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WEAK SELF.  作者: 若松だんご
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一、いさよふ波の ゆくへ

 「――行くのか」


 その声に、背中が粟立つ。

 踏み出そうとした足は地面を捉えそこね、空に浮いたままになった。気色ばんだのは自分だけではない。周囲にいた大人――自分を迎えに来た者たち――にも戦慄が走る。


 「叔父上」


 ゆっくりと首を回し、後ろをふり返る。

 背後にいたのは、年若い自分の叔父。数人の舎人を引き連れ立っていた。

 夜気に冷たい緊張が走る。チャキッと固い鉄に触れる音が自分の踏みしめた砂の音に混じった。

 

 「出ていくんだな」


 「――はい」


 その返答で、自分は、周りの者たちはどうなるのか。

 慎重に覚悟を決めて短く答える。

 心臓が胸に詰まったよう。息が呑み込めない。

 目の端で捉えたのは、腰を低く落とし、いつでも抜剣できるように構えた自分の周りの者たち。それは、相手の背後にいた者たちも同じで、双方瞬きも忘れ睨み合う。

 緊迫した空気が流れる。

 次の一言はなにか。次の瞬間、どうなっているのか。

 ここを出て行くというのはそういうこと。ここで見つかってしまったというのはそういうこと。

 血が、足元で滞ってしまったような感覚。一瞬が永遠に引き伸ばされる。

 次の叔父の言葉で、自分の未来が決まる。


 「――やめよ」


 叔父が、周囲を固める太刀柄に手をかけた姿勢の舎人(とねり)たちを制した。


 「このまま行かせる」


 その言葉に体から力が抜ける。代わりに戸惑いが生じる。


 「いいの……ですか?」


 「行きたいのであろう。父の、叔父上のところに」


 「はい」


 「ならば行くがよい。止めはしない」


 主である叔父の判断に納得がいかないのだろう。叔父の背後、舎人の一人が異議を唱えるように「皇子!!」と声を上げた。しかし、叔父はその動きを制した手を下げない。


 「構わぬ。長く離れていた親子だからな。最期ぐらいともにありたいのであろうよ」


 自分がこの場から逃げ出し、父と合流したとしても、父子ともども倒してしまえば同じこと。ようはこの先、起きるであろう戦で勝てばよいのだ。何も問題はない。

 諦めるように主に従うように、納得いかない顔のまま舎人たちが警戒を解く。合わせて、こちらも柄から手を離す。

 

 「ただし。一つだけ覚えておけ、大津」


 叔父が真っ直ぐこちらを見る。


 「父についていく、父とともにあるということは、どういうことなのかということを」


 「叔父上――?」


 昏い、融けるように墨を流した闇夜。そこに雲の隙間から顔を覗かせた青月が、自分と叔父の姿を浮かび上がらせる。

 青白く、深い陰影をたたえた叔父の顔。引き結ばれた口元は真摯で、どこか哀しく写った。

 自分の亡き母の異母弟。亡き祖父の第一皇子で、今は父の敵。

 十五歳年上の叔父は、これから帝位をかけて父と戦うことになる。

 ここで特別良くしてもらったことはないが、それでも折りに触れ、言葉を交わすことはあった。共に過ごすこともあった。

 だけど。

 この先、父についていく自分は、この叔父と未来を共にすることはないだろう。その別離への覚悟を持てと言われているのだろうか。


 「俺を、忘れるな」


 それだけ言うと叔父は出立を促すように背を向けた。その背を見て、周りの大人達が自分を急かす。叔父が見逃してくれたとしても、他の者も同じとは限らない。逃げ出すことが露見したら、きっとタダでは済まない。

 急げ。急いで父の元へ。

 叔父の背中に軽く一礼して進むべき道へと踵を返す。


 「――お前は、……生きよ」


 風に紛れるようにして聞こえた叔父の声。

 どういう顔でこぼされた言葉なのかは知らない。聞こえたと思ったけれど、空耳だったのかもしれない。それほど小さく、細く、弱い声だった。


 叔父との思い出はそれで終わる。

 先に父の元へと都を抜け、馳せ参じた異母兄、高市皇子(たけちのみこ)。そして、父、大海人皇子(おおあまのみこ)

