長い夜
消灯時間。
それは、ここの病室で過ごす人達にとって、長い長い地獄の時間の始まりだ。
昼間はまだマシだ。明るい病室。
先生や看護師さん、時々お見舞いに訪れる人もいて、話し声もして気を紛らわす事が出来る。
でも、消灯時間がやってきてカーテンがしっかり閉められ、電気が消されるとそこは闇の世界だ。
電気が消されても眠れやしない。色んな思いが頭を駆け巡り不安になる。身体が痛くて体勢をかえたくても自分の身体を動かす事も出来ない。時々どこかの病室で変な声がしたり、看護師さん達が慌ただしく動く足音が聞こえたり。少しウトウトしたかと思うと怖い夢を見てうなされたり、ハッと目が覚めたり。
毎日毎日そんな時間をやり過ごすのは至難の業だ。
唯がこの病室にやってきてから、勝は夜少し眠れるようになっていたが、4日目の夜は何か寝苦しく、全く眠りに落ちる事が出来ないでいた。何だか熱っぽく、ナースコールを押そうか、もう少し我慢しようか迷っていた時に唯がナースコールを押した。勝は「ラッキー」と思った。自分で押すのは少し気が引ける。唯の用事が済んだらこっちにも寄ってもらおうと思った。
すぐに看護師さんがやってきて、唯のカーテンを開けた。
その日の当直は凛だった。
「どうしました?」
唯が小声で話すのを勝は聞いていた。
「すみません。ちょっと辛くって。布団が重くて。どかして貰えますか。暑いし、身体も痛い。ちょっとだけ体勢変えて貰えますか。」
「オレ、情けないです。一人で何も出来ない。布団どかす事も、体勢変える事も、涙が出てきても涙ふく事さえ出来ない。恥ずかしいです。」
続けて看護師さんの小声。
「あ、風谷君、また涙流してる。
情けなくも恥ずかしくもないです。よくここまで来ました。風谷君の精神力、回復力、先生達皆んなが驚いてます。風谷君は我慢強過ぎるから、君の身体が可愛そうな位。我慢しないで泣きたい時は泣けばいいし、ナースコールも気にせずもっとバンバン押していいんだよ。ほら、身体がこんなに熱くなってる。今座薬を持って来るから待っててね。」
看護師さんの足音が小さくなり再び大きくなる。
処置が終わったようだ。
「すみません。」
と唯の声。
すると凛が言った。
「すみません、は辞めよう。
すまなくないのよ。
すみません、すみませんを繰り返していると、本当に自分がすまない事をやってるように思えてしまいますよ。
そういう時は、ありがとうという言葉を使いましょう。
その方が私も嬉しいです。」
唯は素直に頷いた。
「ありがとうございました。」
と唯の声がして看護師さんの足音が消えていった。
勝はそこにあの「ロードレーサー風谷唯」の姿を見たような気がした。いつもヘラヘラしてるように見えるけど唯も自分自身と必死に戦っているんだと思うと涙が溢れてきて、声を出さないようにするのに必死で、とても看護師さんを呼び止める事など出来なかった。
一方、病室で気丈に振る舞っていた凛は、廊下に出ると涙が溢れてきてしまって、そのまま非常口から出て少しの間外の空気を吸った。
空には満天の星が輝いていた。
凛はあの日の事を思っていた。
史也に言われて星に懸命に祈った日々。
唯の命が助かって、凛には星が以前よりずっと美しいものに思えるようになった。
唯が生きている事の嬉しさと、唯の身体が動かない事の悲しさと、唯の我慢強さと頑張りと、健気さと、色んな思いが交錯して溢れる涙。
涙に濡れた頬を撫でる優しい風と、キラキラ輝く星たちが凛の心を癒してくれるようだった。
「お願いです。唯君を少しでも楽にしてあげて下さい。少しでも動けるようにしてあげて下さい。」と再び星に懸命に祈った。
唯の姿に史也の姿が重なった。
史也に言われている気がした。
「お前がしっかりしろ。」と。
そうだ、私がしっかりしなきゃ。
凛は背筋を伸ばして、涙を拭き、ナースステーションへと戻っていった。
