十七、閑話-磐余
「それはよろしゅうございましたね、姫さま」
「ええ。とても楽しかったわ」
夏見が、コトリと卓に瓶子を置いた。小さな瓶子に挿されているのは濃い紫の花――菫。
「私は驚きましたよ。まさか姫さまがあんなところで舞を披露なさるだなんて」
「そうね、わたくしも思ってもみなかったわ」
大津さまと出かけた海石榴市。
そこで出会った、大津さまのお知り合いの民。
勧められるままに舞台に上がった。
「初めてだったから。上手くできていたかしら」
大津さまは「素晴らしい」「良かった」と褒めてくださったけれど。
「大丈夫ですよ。とても素敵でした。なんならあそこにいた舞手のなかで一番華やいで素晴らしかったです」
「それは言い過ぎよ」
伶の集団に素人が敵うわけがないわ。
「いいえ。皇子さまの笛とも息がピッタリで。最初は驚きましたけれど、最後は見とれてしまうほど素晴らしかったです」
どうかしら。
「それは大津さまの笛が良かったからよ。あの笛の音に合わせて舞えば、誰だって上手く舞えるわ」
わたくしが遅れそうになると、そのたびに笛の速さを緩めてくださった。わたくしの動きに合わせて、笛を吹いてくださった。
あれは、大津さまが笛に慣れていらっしゃるからできたこと。わたくしが笛に合わせるのではなく、笛がわたくしに合わせて奏でられた。大津さまが巧みであったからこそ合った呼吸。
「そういう夏見、アナタも大津さまの舎人と息があっていたじゃない。二人して、目を真ん丸にしてこちらを見ていたわよ」
こんなかんじに。自分の目をクリっと指で見開いてみせる。
「嫌ですわ、姫さま。私はあんな朴念仁と息など合わせません。あの男、皇子さま第一で、私を平気で置き去りにするんですから」
プンプンと怒る夏見。
大津さまの命で、護衛の舎人と夫婦のフリをして市にいたのに、舎人は夏見を見ずに大津さまばかり気にかけていたらしい。終いには人混みの中に夏見を放置して何処かへ行ってしまったという。
(朴念仁……)
その表現に思わずプッと笑いだしてしまう。
「どうしたんですか、姫さま」
「あのね、大津さまもあの少年に言われてたの。嫁に贈り物もしない、女心のわからない朴念仁だって」
「ハア。そういうのって主従で似てしまうものなんでしょうかね」
「似ているからこそ、長く一緒にいられるのかもしれないわ。似たもの同士、引き寄せられるのかも」
「そうしたら、私と姫さまも似ているってことになりますよね。なんたって、生まれた時から乳母子としてお仕えしておりますから」
「そうね。似ているかもしれないわ」
きっと、どの異母姉妹とも。
淡海で暮らしていた時からずっとそばにいてくれた夏見。
幼い頃は乳姉妹として。長じてからは女嬬として。
彼女がいてくれたから、父も母も亡くなり、激動の時があっても寂しくなかった。
今だって、こうやってそばにいてくれる。
いつもならこんな夜遅くまでわたくしのそばに侍ってたりしない。大津さまが閨を訪れる前に退出している。
こうして今もいてくれるのは、大津さまが高市さまに呼び出されてお留守にされているから。大津さまは先に床についてて構わないとおっしゃってくださったけれど、なんとなく、昼間の興奮が醒めなくて、眠れそうにないからこうして夏見につき合ってもらっている。
それに、どれだけ遅くても寝ないで帰りをお待ちしたい。ちょっとした妻の意地。
卓の上に置かれた菫の花。
その傍らには赤い瑪瑙のついた簪。
どちらも華やかなものではない。
どちらも皇女という身分に相応しいものではない。
けれど、どちらも大津さまからいただいた大切な物。
「お花、このままずっと咲いていてくれるとよろしいんですけどねえ」
「そうね」
花を惜しく思っていたことを、夏見に言い当てられてしまった。
簪は手元に残るけれど、花はそうはいかない。花はいずれ枯れてしまう。
