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WEAK SELF.  作者: 若松だんご
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三十二、かぎろひ立つ(五)

 「……ただいま」


 パタリと、後ろ手で閨の扉を閉める。


 「大津……さま?」


 眠っていたのだろう。床に横たわっていた山辺が、瞼をこすりながら目を覚ました。


 「ごめん、起こしちゃったね」


 なるべく音を立てないように戻ったつもりだったのだけど。


 「……大津さま、お怪我を!!」


 慌てて跳ね起きて、近づいてくる。ああ、手燭で気づけるぐらいひどい殴られ方をしているのか。どおりで口の中がやけに鉄気臭いままだと思った。


 「大丈夫だよ。ちょっと殴られただけだから」


 少し下から心配そうに眉を寄せて見つめる山辺。


 「今、手当てするものを持ってこさせます、夏見、なつ――」

 「いいよ」


 短く言って、彼女を抱きしめる。


 「大津さまっ!?」


 驚き戸惑う山辺。彼女の体は柔らかく華奢で、力を入れれば壊れてしまいそうな気がしたけれど、それでも確かな温もりと強さと心安らぐ香りがあった。


 「今まで、――ごめん」


 彼女の細い肩に顔を埋める。


 「僕はきみを守りたくて、きみを守ろうとして、きみを傷つけるようなことばかりしていた。川島に叱られたよ、きみをもっと大事にしろって。もちろん自分のことも」


 「大津さま……」


 「まったく独りよがりもいいところだよね。カッコよく守ってるつもりでさ、きみを傷つけてることに殴られるまで気づいてないんだから」


 愚かな男だよ、僕は。

 一人でなんでも抱え込んで、悩んで、勝手に突っ走る。

 周囲の人がどれだけ心配しているのか、そんなことにも気づけない馬鹿なんだ。


 「好きだよ、山辺。こんな僕だけど、許してくれるかい?」


 未来を嘱望される立派な皇子じゃない。

 誰もが羨むような文武に優れ、自信に満ちた皇子じゃない。

 未来に怯え、血に怯える。何もかも捨てて逃げ出したくてしかたない、弱い、弱い人間だ。弱くて、逃げ出したいのに逃げられなくて、自暴自棄になってみたりするけれど、結局どうにもならなくて、こうして縋り付くように泣くしかない男なんだ。


 「大津さま。大津さまは、いつだって素晴らしい男子(おのこ)、わたくしの自慢の背の君です」

 

 細い指、小さな手が僕の背中を包む。


 「――お慕い申し上げております、ずっと。あの吉野で娶された時から。気持ちは変わりません。あの時、わたくし、神に感謝いたしましたのよ? こんな素晴らしい方を夫にできるなんて、なんて幸せなのでしょうって」


 顔を上げ、彼女を見る。彼女もまた涙を流していた。


 「大津さまは、聡明でお強く、とてもとても心根お優しい方です。誰がなんと言おうと、わたくしはお慕い申し上げますわ」


 「山辺……」


 「それをおっしゃるなら、わたくしこそ、愛される資格があるのかどうか、お聞きしたいですわ」


 「あるに決まって――」

 「わたくし、あの采女に嫉妬いたしました。わたくしより華やかで、堂々としていらして、匂い立つように美しくて。わたくしではなく、彼女が愛されるのは当然だと。でも一番嫌だったのは、そんな風に思ってしまう自分の心でした。妬み、恨む、醜くく弱い己でした」


 「山辺……」


 「わたくしに魅力がないから、わたくしがそんな嫌な女だから、だから、大津さまは、わたくしを……、わたくしを……っ!!」


 「もういいっ!!」


 泣きじゃくる山辺を力いっぱい抱きしめる。

 自分を卑下し、相手を羨む。

 彼女に、そんな苦しい思いをさせていたのか、僕は。


 「僕の愛する人はきみだけだよ、山辺。それこそあの吉野で娶された時からずっと。悪いのは僕だ。僕が逃げてばかりいたから、きみにこんな思いをさせてしまった」


 「大津……さま……」


 僕が迷っていたばかりに。僕が覚悟を決められなかったばかりに。

 こんなにも大切な人を、こんなにも傷つけてしまっていた。


 「大馬鹿野郎は僕のほうだ……」


 父の元に来て、父の手駒になって得た、たった一つの「よかったこと」。

 初めて会った時、彼女は十二だった。姉、大来が伊勢へ下向した時と同い年。僕はまだ幼くて、姉を遠くにやらなくてもいいよう、守ってあげることは出来なかった。だから、その身代わりに大切にしようと思っていた。

 父を亡くし、母も亡くし、頼るべき一族もない皇女。姉とよく似た立場だった山辺。寄る辺のない彼女を支えてあげたい、守ってあげたいと思っていたのだけど。


 (守られていたのは、僕の方だったのかもしれない)


 彼女を守ろうと思うことで、生きてこられた。彼女の優しさに癒やされてきた。惑い、間違いはしたけれど、それでもこうして戻ってこれた。


 「愛してるよ、山辺――」


 彼女の頬に流れた涙を指の腹で拭う。拭った指でそのまま頬、顎をなぞり、顔を持ち上げる。

 かすかにわななく唇。そこに自分のものを押し当てる。最初は弱く。次に強く、深く。何度も角度を変えて。


 「フフッ、血の味がします」


 「こんな時まで、情けないなあ、僕は」


 そう言えば、殴られて、口の中を切ったままだった。

 笑い合い、見つめ合うと再び口づける。


 「あ……」


 漏れる彼女の吐息すら惜しくて、呑み込むように口づけ、抱きしめる。もつれるように床に転がり込むと、その柔らかな体を愛撫し、素肌を晒す。

 山辺は強い。

 郎女を妬み、僕を憎んでもいいのに、嫉妬する醜い自分を嫌いだと言った。他者ではなく自分を責める。それは心が強くないとできないこと。弱い者は、自分ではなく他者が悪いのだと責め、己の心を守ろうとする。

 華奢で、控えめで、穏やかで頼りなげな風情の山辺。

 彼女の芯は、とても優しく、強い。こんな僕を支え続けられるほどに。


 「愛してるよ」


 大丈夫。

 彼女となら、この先も生きていける。

 父の手駒でしかないけれど。それでもここで生きていける。

 ここには、川島もいる。高市異母兄上(あにうえ)だって、忍壁だって、泊瀬部だって。草壁だっている。

 選んだ道がどうあれ、大君の血が枷になろうとも、ここで生きていく。

 手が震えそうになるけれど、彼女が手を繋いでくれれば大丈夫。僕は一人じゃない。

 僕は、弱くもろく、そして強く生きていく。

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