三十、かぎろひ立つ(三)
――仕掛けたのは皇后。
そう思っていた。
あの狩り場での出会い。
石川郎女を助けたのは、女性たちのいた幕舎から遠く離れた場所だった。狩り場には、狩りをする者たちだけでなく、狩られる獣もいる。襲われ驚き、気が立っている獣がいるのに、幕舎を遠く離れるなどあり得ない。
どれだけ菜摘みに夢中になっていたとしても、あんな場所まで迷い込むことは考えにくい。それも一人で。采女にだって仕える女嬬はいる。
おそらく、あそこで待っていたのだろう。自分が馬を駆けさせた先を調べ、そこに先回りした。そして、足を挫いて動けないフリをした。――助けてもらうために。
紫草を取り出したのだって、そういうことをしてきたのだと思わせる演技。草汁のついた衣と、思わせぶりな花。誰もが誤解する。
そこに来て、あの返歌だ。誤解は深まる。
一見、歌を詠めなかった山辺の代わりに歌ったようにも見えるが、実際は違う。山辺は、彼女は少し遅れながらも返歌を詠もうとしていた。それをかき消すように歌ったのは郎女だ。
まるで狩りの最中、逢い引きしてきた男女の相聞歌のように。
自分でも迂闊だったと思ってる。だけど、本当に返してほしかったのは山辺だ。少しいたずらをして恥じらいながら返してほしかったのに。
幸い、草壁があの歌を詠んで牽制してくれたおかげで、臣下たちは宴席での戯れ歌と認識してくれたが、逆に言えば、そうして混ぜっ返さなければいけないほど危険な返歌だったのだ。
――この歌を受けるのは誰かしら?
あの時、即座に返歌を求めたのは皇后。
皇后が、自分と郎女を結びつけるようにけしかけたのだと思った。
采女との恋愛は禁忌。これを犯せば、たとえ帝の子であってもタダでは済まない。よくて流罪。最悪刑死。
初めて会った時、書庫へ書を借りに行かせたのも皇后。
自分の息子、草壁の帝位継承のため、邪魔な甥を陥れる罠を張ったのだ。
だが、その目論見は草壁によって打ち壊された。そこは、皇后にとって最大の誤算だったかもしれない。どちらの皇子も禁忌を犯したとなれば、どちらか一方だけ処罰を与えることはできない。公平性に欠ける。
これでまた別の手を考えてくるかと思ったが、石川郎女は相変わらずこちらへ秋波を送ってくる。積極的に関係を持とうと迫ってくる。高市が自分を隠してくれても諦めない。
惚れられている――などとは思っていない。
石川は蘇我。
純粋に惚れたとしても、そこに政治が絡むのは必定なのだから、公然と禁忌に触れることを良しとしない。
最初は皇后に命じられて動いているのかと思ったが、それも考えればおかしなことだ。ここで郎女が自分と騒動を起こせば、蘇我に利はない。たとえ命じられても断るはず。
それでなくても、蘇我は先の戦、それ以前の乙巳の変で、宗家が滅ぼされ衰退の一途を辿っている。危険な命には応じない。
ならば、なぜ?