 彼らは、美濃、尾張、伊勢を味方につけ、淡海(おうみ)の叔父、大友皇子を倒す。


 世に言う「壬申の乱」。


 叔父は、自分が逃げ出した翌月、瀬田橋の戦いで大敗を喫すると、物言わぬ(むくろ)と成り果てた。

 祖父淡海帝が亡くなって半年後。叔父は父親の後を追うようにして亡くなった。

 二十四歳だった。


*     *     *     *


 それからいろいろあった。

 父は都を飛鳥に戻し、放棄されていた岡本宮の造営を急がせた。

 母方の祖父でもあり、父の兄弟でもある天智帝。彼が造った淡海大津宮(おうみおおつのみや)は打ち捨てられ、政治は刷新された。

 その年、耽羅(たんら)から訪れた使者に対して、即位祝賀の言葉は受け入れたが、弔喪使は受け入れなかった。父がどんな思いだったのか。幼かった自分は知らない。

 ただ、新しい政を取り仕切る。その気概は感じていた。

 戦でも功績のあった高市皇子を頼みに、次々と改革を打ち出していった。

 その上で、父は姉を遠く伊勢の地へと斎宮(いつきのみや)として送り出した。

 わずか十二歳の姉、大来皇女(おおくのひめみこ)。以来、姉には会ってない。今、どう過ごしているのか。かろうじて伊勢を参拝してきた十市皇女(とおちのひめみこ)阿閉皇女(あへのひめみこ)から、断片的に伝え聞いただけ。

 

 「つつがなくお過ごしよ」


 そう教えてくれた異母姉(あね)、十市皇女はそれから数年後に亡くなった。病死ということになっているが、実際はどうだったのか。急死であったことは間違いない。かつての叔父、大友皇子の妻であった異母姉(あね)。戦の後、叔父の遺児となった葛野王(かどののおおきみ)を連れ、父の元に帰ってきたが、どのような心境であったのだろう。誰も知らない。ただ異母兄(あに)、高市皇子がその死を悼み、慟哭していたことは知っている。


 父はそれからも国を束ねることに邁進していった。そのついでに、一族の結束もまとめ上げる。己の蜂起した地、吉野で、自分を含めた皇族男子を「我が子」として、異母兄弟、従兄弟同士相争うことないように誓わせた。

 

 長兄で父の片腕となった高市皇子(たけちのみこ)

 次兄で皇后鸕野讚良(うののささら)の実子、草壁皇子(くさかべのみこ)

 弟で四男、忍壁皇子(おさかべのみこ)

 淡海帝の三男、川島皇子(かわしまのみこ)

 同じく淡海帝の七男、志貴皇子(しきのみこ)

 そして自分。帝の三男、大津。


 仲良くと言いながら、当然のように序列がつく。

 一位は皇后の子、草壁。次いで、皇后の同母姉を母に持つ自分。

 続いて、長子でありながら母の身分が低かった高市、同じく忍壁、敗れた淡海帝の子川島、志貴と続く。


 皇后の鸕野讚良皇女うののささらのひめみこは自分の亡き母の同母妹。二人して叔父に当たる父の妻になった。

 母、大田皇女(おおたのひめみこ)は、姉の大来と自分を産んだが、やがて亡くなった。

 妹がそうであるように、生きていれば父の皇后となっていたはず。

 もしそうであれば。

 姉は伊勢に送られることもなく、自分は一つ年の差で生まれた兄の下風に立つことなく、父の子として堂々といられたのだろうか。

 もしそうであれば。

 同い年の阿閉皇女が兄、草壁と結婚したように、姉も誰かのもとへ嫁いだのだろうか。伊勢には別の誰かが下向することになって。

 もしそうであれば。

 今の自分のようなことはなく、誰か姉の夫が後ろ盾となってくれたのだろうか。

 もしそうであれば。

 もしそうであったなら。

 

 いや、それは言っても詮無きこと。

 母は亡くなり、叔母が立后して、姉は伊勢に送られ、自分はここに残された。


 それだけではない。


 父は息子に誓わせるだけでなく、その子たちを娶せることで、一族が(いさか)うことないようにした。

 かつて、自分の妻であった額田王とその娘、十市皇女(とおちのひめみこ)を兄と兄の子に嫁がせ、代わりに自分の母と叔母を妻にもらったように。


 長子、高市皇子には、淡海帝の娘御名部皇女(みなべのひめみこ)を。

 次子、草壁皇子には、淡海帝の娘阿閉皇女(あへのひめみこ)を。

 幼かった四男、忍壁皇子には、将来淡海帝の娘明日香皇女(あすかのひめみこ)を与えることにした。

 淡海帝の三男、川島皇子には、自分の娘泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)を。

 幼かった淡海帝の七男、志貴皇子には、将来自分の娘託基皇女(もといのひめみこ)を与えることにした。

 そして、三男である自分には淡海帝の娘であり、蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘が産んだ山辺皇女(やまべのひめみこ)が与えられた。


 父は婚姻を結ばせることで、かつて自分が甥を殺して帝位に就いたような悲劇を避けたかったのかもしれない。ここまで結ばれていれば、諍うことはないだろうと願ったのかもしれない。


 だけど。


 苦しい。

 自分に流れる血に、妻から与えられる血に。

 父の思惑に、周囲の思惑に。

 捕らわれ、がんじがらめになって。もがいても逃げ出すことは出来なくて。

 あの時よりも上手く息ができなくなっていく。


 ――父についていく、父とともにあるということは、どういうことなのかということを。


 叔父上の最後の言葉がやけに重くのしかかる。

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