インカレ直前合宿
インカレ3週間前に京東大学はインカレが行われるコースを走る事を中心とした合宿を長野で1週間行った。その合宿には唯も参加が許された。
唯は1週間自転車に専念出来る環境が嬉しくてたまらなかった。以前は食事をしたり歯を磨いたりするのと同じように、自転車に乗る事が毎日の習慣だった。だからそこに特に喜びも感じる事は無かったが、自転車に乗る事を制約されている今はその時間が嬉しくてたまらないのだ。
合宿初日、和也は唯がいい顔になってきたなと感じていた。チームでの練習が終わってからも、自主練をやっている唯を見て、初めて和也は唯にこの合宿での課題と自主練の中に組み込んで欲しいメニューを与えた。
チーム練の内容もかなり厳しく、その上に和也に与えて貰ったメニューを行うのはキツかったけれど、頭が痛くなる勉強からも解放されて、ひたすら乗る事に打ち込めたので、唯は翼が生えたようにイキイキと自転車に乗った。
毎日朝から晩まで好きなだけ自転車に乗って、唯は日焼けの色がどんどん濃くなっていくのと同時に日に日に走れるようになっていった。
合宿最終日のトレーニングは乗り込みからインカレコースに入り、疲れた状態で最終局面を戦える為の追い込み練習が行われた。
灼熱の太陽は容赦なく彼らを痛めつけていく。
周回コースでは、選手間の力の差が出てバラバラになっていったが、唯は先頭を引く時間こそ勝より短かったものの、最後まで勝から離れずに2人でゴールした。
勝も唯も合宿最終練習を出し切ってゴールした。
和也が2人を呼んだ。
「よーし、いいトレーニングが出来たぞ。勝は予定通りの仕上がりだ。これで終了。
しっかりとクールダウンしながら全員が集まるのを待っていてくれ。集まったらゆっくり足を回して、宿に戻っていてくれ。
必要な栄養補給をしたらシャワーを浴びて休め。
ここでのリカバリーは大切だからな。
オレは唯をもう少し走らせてから1時間後位に戻る。
頼んだぞ。」と言って勝を見送ると唯に向かって言った。
「唯、もう一歩前進出来るぞ。やるか?」
正直、唯はもう今は走れる状態にないと思っていたが、ここはチャンスなんだと感じた。
「はい!お願いします!」
望む所だ。やってやろうじゃないか。
京東大学に入って、初めて和也が唯に厳しいトレーニングを課した。
「コースをあと2周する。1周目はバイクで並走するオレの指示通りに走れ。2周目は実戦。インカレの最終周だと思って走れ。オレが乗っているのはバイクだと思うな。A選手とのマッチレースだ。オレは唯が追いつけないような速度では走らないから、最後迄諦めずにA選手を追い抜いてゴールしろ。」
と言って、和也はトランシーバーを唯に持たせた。
唯は覚悟を決めてスタートした。
しかし、身体が思った以上に動かない。無理矢理スピードを上げようとする唯の耳元に和也の冷静な指示が響く。
「走れなくて当然なんだ。走れない事に腹を立てるな。力まずにいこう。もう少しスピードを落としていいからペダルにしっかり力を伝える事だけ意識していけ。」
唯は指示に従いながら、自分の走りに集中していく事が出来た。
「いいぞ。その感じで。楽に楽に。だんだんいい感じになってきたぞ。ペースはそのままでアップダウンは上手くリズムに乗せていけ。」
和也はあの風谷唯の走りが少しずつ戻っていく感じが堪らなく嬉しかった。
「そうだー。風谷唯が戻ってきたぞ。最終周に入る前の最後の上りは力まずに気持ちいいリズムで行けばいいぞ。勝負は最後の一周だ。疲れている事は忘れて勝負に集中しろ。オレはA選手だ。指示は出さない。実戦で行くぞ。」
唯は最初の一周で身体が随分動くようになってきて、最終周の勝負にワクワク感を感じ集中力がグッと高まった。スタートゴール地点を過ぎると和也のバイクA選手のアタックが始まった。
集中していた唯はしっかりとついていく。
その後、A選手はスピードを緩めたり、唯を突き放したり、そんなA選手と唯は先頭交代しながら走ったり、必死に追ったり実戦さながらの走りが続いた。
後半の下りからの平坦でA選手が遂に本気を出した。唯との差は一気に開く。