裏に何があるのか確かめたくて、高市に諌められても関係を続けた。名を流し続けた。
その結果が、これだ。
(――父上、か)
まるで割れた陶片が元の形を取り戻すように、パチリパチリと符合がはまっていく。
父は皇后の目論見を利用したのだ。
采女である郎女との恋愛は禁忌ではあるが、その主である父が問題視しなければ、罪に問われることはない。その昔、祖父が功臣中臣鎌足に安見児という采女を下賜している。長年の功労をねぎらってのことだったが、自分の場合であっても適当な理由をつければそれは可能だ。狩り場での歌に感動したとか、なんとでも言えばいい。
大君は、神にしませば。
帝である父が許せば可能なのだ。
おそらく父は、蘇我の復権を願う気持ちも利用したのだろう。
――一族の娘を近づけ、あわよくば子を儲けさせよ。その子は、将来皇后と争う時の駒となる。
草壁に男子が生まれたのだから、こちらにも男子がほしい。
妃である山辺が子を産まぬのなら、代わりの女を。
将来立后することは難しいかもしれないが、その生まれた子は、卑母腹ではないから帝位を継ぐことができる。その子が帝位に就いた時、それは蘇我が復権を果たした時。
蘇我からしてみれば、自分は蘇我倉山田石川麻呂からみて曾孫にあたる。そこに自分たちの娘の血を入れることができたなら、生まれた子のなかで蘇我は古の力を取り戻せる。山辺にも蘇我の血は入っているが、彼女に子ができぬのならと業を煮やしたのだろう。
(あくまで、手駒……か)
子の出来ぬ息子を心配したのではない。手駒が欲しかっただけ。
(いつもそうだ)
あの戦の時も。
自分は敵方に取られた。そのままでは何かと都合が悪い。だから取り戻した。それだけのこと。
あの時、あの川で自分を抱きとめてくれたのは、必要な手駒が取り戻せたから。大切な息子との再会を喜んでの抱擁ではない。
(わかってる。わかってるんだ、そんなことは)
父にとって、子は駒。
己の思う通りにことを運ぶための駒。
高市も草壁も忍壁も自分も川島も。果ては蘇我も何もかも、この世のすべてが父の駒。
蘇我は、その野望を父に利用された。石川郎女はその一端に過ぎない。
皇后の思惑だって、父に利用される。
(わかって……るんだ)
チラリと馬の轡を取る真足を見る。
彼は、父の間者だと言った。父に命じられ、自分の動向を見張っていたのだと。
――私はずっと、一命をかけて帝にお仕えする気でおりました。しかし、今の皇子さまを見ていると、これでいいのかと、帝に従っていてよいのかと思うようになったのです。現状、見るに耐えぬのです。
最初は信じられなかった。
父の間諜がこちらに味方するなど。そうやって言い寄って、またこちらを探るのではないか、利用するのではないのか。疑った。
――ならば、誓いの証としてこの手を捧げましょう。
言うなり、自分の手に刀を突き立てた真足。ためらうことなく刺したせいで、左手は今も血を流す。おそらく治ったとしても、今まで通り動くことはないかもしれない。
「すまない」と謝った自分に対し、「こんな傷、大したことありません」と笑った真足。
(辛い……な)
真足の献身も。
そこまで彼に忠誠を誓わせてしまう自分の現状も。
叔母から嫌われている。甥として愛されたことなどない。
自分が出世すること、周囲の期待を集めることを望んでいない。草壁から抜きん出たりすれば、それだけ不興を買う。だから、万事控えめにして生きてきた。雑役のような仕事をこなし、若輩者だからと意見を求められても答えなかった。フラフラと川島と遊び呆け、不甲斐ない甥と思ってもらえるようにした。
だが、ここまで嫌われているとは。
罪に問い、刑死することを望まれるまでに嫌われていたとは。
父もだ。
自分がなぜ子を成そうとしないのか、考えもしない。必要な駒は肝心な時に動いてもらわなくては困る。だから動かす。
父は、己の望む未来が得られるのであれば、息子同士、妻とも相争うことになっても構わないのだろう。その争いに誰が巻き込まれ、誰がどうなろうが気にもかけない。
(いっそ、父の思うように動くか?)
父に望まれるように子をもうけて。草壁に劣るよう振る舞うのではなく、父の期待するように真っ向から挑むように堂々と。
そうすれば、日嗣の御子を巡って争いが激しくなる。異腹の兄弟、仲良くなどと言っていられない。血で血を洗う政争が繰り広げられるだろう。
(でも、いいじゃないか)
父が、神にしませる父が、それを望んでいらっしゃるのだから。争い、勝てと、望んでおられるのだから。
手駒はそれに従うしかない。従えばいい。
――父についていく、父とともにあるということは、どういうことなのかということを。
叔父上の最後の言葉がやけに重くのしかかる。大友の叔父は、祖父の手駒となって、最期、何を思ったのだろう。
グッと込み上げるものがあって、知らず胸を押さえる。
「皇子さま?」
「なんでもない。酒に酔っただけだ」
おかしいな。いくら呑んでも酔えないのに。今だけ酔って、どうにかなってしまいたくなる。
「――よお、大津。お早いお帰りだな」
自分の宮。腕を組み、一人、門の前に立ちはだかっていた男に呼びかけられる。
「川島」
「お前に、話がある」