二十、大君は 神にしませば(三)
詔発布までの作業は遅々として進まない。
あの市に咲いていた桜が散り、濃い緑に包まれても、菫の代わりの草花が川を彩っても仕事は終わる気配を見せなかった。
「あー、だー、もーダメだ。もう疲れた。ヤル気ない。腕、痛い」
卓に突っ伏した川島。ヤル気とともに筆も放棄する。
「こらこら。そう言わずに頑張れよ」
「だって、あれからずうっと仕事漬けだぜ? 少しはあーそーびーたーいー」
子供か。
足をジタバタさせて文句を垂れる川島に、近くにいた官人が警戒を強めた。「あーそーびーたーいー」で「遊ぶ!!」と室を飛び出して逃げ出されたら、見張っていた官人が叱られる。
「遊びなら父上が用意してくださっただろう。阿騎野の狩りの話。お前も聞いてるだろ?」
「ああ、あれな」
突っ伏したまま、川島が顔だけこちらを向けた。
「こうやってあくせく働く者を慰労しようと開かれるんだ。それまでは我慢しろよ」
「狩りねえ……」
川島の顔はうかないまま。「よっしゃ、狩りまで頑張るぞ!!」とはならなかった。
「オレ、狩り苦手なんだよなあ」
ああ、そうだった。川島は武芸を苦手としていた。
皇子として、それなりにはやれるだろうが、それはあくまで「それなり」。下手をすればあれから稽古を続けている忍壁のが優るかもしれない。
「まったく帝は……。どうしてあんなにお元気なんだよ」
「いいことじゃないか」
「精力的すぎるだろ。もう五十を過ぎてるってのにさ。もう少しお歳に合わせたお元気さでいてくれよ。つき合うこっちがたまったもんじゃない」
「そういうお前は歳に合わせた元気を出せよ。お前はまだ二十代だろ。忍壁ほどではなくても、それなりの元気はあるはずだろ?」
「オレはいいの。肉体労働より頭脳労働なんだから」
「頭脳も働かせてないじゃないか」
「引き絞ったままの弓は弦が緩むか、最悪切れる。オレの頭も使いすぎると切れるから、こうして休ませてんだよ」
ああ言えばこう言う。
川島の口は止まらない。
「あー、でも、泊瀬部をどっか連れてってやれるのはいいかな~。なかなかかまってやれないから、アイツ、不満溜まってるみたいなんだよなぁ」
狩りに、帝の行幸に伴するのは男性だけではない。女性も薬狩りとして参加する。滅多に会えない妻、明日香に会えると忍壁も喜んでいた。
「大切にしてるんだな、泊瀬部のこと」
「ああ。オレは愛妻家だぜ? 妻が喜びゃオレも嬉しい」
「そうだったんだ」
あまりの不甲斐なさに、そのうち気の強い泊瀬部の尻に敷かれる「恐妻家」になるかと思ったけれど。
「そういうお前んとこはどうなんだよ。山辺と上手くいってるのか?」
「あー、うん。まあ、上手くいってるよ。いっつも、僕の帰りが遅くても待っててくれるし」
仕事で帰りが遅くなる。先に休んでいてくれ。
そう伝えたのに、山辺はいつも寝ずに待っていてくれた。
「縫い物をしていたので」とか「ちょうど目が覚めて、お帰りに気づいたので」とか言ってくれるけど、わざと待っていてくれてることは知っている。
「おーおー、惚気けたな、お前」
川島が身を乗り出すと、軽くピューッと口笛を吹いて囃し立てた。
「ま、異母妹が幸せならそれでいいや」
「うん、そうだね。川島も泊瀬部を頼むよ。大事な異母妹なんだ」
「おう。任せとけ」
どちらの妻も、互いの異母妹。
愛妻家で妹思い。
認識を共有したところで、ニッと笑い合う。
山辺のことを大切に思ってる。
慎ましやかなところも、そっと寄り添ってくれるような優しさも。
匂い立つような華やかさはないけど、野辺に咲く菫のような可憐さはあると思う。
大事にしたい。大切にしたい。
だから。だから僕は――。
カタリ。
扉の開く音がした。
薄暗い書庫に明るい日差しが差し込む。
その光の眩しさに目をすがめ、川島と二人、そちらに目を向ける。
「あの、こちらで書をお借りしたいのですが」
日差しを背に立っていたのは色鮮やかな衣をまとった女性。――年若い采女。
* * * *
「書を借りてこいと命じられたのですが、わたくし、あまり詳しくなくて。どなたかお教え願えないでしょうか」
