも何事もないように黄色く辺りを浮かび上がらせている。
洋装の男性もまたうたた寝に戻ったようだ。
シンとした海中に抱かれた空間も悪くないかもしれない。
意識が深い海底に引き込まれていくように落ちていく‥
【沈没船】
朝日の射し込む部屋に珈琲の香りが漂っている。いつもの朝だ。昨日、潮風に当たりたくなって衝動的にバスに飛び乗った。
最近の仕事尽くめの毎日に我を忘れ自分を見失っていたのかもしれない。
バスは巡回路線で乗ったバス停で起こされた。「あまりにも死んだように眠り込まれたので、途中で何度かお声かけはしたんですがね」
運転手さんが苦笑いしていた。
シャワーを浴びてキッチンに戻ると珈琲にトーストの香ばしい香りが混ざりあった。
テレビで沈没船の引き揚げのニュースが流れている。
「まさに海に眠る歴史ですね、ロマンを感じます」アナウンサーの女性が張りのある透明感のある声で現地レポートしている。
戦時中、ヨーロッパから美術品を守るため、輸送していた船が嵐で沈んだそうだ。
皮肉にも美術館そのものは戦災を逃れたが、美術品は略奪されてしまった。沈没船で輸送している中に最も価値のあるものがあったと考えられているそうだ。
入江の回り込んだ辺りに沈没したそうで、嵐の影響は受けにくいが、常時潮の流れがあるため、奇跡的に発見されずにいたらしい。
偶然にも昨日乗ったバスが通った入江だ。
降りたような気がするが夢だろう。
無意識に首もとを右手の人差し指でなぞりながら、不思議に思う。ネックレスなんてしたことないのに指が何かを探している?
ま、いいか。せっかくの休日の清々しい朝の時間を楽しむ事にしよう。
【エピローグ】
沈没船が引き揚げられた入江の町は、一時的に観光ブームが訪れた。過疎化しつつあった町は町内会が雇ったコンサルタントが手腕を発揮し、歴史と美術とどことなく中世ヨーロッパの
漁港に似てなくもない時間が止まったようなこの町を見事にブランディングしたのだ。
定期的に出る周遊船はどの便も満席で入江を回っている。船長のマイクアナウンスが「この辺りが引き揚げ場所です」と案内している声がかすかに潮風に乗って聞こえている。
また周遊船の航跡がエメラルドグリーンの透明な海に白い線を引いていく。
白い線が消えるとゆらゆらと見える珊瑚と一体化し、貝や藻に覆われた白いスカルが、水中に射し込む光を眺めている。
首もと辺りにはハッキリとした刻印が浮かんだコインが時折光を受けて反射していた。