第1話『終わり、始まりへ』
手が震えている。
人が死ぬということを目の当たりにし、震えは次第に手だけではなくなっていく。
折れないはずの剣が折れたとか、割れないはずのオーブが割れたとか。
死んではいけない人間が死んだということさえも、震えの原因ではなかった。
「次は俺が殺される」 意図せず声が出る。
どのみち世界は終わる。
目の前で斃れているのは、そうならない為の“救世主”だったのだから。
それでも今まさに死が迫ろうとする時、やはり少年は恐怖に醜く顔を歪めていた。
「どうせお前達は終わりだ」
しかし、その言葉を残して“滅びの悪魔”は何もせずに去っていった。
『助かった』という安堵感はすぐにはこなかったが、さまざまな思考を廻らすには十分な程、心に余裕が戻った。
賢者と呼ばれていた年老いた男は、救世主の亡骸を抱き涙を流し何かを呟いている。
屈強な肉体を持つ力自慢の男は、少年の隣で深くうなだれている。
誰一人、死から逃れられたという喜びは感じていなかった。
その生は一時的なものでしかない事を誰しもが分かっていたから。
その光景をぼんやりと眺めながら、少年はこれからの事を考えようとした。
遠くに逃げよう。
それしか浮かばず、だが、体は動こうとしなかった。
暫くして、その場を立ち去ろうとして何かに躓く。
「あいつの・・・」
“救世主”の折れないはずの剣の柄だった。
刃の先端は無残にも持ち主の胸に刺さっている。
振り返りもう一度亡骸を見る。
少し胸が苦しくなった。
「うっ」
その苦しさから逃げるように少年はその場から走り去る。
しかし、いくら走っても頭から離れない。
自分とさほど変わらない齢で、自分よりも小さく、それなのに先頭で戦っていた“救世主”の姿が。
機械のように表情を変えず、人々の期待に応える姿を少年はもともと好きではなかった。
自分の意思ではないように見えたから。
いつしか少年は『あいつは特別で、本当に世界を救う為だけに生まれた存在なのだ』と考えるようになった。
周りの人間は初めからそう考えていたのだが。
だけど、あいつは特別ではなかった。
自分達と同じ1人の弱い人間だった。
そう考えると少年は初めて哀れに思った。
―15年後、世界はまだ滅んでいなかった
“滅びの悪魔”は世界の半分を滅ぼしたところで何故か手を止めた―
「ハスフェル!ご苦労だった」
頬から顎にかけて白んだ豊かな髭を生やした男が声を掛ける。
「いや、何てことはないさ。これで最後だったんだな」
ハスフェルと呼ばれた精悍な顔つきの男が、水の入った樽を地面に置きながら答えた。
「ああ、お前さんが手伝ってくれたおかげで早く終わったよ。祭りまでまだ時間があるから、少し休んでてくれ」
「そうさせてもらうよ」
さほど疲れてはいなかったが、ハスフェルは言われた通りにする。
“滅びの悪魔”の動きがなくなってから10年。
未だ滅ぼされていない大陸の中心部では、今のうちにと対抗手段を探しているようなのだが、こんな山奥の村ではすっかり危機感は薄らいでいた。
ハスフェル自身も祭りという平和ボケした行事に対して、特に思うところは無かった。
ふとハスフェルは腰にある剣の柄に手を掛ける。
剣を抜いたが、剣先は無い。
あの時の折れた“救世主”の剣。
ハスフェルの時間は少年だったあの時から止まっている。
時々、折れた剣を眺めながら“救世主”の悲しい人生を想う。
それだけで、ただ滅ぼされるのを待つだけの日々。
「おい、大変だ!」
黒いバンダナをした若い男が、息を切らしながら走ってくる。
場が緊張感に包まれた。
「魔物の群れだ!“滅びの悪魔”が再び動き出したんだ!」
その言葉に近くにいた女がいち早く悲鳴を上げ、周りは一気に混乱し、逃げ惑う人々で溢れた。
「おい、どういうことだ」
ハスフェルは同じように逃げようとするバンダナの男を捉まえ尋ねる。
「何だよ、俺だって詳しく知らねえよ。ただ隣町から来るはずだった菓子売りが、なかなか来ないから様子見に行ったら、町がたくさんの魔物に滅ぼされてたんだよ!急いで逃げたが魔物に見つかっちまったかもしれない、もうすぐ来ちまうよ!あんたも早く逃げな。な!」
そういうと男はハスフェルの手を振り払って、走っていった。
「ついに動き出したか」
ハスフェルは表情を変えずに呟く。
切り株に刺さったままの斧を持つと、村人が逃げていった方向とは逆に走る。
少し走っただけで魔物達の足音が聞こえてきた。
(これでは逃げ切れないだろうな)
彼は少しだけ村の方を向いた。
「さて」
死を待つだけの男は、それまでに何体の魔物を斃せるかだけを考えていた。
しかし、魔物達の足音が止まり、声が聞こえてくる。
ハスフェルは耳を澄ました。
「探せ!あの野郎生きてやがった!!」
「何としても探し出して殺せ!」
(生きてやがった?) ハスフェルは疑問に思った。
魔物達が必死になって探す者など見当もつかない。
「まさか“救世主”?」
自分の言葉に苦笑する。
目の前で死んだ者だ、見紛う筈も無い。
物静かで落ち着いた雰囲気で、あまり話したことはなかったが優しい声だったのを記憶している。
同じくらいの齢で散った“救世主”。名前は確か・・・
その時、視界に小さな人影が映る。
それは大きな樹の根元に膝を抱えて震えていた。
(女の子か?)
近づき、声を掛けようとしたが先に目が合う。
「あっ」 ハスフェルは思わず声が出る。
その顔は今し方、心の中にあった顔。
「アルソリュート・・・」
ハスフェルの口から自然とこぼれた名前は、“救世主”のそれであった。