風谷唯という少年
風谷唯。
幼い頃から活発で明るい子だった。外で遊ぶのが大好きで小学校に入ると同時にサッカーのクラブチームに入った。
チームが負けてもそれ程悔しいとは思わなかったが、自分が出来なかったりミスしたり、そういうのが悔しくて、涙を流しながら必死に練習するような少年だった。
喜怒哀楽が激しいというか、感情が豊かというか、そのまま表に出てしまうというか、子犬のような純粋な少年だった。
子犬といえば、唯は動物が大好きだったし、妙に動物に好かれる少年だった。近所にいる犬や猫、野鳥達は唯のそばに寄ってくる事が多かった。
言葉で会話するわけではないけれど、同じ空気感の中で過ごしているような、ほんわりとした空間がそこに出来るのだった。
そんな唯少年がある時を境に別人のようになってしまった。
小学5年生の時に母親を突然の事故で亡くし、そのショックがあまりにも大きくて幼い少年の心を閉ざしてしまったのだ。
兄弟もいなくて、唯は父親と2人暮らしをしていたが、ただ家事を手伝い、ただ学校に行き、サッカーもやらず、笑いも泣きもせずに淡々と日々を送る毎日が10ヵ月位続いた。
見かねた父親は、唯が6年生になった夏休みに一台のロードレーサーを買い与えた。
もともと父親は大学時代に自転車ツーリング部に入りランドナーで全国あちこちを走り回っていて、レースに出場する事は無かったが、今もロードレース観戦は大好きだ。
夏休みの一週間を使って父親は唯を連れて長野の山々を走る事にしたのだ。
父親は家の倉庫に眠っていたランドナーを持ち出し、唯の真新しいロードレーサーと2台を車に積んで長野へと向かった。
唯が買って貰ったロードは高級な物では無かったが、真っ白いフレームのそれを唯はとても気に入って早く乗りたくてしょうがなかった。
初めてロードに乗った日。
今迄感じた事のないそのときめきに唯は一瞬でロードの虜になった。
肌で感じる風。自分が風を切り裂いていく感触。流れる景色。高鳴る鼓動。自由。どこまでもどこまでも、遠くへ遠くへ自分の脚で行きたくなった。
唯は一週間、父親と一緒に長野の山々を走り回って、以前の笑顔をすっかり取り戻した。
長野で走っていると、時々野生動物に出くわす事があった。シカやキツネ、普通は人前に殆ど姿を表す事がないウサギやリスを唯は何度か見た。
ある時などキツネに先導されるように20分位一緒に走り、今迄に感じた事のない喜びがこみ上げてきたのだった。
お陰でちょっと迷子になって、父親を心配させたが、父親は以前の唯が戻ってきた事に安堵のため息を漏らした。
長野から家に帰ってからも、夏休みは一日中、学校が始まっても学校から帰るなり夜遅くまでロードを乗り回した。
無気力だった10ヶ月間がウソのように、唯はイキイキと毎日を過ごした。
唯が中学生になった6月、父親は唯をレース観戦に連れていった。
国内で行われる最も大きな重要な大会。「全日本選手権」
ここでチャンピオンになった選手は1年間、国旗をあしらったチャンピオンジャージを着用してレースを走る事となる。日本一を掛けた争いは毎年沢山のドラマが生まれる。
この年の全日本はアップダウンの激しい一周10kmのコースを20周する厳しいサーキットコースで行われた。
このコースの最高地点からはスタートゴール地点と周回中の選手達の姿を何回も見る事が出来る。唯達はそこに陣取ってレースを観戦した。
唯にとっては初めて観るロードレース。その速さ、美しさ、熱気に圧倒された。唯達が見ている上りでいつも先頭に立ち、グイグイと上っていく選手がいた。
彼が唯の前を駆け抜ける度に、唯は熱い風を自分の肌に感じていた。「すげー!」
沿道の人達が「フミヤ!」と応援してたから、唯はその選手がフミヤ選手だと解って一緒になって「フミヤ!」と叫んだ。
フミヤ選手は前半から何回も逃げを試み、数人で抜け出しては捕まってを繰り返していた。残り3周を切った所で単独で抜け出し、独走に入った。
しっかりと前を見据える眼。苦しさに顔を歪めながらも全身が躍動し、唯の目の前を駆け抜けていく。
唯は興奮して叫んでいた。「フミヤ〜!行け〜!フミヤ〜!」
父親に向かって嬉しそうに大声を出している。
「フミヤ、カッケー!父ちゃん見たか?あの目。きっと優勝するね!」
最終周もフミヤは単独で唯達の前を駆け抜けた。しかし、後ろから数名の集団が凄い勢いで迫ってきていた。
「フミヤ〜!行け〜!もう少し!」
唯はその場所から小さく見えるゴール地点を目を凝らして見ていた。唯の祈りも虚しく、フミヤ選手はゴール目前で数名の選手に呑み込まれ、両手を高々と上げたのは別の選手だった。
唯の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちていた。涙を必死に手で拭いながら父親に言った。
「一番強くて、一番カッコいいフミヤが何で一番じゃないんだ!」と。
父親はボソッと言った。
「これもロードレースだ。」と。
唯は叫んだ。
「そんなのイヤだ。
オレは、一番強くて、一番カッコよくて、一番でゴール出来る選手になる!」と。
それから僅か数日後。
唯は初めて父親と一緒にテレビでツール・ド・フランスを観た。
何とそこには、あのフミヤ選手が唯一の日本人選手として出場していた。
唯は毎日、父親にロードレースの事を教わりながら、興奮してテレビ観戦をし、集団の中のフミヤを探してはその動きを追って応援した。
フミヤはエースの為に身を粉にして働くアシスト選手。チームカーまでボトルを取りに下がっては、背中やお腹に沢山ボトルを詰め込んでチーム員に渡しに行ったり、エースの風除けになって集団の前方に上がって行ったり、エースが力を温存出来るように、自らアタックして集団から逃げたり。
「逃げ」はカッコいい。テレビに大きく映し出されて、フミヤの走りをじっくり観る事が出来る。
「フミヤ、カッケー!」
唯の瞳は輝いていた。
ツール・ド・フランス最終日。
3週間に渡るステージレースの最終局面はパリシャンゼリゼ通りを周回する。
なんとフミヤは集団から一人抜け出し、最終周回まで逃げ続けた。
一人物凄い風圧と戦いながら、その表情は苦痛と戦っているように歪んでいたが、真っ直ぐ前を見据えた目は嬉しそうでもあった。
その時、唯の父親が声を出した。
「あれ?地震?」
天井から吊り下がっている電気の紐が揺れていた。
振動は無いみたいだったので父親は不思議だなと思っていた。
唯は父親の声にも気付かずテレビの画面に釘付けになっていた。
フミヤは逃げ切る事は出来なかったが、唯は大満足だった。
「フミヤ、カッケー!」
唯は泣かなかった。
その瞳はキラキラと輝いていた。
「オレ、いつかフミヤと一緒にツール・ド・フランスを走る!」
ツール最終日フミヤは敢闘賞に輝いた。