前編
見ていたページに山影が降りて読みにくくなってしまったので、私は小説を閉じた。
私の通っている高校の中庭にはひときわ大きく立派な桜の木が咲いていた。
満開になったその桜の下で小説を読んだらどんなに気持ち良いだろうと思い、休日の部活終わりに中庭を訪れ小説を耽読していた。
スマホを見る。
時刻は15時半ほどで、帰宅するにはちょうど良い時間だった。
荷物をまとめ立ち上がりかけた、その時。
『……頼子さんですか』
かすかに、声が聞こえた。
男性の声だ。反射で声のする方へ振り向く。
大きな大きな桜の下。
顔を闇で塗りつぶしたような男が、こちらをじぃ、と見つめていた。
動けなかった。
オカルト好きな悪友から聞いた、この学校にまつわる不可思議な話がいくつか脳裏を駆け巡る。
音楽室のピアノが真夜中にひとりでに鳴り出す、とか。旧校舎跡地に足の無い老婆が佇んでいる、とか。
――中庭の桜の木に、顔に穴の空いた幽霊が取り憑いている、とか。
そんな話も、あった気がする。
『あなたは頼子さんですか』
闇から声が響いてくる。
「い、……いいえ。違います」
どう答えるのが正解だったのだろう。
何かを間違えれば私は死んでしまうのかもしれない。
考えを巡らし、結局は素直に応えた。
『……そうでしたか。それは失礼しました』
恐怖に身構えてるこちらをよそに、幽霊はその風体に似つかわしくない、とても礼儀正しい雰囲気だった。幽霊である彼が、話し合って分かりあえる存在だと直感し、とたん気が抜ける。
何なら先程の言葉がちょっと寂しそうな声色にさえ聞こえたものだったから。
「……頼子さんって方を探してるの?」
思わず質問をしてしまった。
彼は僅かに肩を震わせたように見えた。もしかすると、私が疑問を投げかけたのが意外だったのかもしれない。
『……約束を、したのです。もう一度、此処で逢おう。と』
彼は静かに、ポツリ、ポツリと呟いた。
生前の、かつての彼が高校を卒業する際、この桜の木の下で好きな相手へ想いを伝えた。そしてその相手からも色良い返事はもらえたが、二人はどうしても別れなければならなかったらしい。
彼は戦時中を題材としたドラマでよく見る服装をしていたから、どういう理由があったのかは聞かなくても想像出来た。
『約束した時の、夕日に映える彼女の笑顔が美しくて忘れられなくて。せめて、もうひとたびだけでも彼女の姿が見たくて。……未練がましくも、ずっとこの桜の下で待っているのです』
闇におおわれていて彼が今どんな顔をしてるかは相変わらず分からなかったが、寂しげな様子はありありと伝わった。
そんな彼の助けになれれば良い、と口を開く。
「……あのさ、違うかもしれないけど。試しにちょっと行ってみる?」
『行く……?何処へですか?』
「ちょっと待ってね。今、詳しい人に詳細聞いてみるから」
スマホを立ち上げSNS系のアプリを起動する。メッセージの送り先はオカルト好きな悪友だ。
「頼子さんとの約束の場所ね。多分、此処じゃないと思うんだよね」
山影におおわれた薄暗い中庭で、悪友からの返信を待つスマホの画面だけが明るかった。