唯の方は座薬を入れて貰うと少し楽になってウトウトとまどろみの世界に入っていった。
あの看護師さんの声はどこか聞き覚えがある優しい響きを持っていた。
「ありがとう」という言葉がスッと出てくるようにしたいな。
あんな看護師さんみたいな優しい彼女がいたら幸せだろうな。
きっと彼女には素敵な彼氏がいるんだろうな。
オレはこんな身体になっちゃったから、彼女なんて一生出来ないんだろうな、なんて考えている自分。
「そんな事ないよ。そんな事ないよ。」
「私はいつも見守っているよ。」
「貴方の体はもっともっと良くなるよ。」
優しい声がこだまする。
「ほんとかな?」
って考える。
そっと手を動かしてみる、そっと足を動かしてみる、そっと立ち上がってみる、そっと歩いてみる、「なんだ、出来るじゃん」
と、突然膝が崩れ、ビクッとして目が覚めた。
夢か・・・
ちょっと悲しかったけど、何だかちょっと嬉しくもあった。
明るい朝がやってくると、唯は何事も無かったように「おはようございま〜す!あー、やっと朝が来た!」と元気な声を出していた。
寝たきりの状態でもリハビリは始まる。残された機能を最大限に生かせるように。生きる可能性のある機能を出来るだけ早く少しでも目覚めさせられるように。
脊髄を損傷すると起立性貧血という現象が起きる。
寝たきりにならない為には、まずはこれを克服しなければならない。寝ているベッドは水平位置から電動で足側を上げていく事も頭側を起こしていく事も出来る。寝ている状態のまま頭側を起こしていって座る姿勢が保てるようになれば、出来る事がぐんと増える。
しかし、脊髄損傷の人達は頭側を起こしていくと頭の血が下がってるしまって貧血状態になり意識を保てなくなる。
座れるようになる為に、ほんの少しずつベッドの角度を上げていき、ほんの少しずつ保てる時間を延ばしていけるようなリハビリをしていく。
起立性貧血の症状は勝よりもずっと唯の方が重かった。初めはベッドの角度を少し上げただけで意識が飛びそうだった。それでも、脚を圧迫する事によって症状を軽減させたりしながら、唯は頑張った。普通の人ならすぐに意識を失ってしまうような状態でも、唯は意識を繋ぎ止めておく事が出来た。ロードレースでどれだけの我慢をしてきた事か。その身体には落車して例え骨が折れていてもそのまま走り続けてしまうような、一般の人には考えられないような我慢強さが備わっている。
勝もこのリハビリに苦しんだが、唯は勝の比では無い。勝自身やはり意識を失ってしまう事は怖くてギリギリまで我慢出来なかったし、このリハビリは出来る事なら避けたいリハビリだった。
そのリハビリを時には笑いながら、リハビリ以外の先生や看護師さんが来るたびにお願いしてやって貰っている姿を見て勝は驚いていた。
勝と唯は次第に打ち解けていき、色んな話をするようになっていった。ある時、唯は勝にこんな事を言った。
「先生には一生寝たきりって言われたけど、オレそんな自分を想像出来ないんです。想像出来ないからそうはならないと思うんです。歩く事は無理かもしれないけど、車いすに乗れる位にはなれると思ってます。勝さんを見てるからかな。遅くってもいいから早く自分で風を切れるようになりたい。風切りて〜!
でも、考えたくはないけど、もし、もしも例え寝たきりになっちゃったとしても、目もみえるし聞こえるし、くだらない事喋れるし、これから色々出来る事あるような気がします。まあ、何とかなるでしょ。
でもやっぱり、風切りて〜から、オレ、リハビリ頑張っちゃいますよ。」
時間はかかったが、唯は座位を保てるようになり、1ヶ月後には車いすに乗せて貰って押して貰いながら院内を散歩出来るようになっていた。
車いすに乗せてもらって風を感じた日。
唯は風を感じられる事がどれ程幸せな事なのかを知った。自分は本当に風を感じる事が好きなんだと思った。
そして必ず自分の力で風を切れるようになる事を誓ったのだった。




