退院
勝は3月末に退院し、4月から新しい社会人生活をスタートさせていた。
唯は8月末に退院し、9月にリハビリセンターに入所する事になった。
凛は空を見上げる事が好きだった。特に夜勤の時、自分の時間が出来た時にちょっとだけ外に出て星を見ると心が癒された。
お月様も大好きだった。
月の満ち欠けを見ながら大切な日が近づいていく事を実感してその日を迎える。
今までも史也の大切なレースはそうして迎えてきた。
この月がだんだん膨らんできて満月になった時にツール・ド・フランスが開幕する、とか。
唯の退院の日は新月だ。
ちょうどその半月前の満月の日、凛は唯の退院までの日数を数え始めた。
毎日毎日月を見た。
唯がこの病院に運ばれてきたあの日からおよそ1年。
一つ一つの情景が浮かんできては消えていった。
唯はよくここまできたな。
まんまるだったお月様が半分になった頃から祝福の気持ちと共に切ない気持ちが少しずつ増していった。
お月様が少しずつ細くなって細くなって、見えなくなる日が唯の退院の日。
昔の人はきっとこんな風に時を数えて出発したんだろうな。
夜明け前、そこに月があると思って見ないと見えない位のほっそいほっそいお月様。
なんて美しいお月様・・・凛はこんなに美しいお月様を初めて見た気がした。
そして唯の退院の日。
御世話になった先生方が唯のお見送りをしてくれた。
この日、凛は当直ではなかったが病院に出向いていて、最後に小さな花束を唯に差し出し、「退院おめでとう。」
とだけ言った。
可愛い花束だった。
「本当に色々とありがとうございました。」と唯は深々と頭を下げた。
嬉しかった。
色々言いたい事はあったけど、他には何も言えなかった。
リハビリセンターに向かう介護タクシーの中で、唯はずっとその花束を見ていた。凛の優しい声が聞こえてくるようだった。
花束の奥の方に小さな紙切れが折り畳まれて入っていた。
「おや?何だろう」と思って取り出そうとしたが、手の自由が効かずに取り出す事が出来ない。
「まっ、いっか。リハセンターに着いたら、誰かに取り出してもらおう。」と思った。
しかし、気になって仕方がない。
「そうだ。信号が赤で車が止まったら運転手さんに頼もう。」と思った。
そんな時に限って、信号はいつも青、車は止まる事なくスムーズに走っていく。
どれ位待った事か、ようやくそのタイミングが来て、紙切れを取り出して貰った。
そこには綺麗な字で何か書かれていたので、唯はドキドキしながらゆっくりと読んでいった。
【私の大切な人、風谷唯様
出逢いをありがとう。
これからも唯君の事、ずっと応援しています。
ごめんね。何も言ってあげられないから、この小さな涙色の花束を受け取ってね。
凛より】
唯の心に美しい音楽が流れた。これでいいんだと思った。自分はもっともっと頑張れると思った。
「ありがとうございます。」心の中で呟きながら唯はもう一度深々と頭を下げた。




