二十一、大君は 神にしませば(四)
「ただいま……って、あれ、山辺、まだ起きてたの?」
「お帰りなさいませ、大津さま。お勤めご苦労様でした」
宮に帰り、閨に入ると、そこで椅子に腰掛けた山辺が待っていた。
夕刻遅く出た月も中天に差しかかり、閨を白く明るく照らしている。
「先に寝てくれてて構わないのに」
「ええでも、今日はこれをお渡ししたくって」
立ち上がった山辺から、「これを」と布に包まれたもの渡される。
「……筆?」
「ええ。今日、市で買い求めて参りましたの」
「えっ!? 市!?」
そんな一人で出かけて大丈夫なのか?
「阿閉の異母姉さまのところに伺った帰りに立ち寄りましたので、夏見以外にも供はおりましたわ」
「あー、うん、それなら、まあ……」
皇女らしく警護の者がついていたのならまあ……。
驚いて跳ねた心臓が少しだけ平静を取り戻す。
「氷高からも頼まれたのですよ。あの飯事、氷高がすごく喜んでくれて。わたくしに、御礼の品を用意してほしいって言い出しましたの」
「えーっと。あの飯事は、僕と山辺からの贈り物……だよね?」
贈り物を喜んでくれるのはいいけれど。
二人からの贈り物を片方にだけお返しする、それも贈ってきた片割れにそれを返礼せよというのは、おかしいような。
「ええ。でも、どうしても大津のおじちゃまに贈りたいんだって、きかなかったんです」
「なぜ僕に?」
「きっと妻問いごっこがしたかったんでしょうね」
妻問いの品をいただいたから、今度は自分が贈り返す。
クスクス笑う山辺に、どう返事したらいいかわからなくなって頭を掻いた。
「本当は、自分で市へ探しに行きたいってぐずったんですが。さすがに乳母に止められてました。『皇女さまが参るようなところではありません』って」
それを言ったら、山辺のほうだろう。
氷高も皇女だが、山辺も皇女。氷高は両親が皇子、皇女の立場なので、正確には「女王」。山辺は父親が先帝という「皇女」。身分で言えば山辺のがより市にふさわしくない。そのことを乳母は指摘しなかったのだろうか。いや。乳母なんて存在は、自分が預かった子以外どうでもいいと思ってる節がある。父母を亡くし、後ろ盾となる氏族もいない山辺は、乳母にとって注意する存在ではなかったのだろう。
「あれはただの遊び道具、弟が生まれて寂しいだろうからってので贈っただけなんだけどなあ」
「それだけ喜んでくれたというのは、うれしいじゃありませんか」
「うん、そうだ。そうだね」
ごっこ遊びにつき合わされるのは勘弁願いたいが、喜んでくれたのはうれしい。
「なので、これは二人の妻からの贈り物ですわ。筆でしたらお仕事でも使われるでしょうから」
「うん、ありがとう。大切に使うよ。氷高にもそう伝えておいてくれ。早速明日から使わせてもらうよ」
筆をもう一度、宝物のようにそっと布に包み直す。
「そういえば、その筆を選ぶのにあの少年にも手伝っていただきましたの」
「え? 八尋に?」
「ええ。わたくしに筆の良し悪しはよくわからなかったので」
「いや、アイツにも筆は無理なんじゃあ……」
「ですから、質のいいものを扱ってる店を紹介してくださいました。ここの主なら信用できる、大丈夫だって」
なるほど。
筆ではなく、それを扱う店主の人柄を信用するわけか。
「彼、驚いてました。わたくしが以前とは違う衣装で、供を連れていたので。大津さま、あの方にご身分を明かされてなかったのですね」
「あー、うん」
「『今日はどこの祭りの帰りだ』って訊かれましたわ。あの坊っちゃんに飽きて歌垣にでも参加するつもりかって」
以前、市に着ていったものと、皇女としての装いは華やかさ、質の良さが格段に違う。
山辺は普段から着飾らない質素な装いだが、それだって、庶民に比べたらずっと高価で良質な衣装だ。
華やかな衣装は、祭りの時に着るもの。それを若い女性が身に着けてきたのだから、伴侶を探しに行くと思われても仕方ない――のか?
妻が新しい伴侶を探しに歌垣に参加しに行く、情けない男……なのか? 僕は。
「ああ、もちろん訂正しておきました。今は姉のところを見舞った帰りなのだと。気の張る相手なので、一番綺麗なもので着飾ってますって。それで納得してくださいました。姉ちゃんも大変だなって」
「山辺は阿閉のところに行くのは、気が張るの?」
あの阿閉のことだ。また山辺に子供がいないことを責めるかもしれない。今日は草壁という止め役がいなかっただろうから、ズケズケ言いたい放題だったかもしれない。
「いいえ。滅多に会えない異母姉ですもの。今日会うことを、とても楽しみにしておりましたの」
そうか。
それならいい。
軽く心の内で息を吐き出す。
「それよりあの少年、八尋というのですか。あの方、今日で市を離れるのだそうですよ」
「え?」
「なんでも隠に帰るのだそうで。坊っちゃんによろしくとおっしゃられてました」
「そうか」
帰るのか。
まつろわぬ民が一処にとどまるのはおかしな話。里に戻れば田畑の仕事もあるだろうし、他の場所で業を披露することもある。
いずれはどこかに行ってしまうと思ったけれど。
「寂しくなるね」
「ええ。八尋さまも最後に一回会いたかったとおっしゃってました。それと、これを」
筆とは別に差し出されたもの。笛。
「この間の舞台で大津さまがお吹きになったものだそうです。これのお礼は次に会った時でよいからと」
「なんだ、一方的に贈っておいて、お返しの約束を取り付けていくのか」
八尋の図々しさに笑う。
だが、これはまた会う約束の印。
――また会おう。
会えるのだろうか。再び。
ギュッと笛を握る。
「そうだ。せっかくだからこれで一曲吹いてあげよう。今日の筆のお返しだよ」
「あら。では喜んで拝聴いたしますわ」
椅子に座り直した山辺。
その手前に立ち、笛を構える。
ピィ――。
春の終わりの宵。
静かな閨に笛の音が染み込んでいく。
笛の音に聴き入る山辺を、窓から差し込んだ月の光が淡く彩る。
彼女も思い出しているのかもしれない。あの舞台で舞ったことを。
皇子と皇女ではなく、ただの夫婦として自由に楽しんだあの時のことを。
あのような時間は、再び訪れるのだろうか。
そして。
あの少年は、今頃どこの空の下を自由に旅しているのだろう。
まつろわぬ民。戸籍にも載らない、帝の支配の及ばない浮薄の民。
窓の外、流た雲が月に青白く照らされる。
――また会えたなら。
思いを音に込める。