第72話 大丈夫ですよ
「……七瀬、なんで」
きっともう寝る体制に入っていたのだろう。ラフなTシャツにショートパンツという格好で現れた彼女を、俺はただただぼうっと見つめることしか出来ない。
一人呟いた俺はすぐに、ああこのせいか、と割れて床に散らばった瓶の破片に目を落とす。
七瀬も驚いたように俺と同じものをただ見つめていた。
目の前に立つ父親の注意が七瀬に向く。
意表を突かれたせいか、俺と同じように目を丸くしていたけれど、すぐにその視線は鋭いものに変わる。
流石に他人にはと願うけれど、酒に酔った今のこいつはなにをしてもおかしくない。これまでもずっとそうだった。
俺はいい。でも、七瀬だけは。
七瀬の方へ一歩、父の足が動いたのを見て、俺は動かなかった身体を無理矢理起こす。
父の口がぐにゃりと歪んで、なにかを叫ぼうとしたのが見えて。
それよりもわずかに早く。
彼女は口を開いた。
「――せ、せんぱい。たいへんなんです。その、か、カブトムシが! 光ってて!」
「は?」
七瀬は割れた瓶も濡れた床もお構いなし、と言わんばかりに瞬時に俺の手を引いて当たり前のように立ち上がらせると、そのまま部屋から引っ張り出していく。
リビングの扉を抜け、七瀬の足はその勢いを増す。何も言わずに彼女はサンダルを履き、俺もつられるようにして靴を突っ掛ける。
背後に慌てて追ってくる父の気配を感じたところで、七瀬はわざとらしく音を立てて扉を閉めた。
「どうすんだよ、七瀬、もしお前まで」
「静かにしてくださいっ」
七瀬は小さく叫ぶと、すぐ隣の部屋、自らの部屋の扉をそっと開けてそこに滑り込む。俺の手を引いて、身体が全て部屋に入ったのを見て静かに扉を閉めた。
――ほぼ同時、勢いよく扉が開く音がした。
「待て遼太郎ぉ!」
それと同時に聞こえる大きな声。
開けられたのは俺の部屋の扉だ。七瀬の部屋の扉じゃない。分かっているのに、心臓がどっどっどっ、と苦しいほどに鳴っている。
扉を背にした俺は、すぐそばにくっついている七瀬を見た。彼女はこちらを見上げたまま、人差し指を唇に当てて息を殺している。
何度か名前を呼ぶ声がして、乱暴なその足音は、ゆっくりと部屋の前を過ぎていく。そして、勢いよく階段を降りていく音がした。
音が止んで、静かな世界が広がる。
自らの心臓の音とともに、もうひとつとくとくとく、と早いスピードで鳴る心臓を感じる。
くっついたままの七瀬は何かに気づいたようにぴくりと肩を揺らすと、おずおずとこちらを見上げてへらっと困ったように笑った。
その笑顔に、身体の力が抜けた。
扉を背にしたまま俺の身体はずり落ちる。
「……せ、せんぱい?」
「……ああ、ごめん。なんでもないから」
自然と声が震える。目の奥がじんじんする。
荒れた息を落ち着けようと座り込んだ俺のそばに、七瀬はしゃがみ込む。
恥ずかしいし、見られたくなかった。
でもどうしてか、彼女の声に安心する自分がいて。俺はゆっくりと彼女を抱きしめていた。
シャンプーの香りに混じる酒の匂い。
それがどうしようもなく嫌で嫌で、俺はもう一度息を吸いこむ。
「…………あ、あの。恥ずかしいので嗅がないでもらえますか」
ぽつりと、耳元で七瀬の声がした。
そこで我に帰る。
え? 俺、今七瀬を……。
彼女の柔らかい髪が頬をくすぐる。
どうしていいのかわからないように、固くなったままの七瀬の細い身体を、俺の両手は包み込んでいた。
身体中が、熱を持つ。
勢いに身を任せて俺は何をしてるんだ。
こ、殺されるかもしれない。七瀬に。
どうしていいか分からず手を離そうとした俺を許さないように、七瀬は身体を俺に寄せた。
ぽんぽん、と彼女の小さな手が俺の背中を優しく叩いて。
彼女もまた震える声で、ささやいた。
「大丈夫ですよ。私がいますから」
情けなくて恥ずかしくて。
どうしようもないけれど、絶対に七瀬の前で泣くわけにはいかない。俺は唇を噛む。
「……まったく、かわいいかわいい後輩がおうちで待ってるのに。こんなに酒くさくなって帰ってくるなんて、悪いせんぱいですね」
七瀬はそんなことを言って、俺の耳元でくすくすと鈴を鳴らすみたいに笑う。
訊きたいことはたくさんあるだろうに。
彼女だって怖かっただろうし、本来なら俺が彼女を守ってあげなければいけないのに。
ゆっくりと身体を離した七瀬は。
悪魔みたいな後輩だ、なんて思ったこともあるその女の子は。
「――先に、お風呂入りますか? ……なんて言うと、私たち夫婦みたいですね」
天使みたいな笑顔ではにかんで、そう言った。