「でも、この花が枯れる頃には、また新しいものを贈ってくださるそうよ。あの少年に約束させられていらっしゃったわ」
かなり無理やりではあったけど。
「なら安心ですね。次にどのようなものをくださるのか、楽しみにしていればいいんですから」
「でも少し申し訳ないと思うの。そんなにいただいてしまっていいのかしら」
「いいのですよ。それより気になるのは姫さまのほうです」
「わたくし?」
「贈り物をいただきすぎて、嬉しさでどうにかなりそうなのではないですか?」
「え。なぜ、それを?」
図星すぎて、どう言い返したらよいかわからない。
「姫さまのお考えなんて、この夏見にはすべてお見通しなんでございますよ」
そうね。ずっと一緒にいる夏見だもの。わたくしのこと、一番わかっているわね。
「お優しい皇子さまでよろしゅうございましたね、姫さま」
「そうね」
父を亡くして、母を亡くして。
淡海を治めていた異母兄も亡くして。異母兄を支えていた、母方の祖父も亡くして。
皇女と言っても頼るべき身寄りもなく、とても心細かった。
そんなわたくしを夫と娶せたのは異母姉の夫であり父の弟、今の帝だった。
御名部異母姉さまは、第一皇子高市さまに。
阿閉異母姉さまは、 第二皇子草壁さまに。
わたくしは、第三皇子大津さまに。
川島異母兄さまには、皇女泊瀬部さまを。
異母妹明日香は、第四皇子忍壁さまに嫁ぐことを約束された。
淡海で、亡き父帝が大切にしていた孫皇子。亡き異母長姉の忘れ形見。
聡明で、将来を嘱望された皇子。
明るく、楽しいことがお好きな方。
あの少年に気が利かない朴念仁と評されたけれど、それでもこうして優しく接してくださる、心配りのできる方。
「大津さまが夫でよかったわ」
他の皇子さま方が劣っているわけじゃない。でも、わたくしには大津さまが一番素晴らしく思える。誰よりも優れていらっしゃる。
誰かの下風に立てば、いずれ身を滅ぼす――。
「姫さま?」
「なんでもないわ」
不意に、淡海で人づてに聞いた卜占の結果を思い出し、軽く身震いする。
そんなことあるわけないじゃない。大津さまは、帝の大切な御子なのよ。吉野で六皇子が帝の御前で誓われたように、異腹の兄弟、従兄弟であっても、諍うことなく扶け合わなくてはいけないのよ。
あのような占、当たらぬにこしたことないのよ。腕の悪い僧、出来の悪い占事だったのよ。外れるに決まってるわ。
「――だだいま、山辺。起きてたんだね」
キイッと開いた扉のきしむ音。そこに立っていらしたのは愛しい背の君。
「寝ててくれても構わなかったのに」
「ええ。ですが、昼間のことを思い出されて、寝つけませんでしたの」
待っていた、とは言わない。
そうすると、優しい夫の負担になってしまうから。夫が申し訳なく思ってしまうから。
「嫌だった?」
「そんなことはありません。ただ楽しくて楽しくて。瞼を閉じても思い出されて、ドキドキしてしまいますの」
これは本当。
思い出すだけで鼓動が早まる、素敵な出来事だった。
「じゃあ、一緒に寝よう。そうしたら気持ちも落ち着くかい?」
誘われるままに牀榻に近づく。夏見は、いつの間にか扉から出ていっていたらしく、姿は見えなくなっていた。
「そうですわね。春といってもまだ寒うございますから。遅くお戻りいただいた方を温める、温石の務めを果たさせていただきますわ」
「うん。ちょうど温石が欲しかったところなんだ。温めてくれると助かる」
「まあ」
軽くふざけあって床に入る。抱き寄せられ、大津さまの肩に頬を載せる。
少し冷えた衣。その向こうに感じる大津さまの鼓動。
「明日からは、先に寝ててくれてかまわないよ。今日よりきっと帰りが遅くなるだろうから」
待っていたことはお見通しだったらしい。
「異母兄上にね、命じられたんだ。新しい詔を作るのに力を貸せって」
ジッと天井を見つめたまま。
大津さまの声はとても硬いものだった。