柔らかく細い手を頬に添え、顔を軽く傾ける女性。
采女。
大宮で主に帝にお仕えする豪族の娘。帝に召されることもあるので、若く美しい女性が選ばれることが多いが、これは――。
「どの書を探してるんだ?」
ヒョコヒョコ、いそいそと立ち上がった、川島。
おいおい、先程泊瀬部をを大事にする、愛妻家だって言ったばっかりだろ。
それでなくてもわざわざ皇子自ら采女の手伝いをしなくても、ここには書に詳しい者なら他いくらでもいる。
暇を飽かして、仕事から逃げ出したくて手伝いを名乗り出たのか。それとも、采女の美しさに惹かれたのか。
川島の鼻の下加減はよくわからない。
「あの、史書を借りてこいと命じられたのですが。漢国の史書を、と」
「漢国の――史書?」
川島が首を傾けた。
――史書を借りてこい。
これを命じたのは、父上か皇后か。それとも詔の草案で議論を交わしているであろう高市か草壁か。
いや。
高市や草壁なら、采女に命じたりはしない。もっと書に詳しい者を遣わすはずだ。
知りたいこと、確認したいことがあるから書を求める。調べたいのだから、早く手にしたいと考えるのが普通。ならばこんな頼りない、持ってくるのに時間のかかりそうな、歴史も知らぬ子女に頼むわけがない。歴史に通じた官人にでも命じるはずだ。
「文景の治について詳しく書かれたものをと申されたのですが、わたくし困ってしまって……」
「あー、うん、文景……、文景の治、ね」
軽く川島が後ずさった。さては「文景の治」、わかってないな?
文景の治。
漢国の第五代皇帝文帝とその子景帝の統治期間のこと。秦時代より高祖、高祖の妻の外戚呂氏の専横によって疲弊していた国家。賦役の軽減、農桑の振興に力を入れ、民を休ませ、国庫を潤し、国を立て直した。文帝は、自らの衣袍に刺繍すらせず、徹底して質素倹約に務めた。漢の国の基盤を作り、後の武帝の時代、遥か西の匈奴遠征へとつながっていく。歴史の善例。
その文景の治について知りたいとはどういうことか。
先の淡海を倒した戦。その前、唐・新羅との戦い。乙巳の変。この国は漢国と同じで戦が続いている。文景の治を真似て国家と直したい。そう思ってるのか。
でも、誰が?
誰がこの采女に持ってくるように命じさせた?
「ぶんけい……ぶんけい……」
書庫をたどる川島の指。どれを指して良いのか迷い続けている。書庫にあるのはなにも史書だけではない。今自分たちが触れている戸籍もあれば、刑法、薬学、易、さまざまな書物、木冊書が積み上がる。
助けてくれ。
泳いだ川島の視線が、こちらに当たった。
「――これだよ」
軽くため息をつくと、目当ての書を取り出してやる。
「ありがとうございます。助かりましたわ」
書を手にした采女の顔がパアッと明るくなる。艶やかな花が咲いたような印象の笑顔。
「見つからなかったらと、どんなお叱りを受けてしまうのかと思うと不安で仕方ありませんでしたの」
大事そうにギュッと書を抱きしめた采女。
「さっすが大津!!」
「お前が知らなさすぎなんだ。カッコつけるならもう少し学んでおけよ」
調子に乗っておだててくる川島を牽制する。
「おっ、大津さまっ!? み、皇子様とは知らず、ご無礼を!!」
書を抱えた采女が恐縮して平伏する。
自分の探しものを皇子に手伝わせるとは。
気安く声をかけたことを悔いているのだろう。見せられた背中が震えていた。
その姿に、川島と二人、目を丸くして互いの顔を見る。
薄暗い書庫。黙々と書き写す地味な仕事。皇子らしい装いでは墨を扱うのに不向きだからと、かなり質素な服を身に着けている。川島なんて、先程突っ伏したせいで、頬に墨の痕がついている。
地方から出てきて地味な仕事を課せられてる下級の官人。おそらくこの采女は、自分たちのことをそう判断して気安く声をかけてきたのだろう。
軽くプッと川島と笑い合う。
「別にいいよ。気にすることはない」
「そうそう。それより早く持っていかねえと、主に叱られるぞ?」
ほら行け。
川島がそう言うと、采女が深く一礼してから、慌てて立ち去っていった。
――あれは誰の命で動いている采女なんだろうな。
一つの疑問を残して。