さあ、ここからだ。追いつき追い越す事がミッション。和也さんはオレが出来るギリギリの所で走る筈だ。和也さんの想定に絶対負けない。
身体はまだ動く。
A選手をしっかりと見据えて、その距離を少しずつ縮めて最後の1.5kmの上りに入った。
風谷唯の走り、その走りを見ながら最後は唯が少しだけ先着出来るように和也はスピードを少し緩めていった。
残り200mで唯がすぐそばまで近づいてきたので、和也はもう少しスピードを緩めて唯に抜かさせようとそのまま走り続けた。
唯は喘いでいた。まるで向い風でも吹いているかのように。
和也は極端にスピードを落とす事も出来ないのでそのまま先着してしまった。
5m程離れて唯が「くっそー!」とハンドルをこぶしで叩いてゴールした。
喘ぎ喘ぎ「たれた。もがききれなかった。」と悔しそうに呟いた。
勝はバイクに乗ったまま、今にも止まりそうな唯の背中を押しながら言った。
「あと少しだ。風谷唯が戻ってきたぞー。その顔、その目、あと少しだ。」
唯は頭が朦朧として全身が痺れたような感覚を懐かしく心地良く感じながら、顔を上げて和也の目を見て笑っていた。
「和也さん、ありがとうございました。」
2人はそのまま、和也は時々唯の背中を押してやりながらゆっくりと宿舎に帰った。
そしてその夜、ミーティングが行われた。
和也からインカレについての話があった。
「インカレまであと2週間。最終的な出場メンバー発表と細かな作戦は大会前日に言うけれど、現時点での構想を話しておこうと思う。」
和也は補欠に回って貰う3名の名をあげ、メンバーの中から体調を崩す選手が出る可能性もあるので、今回補欠に名前が挙がった選手も最後迄出場するつもりで調整するように伝えた。
考えられる展開、予想される事、大会までの過ごし方などを話した後にうちのチームはどう闘うかという話をした。
「狙うのは個人優勝。インカレは団体総合が重視されがちだけれど、俺はロードレースの醍醐味はやはりチームが一丸となってでエースを勝たせる所にあると思っている。それは日頃から常々言ってきているから皆も解ってくれていると思う。
皆で頂点を取りに行くぞ。
それと一つ、おまけというか、おまけという割には大きな意味があると思うが、今回の大会での上位3人に入ればU23の日本代表として9月中旬から1ヶ月間ヨーロッパに派遣されるらしい。
俺は出来ればここに、勝と唯の2名を送り込みたいと思っている。
しかし、
優先させるのは頂点だ。
勝か唯で頂点を勝ち取る。」
「勝か唯で?」
「ダブルエース?」
一瞬、勝の視界が黒一色になり、「ガーン!!」という文字が浮かび挙がった気がした。
「オレがエースで唯がアシストじゃないのか???」心の中で叫んだ。
「勝か唯で?」
「ダブルエース?」
唯は自分の耳を疑った。
すぐさま口から言葉が出た。
「勝さんで勝つんじゃないんですか。オレ、インカレのタイトルにも興味無いし、今の力で世界の中で闘いたいとも思えない。オレ、アシストします。全力で。勝さんの。」
和也は言った。
「まあいい。レースは何が起こるか解らない。レースを走ってレースの中でお前らが組み立ててくれればいい。レースになったら全てお前らに託す。
どちらかが頂点を取れ。
潰し合いだけはするな。
まあ、何とかなるっしょ。はっはっはっ!」と笑った。
唯も思った。「まあ、何とかなるっしょ。」と。
これは和也が考えに考え抜いて立てた作戦であった。
単純に勝がエース、唯はアシスト。本当はその方が良いかもしれないと何度も何度も思い直した。
しかし、どうしても彼らに乗り越えて欲しい物があった。
唯がアシストして勝で勝てるかもしれない。ただ、それは自分が本当に求めている物では無いような気がしてならなかった。
何がそうさせるのかは解らなない。ダブルエースがそれを解決してくれるのかも解らない。
しかし、勝と唯がこのレースで突き抜ける可能性があるとすれば、この難しいダブルエースに挑戦する事だと感じたのだった。
下手をすれば潰し合いに成りかねないが、和也はそこに掛けてみる事にした。