ロード選手として
これまでは、ただただ走るのが嬉しくて楽しくて走っていた唯だったが、大きな夢が出来たその時から自転車の乗り方が変わった。
唯はロード選手としての道のりを歩み始めた。
近くにあるバイクショップのチームに入って日曜日はチーム練習に参加。大人達に混ざって必死に付いていった。
平日は学校が終わってから一人で練習していたので、日曜日が楽しみで仕方なかった。
そこで唯はどんどん力を付けていって、中2の時には三村和也の眼に焼き付くような走りが出来るようになっていた。
中学卒業後、唯は和也の母校の自転車部に入ったが、その頃には本場のヨーロッパに渡って活動したいという気持ちが強くなっていた。
唯の本気度を見抜いていた顧問の先生は、ヨーロッパで活動する国内チームのコーチと繋がりがあったので、コンタクトを取って色々と調べてくれた。
唯の父親は一人息子を海外で生活させる事は不安だったが、息子の情熱に押された。
海外に行くにあたって唯と父親は1つだけ約束を交わした。
それは、向こうに行ったらジュニア最後の年の世界選手権が終わる迄は日本に帰らずに向こうで頑張ってやるという事だった。
唯は半年程で高校を辞めてロードレースの本場フランスに渡り、フランスのハイスクールに通いながら、そこそこ名の知れた自転車クラブチームで活動を始めた。
唯は英語もフランス語も全く喋れなかった上に、生活習慣も、レースのレベルも、何もかもが日本とはまるで異なる環境の中に一人放り込まれた。
本場ヨーロッパで走るというのはどういう事なのか。
いくら日本で強い選手でも、足がある選手でも、海外で成功しないケースが殆どだ。
レースレベルが日本と全く違うのは承知の上だが、言葉や生活習慣の壁にやられる選手は多い。
日本にはないストレスにやられてしまい、トレーニングやレース以前の問題で心身共に疲れてしまう。
ごく限られた選手ではあるが、海外のチームで活躍出来る日本選手が出てきたお陰で、以前よりは日本選手も見下されなくはなってきたが、それでもヨーロッパの選手と同等の扱いはしてもらい難い。
本場で走るのならば、自転車選手としての身体的能力以外に、順応する力や適応する力、図太さやタフさなどの能力が問われる。
唯にとっても何もかもが解らない世界だったし、初めのうちは失敗だらけだった。
それでも唯はその場の空気に溶け込む力、風を読む力に長けていた。
言葉が通じない動物達と同じ空間を楽しく過ごせる彼にとって、言葉の壁はさほど問題にはならなかった。
赤ん坊が言葉を覚えるように、誰かの言った言葉をひたすらリピートしながらスルスルと言葉を覚えていった。
上手く走れなくても、唯はどんな時もニコニコしていたので、煙たがられる事はなかったけれど、チーム員達からはあまり相手にはされていなかった。
しかし、唯の強みはその「目」。唯の目力を見て、監督やコーチは唯の可能性を伸ばそうとしてくれていた。
そしてあるレースがきっかけとなって、チーム員全員の唯を見る目が変わった。
小さなレースではあったが、アップダウンを多く含む上りのキツイ山岳コースのレースで、か弱そうな日本人の逃げを泳がせた集団を尻目に、唯は逃げ切り優勝を果たしたのだ。
唯には置かれた環境で能力を発揮する力があった。
その日から、唯は日本人としてではなく、立派なチームの一員として見られるようになり、皆と対等な立場に立つ事が出来た。
実力の世界。実力があればきっちりと認めて貰える世界がここにある。
唯は「本場」を楽しんでいた。勿論レースでは苦しんでいた。同年代の選手とは思えない力強さと層の厚さ。ここから抜きん出る事無しにツール・ド・フランスに繋がる道はない。しかし、この道は確実にツールへと繋がっているという実感が持てて、その為にやらなきゃいけない事は全て「苦しい」と思わずにやっていく事が出来た。
あの日がくるまでは・・・